SS

・ジャンルはすべてポケモン
・短編未満、連載番外、if、パロ、なんでも詰め合わせ

SSにも満たなさそうな会話文、極端に短いもの、本編に組み込む予定のない突発エピソード、などはタグ「ちりがみ(塵)」に格納します。


▽ 比翼と連理

2019.02.14 Thu * 9:56

(参考:「連理に通る悪事」) 「立派ね、とても」 トウコちゃんらしくない言葉に私は思わず目を丸くしてしまった。彼女もその「らしくなさ」を自覚していたらしく、少しばかり恥ずかしそうに肩を竦めてみせた。 12歳という、何処からどう見ても子供であるその年齢で、人生の大きすぎる決断を軽率にした私のことを、何故だか彼女は立派だと評してくれた。 「私は母さんにそうした覚悟を問われなかったわ。友達を家に泊める感覚で、Nをずっと、もう何年もの間、家に置いてくれていたの」 「そうなんだ! 優しいお母さんだね」 「さあ、どうだか? ……勿論、Nも私も、その分の手間を担う形でちゃんと家での務めは果たしていたわ。家事だってしたし、お金だって家に入れた。 それでもコトネとシルバーの果断に比べれば、私達の時間を支えるものは随分と曖昧で、子供っぽいものだったと言わざるを得ないわね」 私がシルバーを強引に家へと招いたあの日から5年。出会った頃から20cm近く背を伸ばしたシルバーはもう、あの頃のリングを嵌められなくなっていた。 体は大きくなっても、金属製の誓いの証はそれに合わせて大きくなってなどくれないのだ。 それでも彼は、あの子供っぽい私の暴走をいつまでも覚えている。薬指に嵌めることができなくなった指輪を、細い鎖に通して首へと結んでいる。 同じように指輪のネックレスを作って彼の真似をした私も、あの日のことを忘れられないまま、今日まで過ごしている。 ヒビキの「連理の木」という言葉を受けて小さく笑い、指輪を手に取り「手を出してくれ」と告げた、彼の優しい音を、きっといつまでも覚えている。 その、あまりにも恥ずかしい、あまりにも幸せな思い出を得ることができたという点においては、あれは確かに「果断」であったのかもしれなかった。 12歳の私が限界まで背伸びをして購入した指輪は、安くて軽い金属で出来た、何の装飾もないシンプルなものだった。 それに比べると、今、彼女の薬指に輝いている指輪は、正しく「誓い」の輝きを有していて、ああこれが結婚するということなのだ、と思わざるを得ない。 「黒いダイヤ、かっこいいね。とてもよく似合っている。 トウコちゃんは結婚しても、子供を産んでも、おばあちゃんになっても、ずっとNさんと一緒にいて、その幸せな姿をこの指輪はずっと見ていくんだね」 「案外、私達の変わらないままを見て呆れることになるかもしれないわよ」 あんたも災難ね、と左手を口元に掲げて、目線を其処に落として、囁くように彼女は言う。まるでゼクロムに語り掛けているみたいだと思った。 彼女はその指に黒い宝石を宿すことで、イッシュでのあの運命をやっと許せるようになったのかもしれなかった。 「Nさんのこと、好き?」 「あはは、馬鹿言ってんじゃないわよ」 彼女らしさを極めたその返事を受けて、黒いダイヤが眩しく笑った気がした。/ /

▽ 雪上を転がる首

2019.02.13 Wed * 8:01

鋭く細めた目は、小さなハケと左手の指先にしっかりと縫い留められている。旅をするトレーナーにしては長く伸ばされているその爪に、鮮やかな赤が流れていく。
とても鮮やかな赤だね、と告げれば、ええそうでしょう、と得意気に返ってくる。
薔薇の花弁みたいだ、と煌びやかな言葉を選んで告げれば、動脈血みたいでしょう、と物騒な言葉に言い換えられてしまった。
左手の小指まで塗ったところで、彼女はハケを赤が映えるその指に持ち替えた。どうやら今度は右の爪を塗っていくつもりらしい。

「こちらはあまり、見ないでくださる? 左手で塗るといつも不格好になってしまうから」

親指の爪を慎重に塗りながら、彼女はこちらへ視線を向けることなくそう告げる。ごめんよ、と告げようとして……ふいに青年は思い付いた。

「……それじゃあ、ボクが塗ろうか?」

べちゃ。
順調であったはずのそれは、爪から赤を大きくはみ出し、つるりと滑って指の腹にまでその色を伸ばしていた。
指先を出血したかのような大惨事に、青年は勿論のこと、少女も「あっ!」と大声を上げる。

