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何の脈絡もないSSばかりのページです。実は名前変換にも対応済み。
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6月下旬より続けていました1日1セイボリーは文字数を大幅に落としてこちらへ移行しました。

(7/20)SSにも満たなさそうな会話文、極端に短いもの、本編に組み込む予定のない突発エピソード、などはタグ「ちりがみ」に格納します。タイトル冒頭には(塵)と付けます。


▽ 硬度7で全てを斬ってみせよう

2020.10.20 Tue * 19:06

 彼女には少し、植物に厳しめなところがあった。
 大通りに植えられた常緑樹の葉っぱを笑顔のままにむしり取り、手の中でぐしゃぐしゃに潰してから少し冷たい風に流していくのだ。さわさわとアスファルトに散る緑を青年は少し憐れに思う。そうしたささやかな残虐性で己を装飾する彼女のことを、誰よりもその死臭に囚われてしまっている存在のことを、青年はその緑よりは強く、憐れに思う。

「僕は、何か気に障ることをしているかな」
「いいえ、そんなこと。急にどうしたんですか? 私がこの通りを歩くときはいつだってこうしていること、貴方はもうずっと前から知っているはずなのに」

 まだ彼女に馴染んでいない白衣は、華奢な彼女の肩を少し大きく見せている。デート、などと浮ついた言葉を免罪符にしてこの町へと頻繁に訪れ、彼女が魂を削るように書いている論文の経過を見るのはとても楽しい。下手な小説や漫画よりずっと、彼女の論文は「生きている」と感じる。科学的根拠に基づく書物はもっと無機質で在れと多くの人が説くだろうが、青年は彼女の文章の節々からにじみ出る「祈り」が、どうにも人間らしくて、嫌いではなかった。彼女のそうした人間性を愛した身としては、その魂を引き継いだ文字の一言一句さえ、愛おしくないはずがなかったのだ。

「そうだね、少し驕りが過ぎたようだ。今日くらいは忘れてしまってもいいだろうに、と思ってしまうあたり、僕はまだ貴方への理解が足りないのだろうね」

 研究を愛する科学的で人間的な精神は父譲り、誰かを導く人になりたいという思いは母譲り。どちらも優しい人だから、あの子もとびきり優しくなってしまうに違いないわ、と眉を下げつつ歌ったのは青年の母である。事実彼女は優しかった。この年下の少女に青年が傷付けられたことはただの一度もなかった。苦しめられたことは……まあ、あったかもしれないけれど、それだって彼女の救いようのない優しさに比べれば、可愛いものだと言わざるを得なかった。

「……それはもしかして、焼きもちですか? 誕生日くらい自分のことだけ考えていればいいのに、まだお前は心の中にあいつを招くのか、って、貴方は暗に私を糾弾しようとしている?」

 彼女は足を止めた。すぐ隣にはまたあの木があった。愛と死を象徴するこの花は、今年の寒波と大雨により既に散ってしまっている。本来なら彼女の記念日に一番、濃い香りを放つはずだった。だから今年の誕生日は真に、彼女だけのものだ。カロスの救世主に奪われることのない、あの死臭に塗り替えられることのない、彼女だけの誕生日。
 どうか喜んでくれないか。今日は貴方が生まれた日なんだ。一緒に楽しんでほしい。喜んでほしい。今日が「あいつ」の命日であることなど、思い出しもしないで。

「貴方を責めるつもりはないよ。でも貴方がこんな日にさえ、純粋に、愛されることだけを喜んでいられないというのは少し悔しいね。この場合、責められるべきは、……ああ、ならば僕もこうすべきかな?」

 彼女のすぐ隣にある葉っぱに手を伸べて、ぐいと握りしめた。ガサガサと乾いた葉の擦れる音を大きく拾いすぎたらしく、彼女は肩を大きく跳ねさせて左耳を塞いだ。青年はその手を取って、引き剥がした。

「ほら、よく聞いて。これは今日の音だよ。貴方のために鳴らす音だよ」
「……や、やめませんかこんなこと。貴方らしくない」
「そうとも僕らしくない。僕は植物が好きだからね、本当は理由もなく痛めつけたりなんかしたくないんだよ。でも今日は特別だ。今日だけだよ、こんなことをするのは」
「……」
「貴方ならこの意味が分かるよね。僕を分析するのが得意な貴方なら」

