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「トリックスター、問おう! 君にとって美とは何か?」
総合文化祭の片付けも終わり、NRCはいつも通りの日常を取り戻しつつあった。テスト勉強やレポート課題に終われる者、部活に精を出す者、とにかく毎日を楽しく過ごそうとはしゃぎ回る者、様々に、めいめいに、いつも通りを過ごしている。ヴィルが寮長を務めるポムフィオーレ周辺の事情も、別段大きく変わったところなどありはしなかった。信用の置ける腹心のとんでもない秘密が明らかになったり、有望な一年が見事な成長を遂げたりといった変化は勿論あったけれど、そんなもので世界は劇的にひっくり返ったりなどしない。運動分野のマジフト大会での連敗に引き続き、文化分野でのVDCにおいても我が学園はライバル校に敗北を喫したという結果だけが残った。歴史はまたしても、捻れなかったのだ。
そんな中、歴史が捻れることを期待していたあの頃と全く同じ挨拶がルークの口から飛び出したことに、ヴィルは呆れを通り越していっそ愉快な心地になってしまった。あれだけの自腹を切って監督生の話を聞いておきながら、この男、まだ足りないとでも言うのだろうか?
「美の質も、その基準も概念も不動ではあり得ない。移り変わるものだよ。私は各々の、日々変化するであろう賛美心を追い掛けていたいんだ」
彼の語る美への論理へヴィルなりに共感することもできたかもしれないが、今回はハイハイと呆れるだけにとどめておいた。ヴィルが共感し、納得するか否かはこの場において全く重要ではなかったからだ。たとえルークの言葉が完全なる出まかせであったとしても、その挨拶を受けた彼女はあの日と同じように、嬉々として彼に朝食の提案をする。この数週間で彼女のあらゆることを知ってしまったヴィルには、そんな展開が手に取るように分かる。
案の定、オンボロ寮へと続く道の雪をスコップで掻き分けていた彼女は、自らが呼ばれたことに気付いて顔を上げ、周囲をきょろきょろとしつつ、ルークの姿を認めるや否やぱっとその顔を輝かせた。あれは美味しい朝食にありつけることを喜ぶ顔だ。それ以外には最早、考えられまい。
「ああ、おはようございますルーク先輩、ヴィル先輩! 会えて嬉しいです、とっても空腹なんですよ!」
「オーララ……君はもう少し取り繕うことを覚えたほうがいいね? だが話が早くて助かるよ。一緒に来てくれるだろう?」
「勿論です! 一分だけ時間を貰ってもいいですか? 箒を置いてすぐ戻ってきますので」
「ウィ、勿論さ!」
即座に了承したルークはマジカルペンを取り出し、途中まで進んでいたと思しき雪かきの続きを手伝い始めた。以前はペンを一振りするだけで道に散らばる落ち葉をあっという間に集めてみせたルークだが、雪かきには流石にやや苦戦していた。落ち葉とは比べ物にならない程の重さを持つ雪を押し遣るには、相応の魔力を必要とするのだ。大事な腹心が早朝からこのようなことで疲れ果ててしまうのは忍びないので、ヴィルもペンを出して雪かきを手伝った。二人の手により道の中央から雪が粗方なくなるのと、寮の扉が勢いよく開くのとが同時だった。
「えっ、雪かきがもう終わってる! そんな……すみません、大変だったでしょう? こんなことまでさせるつもりじゃなかったのに」
「はは、構わないさ! この雪かき代はサービスしておくよ。代わりと言っては何だが、ヴィルも議論の輪に入れてはくれないだろうか?」
彼のそんな配慮にヴィルの心臓は少しばかり跳ねた。大方、以前の朝食の席で「此処では言いたくありませんね」として、彼女がヴィルの前で話を続けることを拒んだことを踏まえての提案であったのだろう。自らに向けられた拒絶ではなかったとはいえ、あの時の彼女の言葉にルークも思うところがあったようだ。
そんな彼に、もうその件は片が付いたから構わないと告げるべきだという心持ちはあったのだが、口を開くより先に、彼女が挑発的にこちらを見上げつつ「ええ、分かりました」と得意気に告げてみせたので、ヴィルは説明の機を逸し言葉を飲み込まざるを得なくなってしまった。
「VDCに出場こそしていませんが、私もあの総合文化祭を経て変わったんです。もう恐れたりしませんよ。誰に何と言われようと、誇りを持って私の美学を語り上げてみせます。覚悟していてくださいね、ヴィル先輩!」
美の質も、その基準も概念も不動ではあり得ない。つい先程ルークが論じたばかりの言葉を彼女の発言に重ねながら、ヴィルはこの上なく安心することができた。「今日だけ」というあの夜の約束を守りつつ、ヴィルを弾かず受け入れるための最善手として、彼女は「変わる」ことを選んだのだ。もう恐れたりしないと自信たっぷりに告げたその言葉に、きっと嘘はないのだろう。