「もう! いきなりそんなことを言わないで。びっくりしちゃったじゃない」

「いや、そんなに驚かれてしまうとは思わなくてね。……それで、どうだろう? ボクに塗らせてくれるのかい?」

「……いいわよ。でも先ずはこの血塗れの指をどうにかさせて」

ポーチから取り出したコットンに、リムーバーを数滴垂らしたものでそっと指を包む。
するりと、トランセルが脱皮をするかのように抜き取られたコットンは、血の色を大胆に吸って鮮やかに染色されている。
もう一度、彼女は親指の爪を整え始めた。青年は今度こそ横槍を入れることなくそれを見守った。
くるくると手首を捻って仕上がりを確認してから、続きをどうぞとハケを差し出してくれる。小さなハケは青年の手に収まると、より一層繊細なものに見えた。

彼女の人差し指を取った。
旅をして、それなりに小さな怪我も経験してきているはずなのに、それでもその手はあまりにも綺麗で、あまりにも白かった。
シンオウ地方に降る、眩しい雪の粒を思い出させるその肌、そこから伸びる鋭い爪の上に鮮やかな花弁を一枚ずつ置いていく作業は、どうにも青年を緊張させた。
この上ない芸術がそこにあった。自分がその芸術の一端を担えることが、ひどく誇らしいものに思われてならなかった。

「薔薇というよりは、椿かな。雪の上に咲くのなら、あの花に例えた方がしっくりくる」

「ふふ、私もあの花は好きよ。断頭台の下で潔く首を落とすところなんか、特に素敵」

「ではもし君がその首を落としたら、ボクが持ち帰って育てることにするよ。雪に植えればもしかしたら身体が生えてくるかもしれない」

物騒な言い回しに物騒な言い回しで返してみる。そのやり取りをいたく気に入ったらしく、彼女は声を上げて笑い始めた。
「待ってくれ、動かないで」と言いそうになるのを堪えて、ハケをさっと引っ込めた。
今は指先の椿よりも、この至極楽しそうな大輪の花を目に焼き付けておきたかったのだ。

 /

▽ 20度超の酩酊にどうか楽園の夢を見て

2019.02.12 Tue * 19:36

紅雨の翌日かそれくらい)

プラスチック製のコップに少しの水と大量の氷が満たされている。
食器を割った回数が5回を超えた頃、この家にある全ての陶器類を、割れないものへと買い替えたのだった。
淡いピンク色のコップの側面に生じた水滴が、まるで私の冷や汗であるかのような気まずさでゆっくりと滑る。
白く細い指の先、首を引っ掻いて傷を付けることさえできなくなる程に深く深く切られた爪。その上に水滴が落ちる。
マニキュアを塗ったかのように、その小さな爪はこの薄暗い部屋の中でキラキラと輝いていた。

「嫌」

小さな子供が駄々を捏ねるかのような言葉。けれどもあの遠く美しい土地ではそうした短い駄々さえも捏ねることが許されなかったであろう、その音。
昨日までの私ならきっと鵜呑みにしていた。私を望んでくれる彼女の傍にいられてよかったと、そうして変わらずこの懐かしい家へと通い続けていた。
けれども、違う。彼女には嘘を紡いだ認識がなかったとしても、それでもその「嫌」は彼女の本音ではない。そしてそうさせているのは他の誰でもない、私だ。

「だって……シアがいなくなったらどうなるの? シアが来てくれなくなったら、私はどうやってこの部屋から出ればいいの?」

「あのね、シェリー

「これから外に出なきゃいけなくなる時が来ても、私、貴方がいないと、」

「もういいんだよ」

よくない。いいはずがない。いいんだ。これが正しいことなのだ。
私を引き留める彼女の言葉はきっと私が言わせていることだ、思い上がるな。それでも私は彼女の言葉を疑いたくない、信じていたい。
私は驕っていた。私は驕ってなんかいない。このままでは彼女を殺してしまう。違う、私は彼女に生きてほしかった。そればかり考えていた。
私は、私は、私は。