 貴方が一番であると、他でもない貴方に知らしめたいから、僕はこの葉を潰すのだ。
 貴方が生まれてきてくれたことを喜ぶだけでなく、「お前がもう二度と蘇ってくれるなと祈る」ために、小さく砕いてアスファルトに散らすのだ。
 この木のことも、カロスの救世主のことも、僕は嫌いではない。でもそれらの存在が、今日という特別な日にさえ優しい貴方を苦しめるなら、僕も同じだけこの木のことを、あいつのことを、苦しませてみせよう。そうしたことを優しくない心で想える程度の愛であるのだと、どうにかして貴方に伝えてみせよう。
 いつか、届くときが来るのだろうか。それは次の瞬間であるかもしれないし、十年先かもしれないし、あるいは永劫届かないままであるかもしれない。早ければ早いほどいいと思った。けれど今この瞬間でなくてもいいかな、とも思った。不可視の想いの伝達がそんな生易しいものであるはずがない。易しくない方がきっといい。

「やさしくありませんように」

 大きく見開かれた目いっぱいに、微笑む青年が映り込んでいた。海の中に留まることのできる己が空色を、彼は少しだけ誇らしく思った。

「誕生日おめでとう。今日は貴方が一番幸せになる日だよ」

【13:17】(「青年」は24歳くらい、「あたし」がカフェで働き始めた直後のこと)

 

▽ 夜ばかりの国(USUM・未定)

2020.08.03 Mon * 21:17

(「悪魔が幸せそうに眠るから」のもう少し後、ちょっとばかし仲良くなってしまった二人)

「貴方も私と同じなんですね。此処ではない別の世界の人間で、挨拶の仕方さえぎこちなくて、この常夏にはきっと一生馴染めない」

 馴染めない、などというネガティブな言葉を歌うような陽気な心地で告げつつ少女は笑う。ミヅキではなく「私」と自身を称して、子供っぽくはあるがそれなりに綺麗な敬語を使って話す。ダルスにだけ見せる彼女の姿である。別の世界の人間である彼にのみ、彼女は「別の世界の私」を開示してくる。

「お前はカントーという土地から来たのだろう。それはこのアローラと世界を同じくしているはずだ。俺とは……事情が違う」
「違いませんよ。何も違わない。此処は私の世界じゃないんです。私は余所者、ずっと余所者。でも私、諦めませんよ。ちゃんとこの世界を私のものにしてみせます。ミヅキから、奪い取ってみせます」

 奪い取る相手、それはこの少女と同じ名前をしているので、ダルスはやはり眉をひそめて困惑を示さずにはいられない。その表情がこの子を楽しませることになると分かっていながら、彼にはそうすることでしか、彼女の情報開示を求められない。別の世界からやって来た彼は不器用だ。別の世界からやって来たと思い込もうとしているこの少女と同じくらい、いやもしかしたらそれ以上に。
 「ミヅキ」と「私」の違いが彼には分からない。おそらく本質としては同じなのだろうとは思っているが、それを指摘したところで彼女は認めようとしないだろう。ただ、彼女にはその「ミヅキ」を「私」の中に迎え入れたくない理由があるのだ。受け入れたくないがために、わざと呼び分けて、区別して、弾いているのだ。

『馴れ馴れしく話しかけるな! ミヅキはお前みたいな甘ったれた奴が大嫌いだ!』

 白い帽子の可憐な少女の手を振り払い、悪魔のような形相でそう告げていたあの姿を思い出す。誰もに憎悪を振り撒き、攻撃を怠らず、大嫌いと繰り返してきた彼女。排斥に余念のない彼女。けれどもダルスは知っている。彼女が排斥したがっているのは他の誰でもない彼女自身だ。正確には彼女が、彼女自身の一部であると認めたくない「ミヅキ」の運命、それに他ならないのだ。
 彼女は「ミヅキ」を排斥したがっている。自らの背中にべっとりと付いてくる「ミヅキの運命」が恐ろしくて、必死に振り払おうとしている。

「私は絶対に、ミヅキのように眠ったりしない」

 その運命の成れの果てはいつも「眠る」という行為に収束する。故に彼女は眠ることをひどく恐れている。目の下に黒く彫られた隈は奇しくもダルスと揃いの様相を呈していて、彼は密かにその事実を少し、ほんの少しだけ喜んでいる。

