紅雨

耳を疑った。今のは本当に、目の前の彼が発した音だろうかと疑問に思った。
けれども聞き慣れたバリトンは今も私の鼓膜に残っていて、彼は澄ました顔で手元の本を捲るばかりで、後はもう私が「それ」を受け入れるだけであるような、心地をして。

「やめてください、今更……。だってゲーチスさん、言ってくれたじゃないですか。私にはその力があるって、大丈夫だって、背中を押してくれたじゃないですか。」

「今になって考えを変えたことに関する理由が必要なら「私がお前の力を見誤っていた」ということになる。この言葉でお前が納得するならそれをお前の真実とすればいい。
お前は少し驕り過ぎた。お前は今のあれの足手まといだ。傍にいたところで、お前の過剰な力があれを圧し潰すだけだ。……お前も薄々、気が付いていたのだろう」

これは裏切りではなかろうか。身勝手にも私はそんなことを思ってしまった。
私が、朝を拒んだ少女を支えようとしたのは、彼の言葉があったからだった。彼が私の思い上がりを許したから、私はこの選択を信じることができていたのだ。

彼女の回復を焦ったことはなかったはずだし、外へ出ることを強要したことだってない。
私は背中を押されても尚、恐れているようなところがあったから、彼女の躊躇いそうなことを提案できないまま、今日まで来たのだ。
私は、私にできるだけのことをやっていたはずだ。私はなるべく、彼女の心地を推し量ろうと努めたはずだ。彼は今までそれを見守ってくれていたはずだ。
それなのに、どうしてこのようなことをいきなり言われなければいけない。どうして今になって、彼女を諦めろと説かれなければいけない。

「今の私を「足手まとい」だと切り捨てられてしまったら、いよいよ私は何をどうすればいいのか分からなくなってしまいます」

「お前の話などしていない。あれの生き死にもあれの居場所もあれが決めることだ。お前に決定権があるとでも?」

「放っておいたら、シェリーは本当に死んでしまうかもしれない!」

「お前が殺してしまうかもしれない、の間違いでは?」

……私は、確かに思い上がっていた。驕っていたのだ。
この人が、長い月日をかけてやっと許し合うことの叶った相手であるこの人が、もしかしたら私のことを私以上に理解しているかもしれないこの人が、
こんなにも残酷な言葉を私に投げるはずがないと、貴方がそんな言葉を選ぶはずがないと、そんな、都合の良すぎる思い上がりを抱いていたのだ。
だから、こんなにも苦しいのだ。予想だにしなかった言葉だったから、そんな風に切り捨てられることを想定していなかったから、こんなにも痛いのだ。

けれども、受け入れられなかった。どうしても、どうしても受け入れられなかった。
私は彼女を殺そうとしたことなどない。私は彼女に死んでほしいなどと思っていない。私は彼女に生きてほしかった。一緒に生きたかった。それだけだった。

喉からせり上がってくる嗚咽をぐっと飲みこんで、ぼろぼろと子供のように泣きながら、駄々を捏ねるようにそれらを大声で吐き出すことは簡単にできた。
彼が、そのタイミングで本を閉じ、顔を上げて私を見なければ間違いなくそうしていた。

「!」

アブソルのダークさんが淹れてくれるコーヒーを待っている時のような、そうした、いつもの澄ました表情が、少しだけ相手をからかうような色を帯びた表情が、
本へと伏せられたその顔に、いつものように浮かばれているとばかり思っていた。
そうしたいつもの「正常」な表情をした彼が、私の都合の悪い「異常」な叱責を編むことに、私のめでたく出来ている心は耐えられそうもなかったのだ。
だからその目で、いつもの目で、今の泣きそうに顔を歪めた私を見られることが嫌で、私はさっと目を逸らそうとしたのだ。
けれどもできなかった。できなかったのだ。彼の表情は「異常」だった。この異常な言葉ばかりが並ぶ空間において、彼はまったく正常ではなかったのだ。

「……あれは逃げたくて死を選んだのでしょう。その「逃げる」対象に、お前はお前を数えていなかった。勿論、私もそうだった。けれど、違うのかもしれない」

「……」

「逃がしてやりなさい。お前から、あの樹海から」

この人は、間違ったことなど言わない。この人は、合理的だと思ったことにしか賛同しない。この人は、私を裏切っているのでは決してない。
私よりもずっと聡明な彼が、私よりもずっと物事を冷静に観測できる彼が、そう結論付けたのだ。
私では出せない結論を、きっと死ぬまで、……「彼女」が死ぬまで導き出すことを拒み続けたであろう結論を、彼が代わりに出してくれた。
ならばそれはきっと正しいのだろう。彼が「異常」になってまで投げた「異常」な言葉は、きっと私と彼女の関係における「正常」だ。それは、正しいのだ。

「私を恨めばいい」

俯いて、首を振った。堪えていたはずのに、此処で泣くべきは私ではないと分かっていたのに、零れてしまったものはもうどうしようもなかった。
愚かなことだ、と転がり落ちてきた音は、いつもの調子であるようで、きっとまだ「異常」な叱責の一部に含まれている。
私は愚かだったのだ。愚かだったから彼女が死ぬのだ。私がすぐに変われない以上、やはりそうするしかなかったのだ。

どうすれば、賢くなれるのだろう。どうすれば、正しく人を想えるようになるのだろう。

© 2024 雨袱紗