『お前の話などしていない。あれの生き死にもあれの居場所もあれが決めることだ。お前に決定権があるとでも?』
混乱しかけていた私の思考を、昨日の言葉が正しいところへ押し戻してくれる。異常な表情で紡がれた異常な言葉が、私を正常なところへ置き直してくれる。
大丈夫だ、大丈夫。信じなければ。彼女の言葉ではなく、彼女自身を信じなければ。彼女を正しく見なければ。正しく、在らなければ。

「外には出なくていい。此処にいていい。窓も閉め切ったままでいい。ずっと変わらないままでいい。
大丈夫だよ、貴方を怖がらせる全てのものから、フラダリさんが貴方を守ってくれるから」

長い、沈黙が降りた。私はもう、何も考えないようにした。彼女の前でこれ以上迷ってしまっては、また同じことを繰り返してしまいそうだったからだ。
薄暗い空間はあまりにも静かだった。淡い耳鳴りが鼓膜を刺しかけた頃に、彼女の小さな「いいの?」という声が聞こえてきたので、私は、頷こうとした。

「私はもう、生きなくていいの?」

長い睫毛をふわふわと揺らすような、あまりにも緩慢とした瞬きだった。部屋が薄暗いおかげで、彼女の大きく見開かれた瞳に私が映ることはなかった。
夜の雲間から三日月が現れるような、ささやかな奇跡めいた笑みがそこに在った。あまりにも美しかった。綺麗だった。ただ綺麗だった。
だから私にはもう、肯定も否定もすることができなかった。

「分からない。私には、答えられない」

シアにも分からないことがあるんだね。……私みたい」

「……」

「でも、違うんだよね。私は貴方じゃない。私は貴方になれなかった。こんな私のいる場所に、貴方はちょっと似合わない。だからこれ、返すね」

冷たい指に私の手が取られる。「そこ」にのせられるものの正体に、私はもう勘付いている。
恐る恐る視線を落とせば、使い古されたモンスターボールの中、いつも彼女の傍にいたサーナイトが、何の感情も映していない瞳をこちらへ向けている。
これも、と付け足すように落とされたのは、綺麗なビー玉のようなものだった。
サーナイトとの絆の象徴を呆気なく手放した彼女は、いつもの眠たげな目に戻り、ぽつりと告げた。

「私の行く地獄にその子は要らないよ」

20度超の酩酊:シェリーのデフォルト名の由来の一つである「シェリー酒」のアルコール度数より

 /

▽ 緊急任務:「新婚」を王にレクチャーせよ!

2019.02.11 Mon * 21:30

ドアを開けると、懐かしい靴が2足並んでいた。どうやらイッシュの友人は予定よりも早くこちらへ到着したらしい。
その隣に靴を並べ終えるのと、パタパタという軽快な足音が聞こえてくるのとが同時だった。

「おかえりなさい、あなた!」

は? という素っ頓狂な声を上げてしまいそうになるのをぐっと堪えて、眉をひそめるだけに留めておく。
リビングに通じる扉を開けた彼女は、何処で調達してきたのだろう、ひらひらとした布のあしらわれたクリーム色のエプロンを身に着けていた。
加えて、料理などついぞしたことがないくせに、立派なフライ返しを右手に握っている。それは先日、俺がコガネシティのデパートで買ってきたものであるはずなのだが。

煮え立つのではないかと案じてしまう程に顔を真っ赤に染めたコトネの背後で、ソファにどっかりと腰掛けたトウコが足を組み、笑いながらそれを眺めている。
成る程、お前の差し金だな。そう察して思わず目を細める。俺の呆れは正確に彼女へと伝わっただろうか?

馬鹿なことをやっていないでこれを冷蔵庫に入れてくれと、調達してきた食材を押し付けることは簡単にできる。
またとんでもない罰ゲームをさせられているじゃないかと、こうなる経緯を推測して発言すれば、きっとこいつはこの演技をすぐに終えてくれる。
あまりこういうことをさせないでくれと、真っ赤になったこいつの代わりに友人を咎めることだって、それくらいのことなら惜しまずしてやれる。

けれども「それでいいのか?」と悪魔が囁く。だから俺はその誘いに乗り、微笑んでそれを許してみる。
此処には気心の知れた友人しかいない。そして俺は、こいつ等のやろうとしていることを察してしまっている。
にもかかわらず、それをなかったことにしてしまうのはきっと「つまらない」ことだ。干上がってしまう程に暑苦しいおふざけも、彼女とならば許されるはずだ。