 生まれた時から太陽を知り尽くしているはずのお前の目にも、影があるのか。
 お前のような輝きを宿した子供が、よりにもよってこのような暗いものを拠り所とするのか。

「貴方も、太陽を奪い返したいんでしょう? 貴方の世界を在るべき形に戻したい。そのために此処へ来た。違う?」
「……訂正させてもらおう。かがやきさまを取り戻したいとは考えているが、そのためにこのアローラを暗闇に落とそうなどとは考えていない。この輝かしい土地を犠牲にしてまで光を手に入れたいとは思わない」
「ふうん、そうなんですか。ちょっとつまらないな、貴方も悪役だと思っていたのに」

 彼女自身がとっくに悪役、ヒールへと身を落としているかのような口ぶりである。悪者であることを喜んでいるかのような、ひどく嬉しそうな、眩しく暗い笑顔である。矛盾を孕み過ぎた複雑な輝きはダルスを混乱させる。当惑と不安と混乱の果てに、けれども彼は、この少女が自分のような余所者に対して寄せる「信頼」に似た何かを感じずにはいられない。お前が一緒にいて安心できるのは俺やアマモのような余所者だけなんだなと、そうした悲しい確信を抱かずにはいられない。
 ……いや、少しだけ嘘だ。悲しいだけでは在り得ない。ダルスは少し、ほんの少しだけ喜ばしい。

「お前が本気で望むなら悪役になってみせようか?」
「え?」
「お前と、二人きりの時に限るが」

 彼女の数少ない信頼の対象に自分が在ることを、彼は喜ばずにはいられない。

「ふふ、あはは! ダルスさん、根本からして間違っていますよ。悪役は、そんな優しいことを言えるように出来ていないんです」
「そうだろうか。『悪役』を自称するお前はしかし、俺と二人きりの時にだけ優しいような気がする」
「今は『オフ』なんですよ。憎悪と排斥を振り撒く悪役の私は休業中。だから貴方に優しくしたところで何の問題もありませんよね?」
「ではその悪役の看板、今は空いているということだな。俺が貰い受けても構わない訳だ」

 愉快そうに笑いながら、彼女は煤色の目を細める。本気で? と、その目は雄弁に問うている。
 さあ悪役のプロフェッショナルよ、どうすればいいか教えてほしい。お前の望むようになろう。お前の歪で寂しく悲しい信頼に足る悪役になってみせよう。どうせこれだって二人のうちに秘匿されるのみ、他の誰にも、太陽にさえ、知られはしないのだから。

「それじゃあ悪者のダルスさん? 貴方に奪ってほしいものがあるんです」
「何だ」
「今夜の私の、睡眠時間」

 時刻は夜の11時を回ろうかというところ。星と月の照る夜空は故郷の闇よりずっと明るい。悪役にはもう少し濃い闇が必要であろう。そう例えば、ミルクの一滴も入らない、コーヒーのような。

「エスプレッソ、にしておくか? 眠りたくないのならあちらの方が効果的だろう」
「ふふ、素敵な提案! 11歳の子供に勧める飲み物としては大外れですよ。でも悪役ムーブとしては完璧。それじゃあ行きましょう、私のダークヒーローさん!」

 最寄りのポケモンセンターへ続く道へと足を向け、少女は悪役の手を取った。太陽より眩しく月より冷たい彼女の目元、今日もこうして隈が濃くなる。夜はまだもう少しだけ、明けないままで、秘匿されたままであるべきだ。でないと彼女が笑ってくれない。

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▽ (塵)「Please show mercy, God.」

2020.07.20 Mon * 23:38

 ずっとお慕い申し上げておりました。貴女様に焦がれて生きてまいりました。貴女様はボクの憧憬の全てであり、神に等しい存在でした。サイキッカーとして振るったボクの読心も、ボクの未来予知も、貴女様の神秘を暴くには足りないのです。そうした高みにおられる方だと心得ています。それでも貴方様が人の形であることにボクは心から感謝申し上げたい。だからどうか、どうか、神様!

「貴女の慈悲をどうか貴女に」
「……ふふ、私に?」
「愛しているんです、貴女のことを。だからどうか愛してください、貴女のことを」

 この愛は破綻している。これは信仰である。神への信心である。それだけで十分である。ああ、にもかかわらずこの女性の形をした何者かは神にさえなってくださらない。彼女はイツキの神には決してならない。神の寵愛を受けるのはただ一人である。それがイツキでないことを既に心得ている。だからもう彼は、この神様の幸いを祈るほかにない。ああ、でも。

「ボクも青ければ、貴女に愛していただけましたか」

 揃いの青は神に愛される器の必要条件であり、この男では受け止めきれない。故に信仰であった。信仰とするしかなかった。それが彼女に示し得る愛の限界であったのだ。報われない想いを理屈付けるために、神という偶像は都合が良かった、それだけのこと。

(HGSSの世界にいるクリスさんが「異質=物語の外にいる存在」であるとぼんやり見抜いてしまっているイツキさんの話)

 

▽ (塵)どうかそのまま知らずにいてください

2020.07.20 Mon * 23:24

「わたくしがどうしようもない程に貴方を好きなことをどうかそのまま知らずにいてください」

 彼はいつでもそう思っている。彼女に対してそう思っている。尋常でない高さへと積み上がった愛は最早彼にさえどうしようもなく、ただ好きだという感情の認識だけが彼のものとしてそこに在る。過ぎる想いは人を盲目にする。それがかけがえのないものであることを彼も彼女も分かっている。分かっていながら彼はその想いを晒すことを恐れているので、今日も彼の愛した海は、自らに注がれる太陽の光の熱さを知らぬままだ。

「私が言えたことじゃないかもしれないけれど、あんたって器用よね。それだけ傲慢に愛しておきながら、それを知られたくない程度には臆病も忘れていないなんて」
「傲慢と臆病は存外容易く両立し得るものですよ、トウコさん。その両方に足を取られることを器用とは言いません。きっと不器用なんですよ、わたしも、彼女も」

「ワタクシがどうしようもない程にあなたを好きなことをどうかそのまま知らずにいてください」

 彼はいつでもそう思っている。彼女以外に対してそう思っている。尋常でない高さへと積み上がった想いのあれやこれを全て認めて、受け入れ、取り込んでも尚、仕方のない兄弟子さんだねと笑ってくれる相手など彼女以外にはあり得ないと確信している。過ぎる想いだけが彼を照らす。道の先にいるのは彼女ばかりである。この愛を周りに知らしめようとは思わない。彼はただ、彼だけが大丈夫だと思えていればそれでいい。

「私が言えたことではないかもしれないけれど、君はもう少し器用に生きた方がいいね。私に道を拓かせたその色で、君ならもっと多くの人に手を伸べられるだろうに、此処にばかり留まるなんて不器用のすることだよ」
「ハッ、ご冗談を! 凡人のワタクシに今更、そのような聖人めいた振る舞いが似合うとでも? 馬鹿げた気遣いはご不・要です。あなたは黙ってこのワタクシに、質の悪い兄弟子に執着されていればよろしい」

(上:初代誠実お化けシアとアクロマの話(シア不在)、下:二代目誠実お化けユウリとセイボリー)

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▽ (新連載、更新はまだ先ですが一部だけ紹介)

2020.07.01 Wed * 7:26

セイボリー:7さいのすがた 捏造過多 夢主≠主人公

 綺麗なブロンドがお日様に反射してキラキラと瞬いていて、羨ましく感じたことを覚えている。その頃の彼はまだあの丸い眼鏡をかけておらず、そのため大きな二つの水色はガラスに遮られることなく煌々とそこに在った。この町では宝石にまで足が生えて動くのか、などと思いさえしたのだった。
 彼が右手で宙を掴み、くいと手繰り寄せるようにすれば、触れてもいないのにドアがゆっくりと閉まっていく。町の人が見ようものなら一斉に褒めはやしにかかるであろう、見事な超能力だった。でもそんな異能の力について、当時ついぞ馴染みのなかった私は、

「それをやめて、気持ち悪い」

 このように、思うことしかできなかった。
 彼はその水色を益々大きくした。自慢としているのであろうその力について、僻みを受けたことはあっても嫌悪されたことなどついぞない、といった表情であった。ショックや憤りなどよりも、ただ純粋な驚きが勝っているように見えた。そして実際に「そう」であった。昨日教わった通りに、ふっと息を止めつつ目を閉じれば、彼の純朴な感情はそのまま私のものになってしまった。
 嫌だ、嫌だ。気持ち悪い。こんなものがなければ、私は此処に連れてこられることなんかなかったのに。