「……ああ、ただいま。出迎えありがとう。お前の顔を見るだけで一日の疲れが取れるよ。ところで、いい匂いがするな。もう夕食は出来ているのか?」

出来ているはずがない。夕食を作れるだけの材料の調達のために、たった今、俺が買い出しを済ませてきたところなのだ。
冷蔵庫に残っていたのは調味料とキュウリと豆腐だけ。そんなことはよくよく分かっている。
それに、もし冷蔵庫に食材があったとしてもコトネは料理などしないだろう。料理はどちらかというと俺の領分だ。故に冷蔵庫の中身だって、俺の方が詳しく把握している。
けれどもこれは「ままごと」であり、その全てを棚に上げて俺はそう尋ねる必要があった。そうすればこいつの顔がもっと愉快なことになると、期待したが故の発言だった。

案の定、こいつは零れ落ちそうな程に大きく目を見開いて、ぱくぱくと口を所在なく動かした。
これは面白いことになってしまった。そう思い、俺もソファの上にどっかりと腰掛ける友人のように笑わざるを得なかった。
さて、どう返してくる?

「う、うんそうだよ! しち、シチューを作ったの。温めればすぐに食べられるようにしてあるんだよ」

「そうか」

「すぐ御飯にする? それともお風呂を沸かした方がいいかな? そ、それ、とも……」

おや、と俺は思った。俺は出かけるときにこいつに「今日はシチューを作るつもりだ」と告げてはいなかったからだ。
にもかかわらず、何故こいつは俺が今夜作ろうとしているものを言い当てたのだろう?

偶然だろうか、と思う。シチューなんてメジャーな料理なのだから、俺の予定とこいつの思考が重なってしまうことだってあるだろう、とも思う。
けれども随分とめでたい気分になった俺は、その偶然に意味を見たくなった。そうだ、きっと「シチュー」だからなのだ。
俺の作ろうとしているものを言い当てるこの相手でなければ、俺は間違ってもこんなままごとをやらかさない。
お前以外の顔が真っ赤になっているところを見たところで、きっと俺の心は今のようには動かない。

「わた、私を、抱きしめてくれる?」

失敗した。こんなはずではなかった。笑うことを忘れるほどに、そのささやかな懇願が胸に刺さるとは思わなかった。
まあいいか、と思う。友人の冷やかしをあしらう方法ならごまんと身に着けている。
野菜と牛乳の入った袋を足元に置き、ほらと両手を小さく広げてみせれば、羞恥にだろう、泣きそうに顔を歪めてそっと凭れかかってきた。
熱でもあるかのように頬が熱かった。火傷しそうだ。
左手を背中に回し、右手で軽く頭を叩いてやれば、小さく、本当に小さく「ありがとう」と返してきたので、参ってしまった。

「さあ、そこの。これで満足か?」

リビングの彼女へと叱責の文句を紡いだつもりだったのだが、俺の目線は今までエプロン姿の彼女に隠れて見えなかった、もう一人の友人に釘付けになった。
小型のカメラを持った彼は、慣れない手つきでボタンをピッと押し、無慈悲な「録画終了」の電子音を鳴らしたのだ。
おい待ってくれ、それは聞いていない。

「これが新婚というものなのだね! ボクもこれを見て勉強することにするよ。協力をありがとう、シルバー」

/ ///

▽ 紅雨

2019.02.11 Mon * 11:49

耳を疑った。今のは本当に、目の前の彼が発した音だろうかと疑問に思った。
けれども聞き慣れたバリトンは今も私の鼓膜に残っていて、彼は澄ました顔で手元の本を捲るばかりで、後はもう私が「それ」を受け入れるだけであるような、心地をして。

「やめてください、今更……。だってゲーチスさん、言ってくれたじゃないですか。私にはその力があるって、大丈夫だって、背中を押してくれたじゃないですか。」

「今になって考えを変えたことに関する理由が必要なら「私がお前の力を見誤っていた」ということになる。この言葉でお前が納得するならそれをお前の真実とすればいい。
お前は少し驕り過ぎた。お前は今のあれの足手まといだ。傍にいたところで、お前の過剰な力があれを圧し潰すだけだ。……お前も薄々、気が付いていたのだろう」

これは裏切りではなかろうか。身勝手にも私はそんなことを思ってしまった。
私が、朝を拒んだ少女を支えようとしたのは、彼の言葉があったからだった。彼が私の思い上がりを許したから、私はこの選択を信じることができていたのだ。