 頭の中に直接、私のものではない「心地」を流し込まれる感覚。物心ついた時から、当然のように使っていたこの力。それに「テレパシー」などという気味の悪い名前が付いたのがつい昨日のこと。「サイノウあるチカラのホゴのため」などと喚き立てた見知らぬ大人たちに、私の意思もお母さんの言葉も全て無視して力づくて連れてこられたのも、昨日のこと。大好きなお家に二度と戻れない。お母さんのご飯だって二度と食べられない。そうした事実を認めたくなくて夜通しずっと泣き続けて、疲れて眠ってやっとのことで目を開けたのが、ついさっきのこと。そんな矢先にこの部屋へと入って来た男の子は、あまりにもあっさりと自らの「心地」をこちらへと明け渡してきたのだった。

 昨日からの騒動とこの男の子は無関係。私がこんなところにいるのは彼のせいじゃない。分かっていても私はこの感情を、私のものではない「心地」が私の中にあるという状況を強く、つよく憎みたかった。慌てて息を乱暴に吐き出し、この心地を、おそらくは目の前にいる彼の心地を頭の中から追い出そうと努めた。

「えっ、ごめんなさい! これ、嫌いだった?」
「そうよ、好きじゃない。だからちゃんと次からは手でドアを開けて」

 彼は大きく頷いた。こちらが拍子抜けてしまう程の、あまりにも純朴な仕草だった。同い年であった私でも、いい子だなあ、と思ってしまう程度には、当時から彼は素直で純粋で誠実だった。
 けれどもその後の行動は少し面白かった。というのも、彼は自らの超能力で閉めたはずの扉を今度は再び手で開けて部屋の外へと出ていき、先程のそれをやり直すかのようにコンコンとノックをしたからだ。
 翌日以降の訪問を指して「次からは」と告げたつもりだったのだけれど、まさか今すぐにリトライを挟んでくるとは思わなかった。思わず笑い出しそうになっていると、扉を挟んだことにより少し曇りを含んだ彼の声が、聞こえてきた。

「入ってもいい? えっと……その」

 私の名前を呼びあぐねているのだ。困惑が扉を透けてこちらにまで飛び込んでくる。つい先程は不快だと感じたばかりだというのに、次に私の頭を満たしたそれはただ涼しく心地の良いものだった。
 きっと私が名前を伝えれば、彼は喜んでくれる。その甲高い声で私の名前を嬉しそうに告げてくれるに違いないのだ。そして実際、私にはそう「見えて」いた。

「私は××。どうぞ?」
「うん、じゃあ入るね、××」

 そっと扉が開く。彼の小さな手が、大事な宝物を包むようにぎゅっとドアノブを掴んでいる。そのままくるりと向きを変えて、同じように扉をゆっくりと閉める。パタ、と、おおよそ分厚い木の扉が閉まったとは思えないような、軽く優しい音がした。彼が尋常ならざる繊細な手つきで扉を動かしていたことが窺い知れる、とても静かな音だった。
 常日頃からものを「触れずに動かす」ことに慣れすぎている彼は、実物に触れる加減というものがよく分かっていないらしい。私はそう推測した。そして実際、私にはそう「見えて」いた。ドアノブというものに自らの手で触れる。そのことに対する幼い不安が私の頭に流れ込んでくる。不思議なことにもう一切、不快ではなかった。

「これでいい? 大丈夫? もう嫌じゃない?」
「嫌じゃないよ。でも……ふふ、今、やり直してくれるなんて思わなかった」

 思わず笑い声が漏れた。すると彼もとろけるようにその目と口に弧を描いた。どういった意味の笑顔なのかは、探りを入れる必要もなく「感情」としてやはり頭の中へと飛び込んでくる。歓喜、安堵、ほんの少しの……期待? いや違う、あれは、何だったのだろう?
 当時の私には分類しかねる感情もその中には含まれていた。けれどもこんなにも嬉しそうな顔の裏に隠した何かが悪いものであるはずがないと、出会ったばかりの男の子相手に私はそう確信してしまっていたのだった。それ程までに彼の「心地」は純朴で、裏表がなく、ひたすらに真っ直ぐだった。他のどんな人の「心地」を頭の中に飼っているときよりも安心できた。彼の魂の清さを、私は私のずっと奥深くのところで信じていた。この日から、ずっとそうだった。

(七夕までに更新完了させたい)

 

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