彼女の回復を焦ったことはなかったはずだし、外へ出ることを強要したことだってない。
私は背中を押されても尚、恐れているようなところがあったから、彼女の躊躇いそうなことを提案できないまま、今日まで来たのだ。
私は、私にできるだけのことをやっていたはずだ。私はなるべく、彼女の心地を推し量ろうと努めたはずだ。彼は今までそれを見守ってくれていたはずだ。
それなのに、どうしてこのようなことをいきなり言われなければいけない。どうして今になって、彼女を諦めろと説かれなければいけない。

「今の私を「足手まとい」だと切り捨てられてしまったら、いよいよ私は何をどうすればいいのか分からなくなってしまいます」

「お前の話などしていない。あれの生き死にもあれの居場所もあれが決めることだ。お前に決定権があるとでも?」

「放っておいたら、シェリーは本当に死んでしまうかもしれない!」

「お前が殺してしまうかもしれない、の間違いでは?」

……私は、確かに思い上がっていた。驕っていたのだ。
この人が、長い月日をかけてやっと許し合うことの叶った相手であるこの人が、もしかしたら私のことを私以上に理解しているかもしれないこの人が、
こんなにも残酷な言葉を私に投げるはずがないと、貴方がそんな言葉を選ぶはずがないと、そんな、都合の良すぎる思い上がりを抱いていたのだ。
だから、こんなにも苦しいのだ。予想だにしなかった言葉だったから、そんな風に切り捨てられることを想定していなかったから、こんなにも痛いのだ。

けれども、受け入れられなかった。どうしても、どうしても受け入れられなかった。
私は彼女を殺そうとしたことなどない。私は彼女に死んでほしいなどと思っていない。私は彼女に生きてほしかった。一緒に生きたかった。それだけだった。

喉からせり上がってくる嗚咽をぐっと飲みこんで、ぼろぼろと子供のように泣きながら、駄々を捏ねるようにそれらを大声で吐き出すことは簡単にできた。
彼が、そのタイミングで本を閉じ、顔を上げて私を見なければ間違いなくそうしていた。

「!」

アブソルのダークさんが淹れてくれるコーヒーを待っている時のような、そうした、いつもの澄ました表情が、少しだけ相手をからかうような色を帯びた表情が、
本へと伏せられたその顔に、いつものように浮かばれているとばかり思っていた。
そうしたいつもの「正常」な表情をした彼が、私の都合の悪い「異常」な叱責を編むことに、私のめでたく出来ている心は耐えられそうもなかったのだ。
だからその目で、いつもの目で、今の泣きそうに顔を歪めた私を見られることが嫌で、私はさっと目を逸らそうとしたのだ。
けれどもできなかった。できなかったのだ。彼の表情は「異常」だった。この異常な言葉ばかりが並ぶ空間において、彼はまったく正常ではなかったのだ。

「……あれは逃げたくて死を選んだのでしょう。その「逃げる」対象に、お前はお前を数えていなかった。勿論、私もそうだった。けれど、違うのかもしれない」

「……」

「逃がしてやりなさい。お前から、あの樹海から」

この人は、間違ったことなど言わない。この人は、合理的だと思ったことにしか賛同しない。この人は、私を裏切っているのでは決してない。
私よりもずっと聡明な彼が、私よりもずっと物事を冷静に観測できる彼が、そう結論付けたのだ。
私では出せない結論を、きっと死ぬまで、……「彼女」が死ぬまで導き出すことを拒み続けたであろう結論を、彼が代わりに出してくれた。
ならばそれはきっと正しいのだろう。彼が「異常」になってまで投げた「異常」な言葉は、きっと私と彼女の関係における「正常」だ。それは、正しいのだ。

「私を恨めばいい」

俯いて、首を振った。堪えていたはずのに、此処で泣くべきは私ではないと分かっていたのに、零れてしまったものはもうどうしようもなかった。
愚かなことだ、と転がり落ちてきた音は、いつもの調子であるようで、きっとまだ「異常」な叱責の一部に含まれている。
私は愚かだったのだ。愚かだったから彼女が死ぬのだ。私がすぐに変われない以上、やはりそうするしかなかったのだ。

どうすれば、賢くなれるのだろう。どうすれば、正しく人を想えるようになるのだろう。

 /

© 2025 雨袱紗