もしかしたらあの夜よりもずっと情熱的で素晴らしい話を聞くことが叶うのかもしれないとヴィルは思い直し、にっと笑い返して「楽しみにしているわ」と告げた。声の弾みと心臓の高鳴りはきっと傍にいる狩人に筒抜けだろう。面映ゆいが仕方ないと思った。落ち着けないことさえ最早、楽しいと思えた。
変わり続けている。監督生も、ヴィルも、ルークも。当然だ。彼女の言葉を借りるなら、我々は「のんびり生きていては到底手に入らないようなものに焦がれてしまっている」のだから、うかうかしてはいられないのだ。奮励は怠ることなく続けるべきだ。何があっても。何もなくても。その果てに、何も変えられなかったとしても。
磨き続けた何かが、必ずしも世界を劇的にひっくり返すことができる訳ではない。夢が必ずしも叶うとは限らない。それでもそうした挫折や絶望、ひいては幻滅の向こう側に辿り着いた美が「何」になるのかを、ヴィルはもう身をもって知ってしまっている。だから怖くない。変えられずとも、悲しくはない。
では行こうか、と告げて先に歩き出したルークを、監督生が慌てて追い掛ける。ヴィルはその後ろに続きながら、彼女の腕に視線を落としつつ、ふいにこんなことを言った。
「アンタと腕相撲がしたいわ」
前を歩いていた彼女の足が急にぴたりと止まる。反応が追い付かず、今度はヴィルがその背中にぶつかる形となった。二人とも、体幹はしっかりと鍛えてあるため、ちょっとぶつかられた程度で倒れるようなことは起こらない。あの夜のように二人して、冷たいアスファルトの上に崩れ落ちるような有様にはもうなるはずがない。
ごめんなさい、と告げてヴィルはすぐに離れた。いえ大丈夫です、と呟いて彼女はこちらを見上げた。白く染まる息の向こう、ほんの一瞬だけ困惑の色を宿したその目は、けれどもすぐに、きゅっと細められた。実に楽しげで、好ましい、意地悪めいた笑顔だった。
「いくらヴィル先輩の頼みとはいえ、理由もなく決闘を引き受けることはできそうにありませんね。やっぱり何かうま味がなくちゃ。そう思いません?」
「ハイハイ、分かったわ。アンタが勝てば今日の朝食にパンナコッタを付けてあげる。アタシの奢りでね」
「最高じゃないですか! 先輩、ルーク先輩! 今日の食事にもサラダを追加で頼んでいいですか? トーストとパンナコッタじゃグリセミック指数が跳ね上がってしまうので」
「想定より多い出費だが美のためなら致し方ない。喜んで出そう!」
勝つことを前提にサラダの注文までする監督生に、それは皮算用というものじゃないかしら、などと水を差してからかうことも考えた。けれどその横顔があまりにも嬉しそうで、楽しそうだったものだから、ヴィルはまたしても言葉のやり場を失い、苦笑することとなってしまったのだった。
身寄りのない身であるが故に毎日の出費を少しでも抑えたいという当然の思い、そこから来る彼女のこうした、やや小狡い言動にはもう慣れてしまった。あらゆる場所で、あらゆる人物とのやり取りで、彼女はこうした立ち回りを行ってきている。誰に対しても。ヴィルに対してさえも。
そうした生き方は、美しいと呼べるものでは到底ない。けれども勿論、不快なものという訳でもない。
「全力でいきますからね!」
「望むところよ」
彼女はそう告げてから、少しだけ赤くなった顔を冬の涼しい風に当てるようにして上を向いた。
「負けたくないんですよ。この腕で、貴方にだけは」
何となく面映ゆく思われたため、ヴィルもその行動に倣って空を見上げた。ひどく懐かしい気持ちになった。
適切な敬意を躊躇いなく示せる礼儀正しい人は好ましい。必要以上にへりくだらずはっきりと物を言える人は好ましい。悲惨な境遇に置かれても毎日を楽しそうに生きている人は好ましい。向上心と挑戦心をいつ何時たりとも忘れない人は、好ましい。
自らの矜持のもとに奮励する人は、やはり好ましい。夢見る人は、好ましい。
そうした彼女の好ましさ全てを、愛していたい。
「奇遇ね、アタシもよ」
そう告げてから監督生の方を見遣ったヴィルは、息を飲んだ。監督生が先に空から視線を外し、真っ直ぐにヴィルを見上げていたからだ。元いた世界を想う際に空を見上げているのだと思っていただけに、その世界への郷愁よりもヴィルを見ることを優先させた彼女の選択に、少しばかり戸惑ってしまう。前は、こちらがいくら見つめていても、空から目を離さなかったというのに。
彼女が自分を見る。監督もスタッフも観客もいない、役を身に纏ってさえいない、ただありのままのヴィル・シェーンハイトを見てくれている。これ以上の誉れを、これ以上の喜びを、彼は知らない。
「ね、手を繋いでみませんか?」
「……敵情視察にしては随分、的外れね。腕相撲は腕力勝負、握力で競うものじゃないのよ、分かってる?」
分かっていますよ、と告げながら彼女は手を差し出した。躊躇う暇さえなく、ヴィルの手は引き込まれるように彼女へと伸びた。初めて彼女の手に触れた時と同じ温かさがヴィルの手によく馴染んだ。これだけ温かいのだから、少しくらい奪っても差し支えないだろう。以前と同じ言い訳を心の中に連ねて力を込めた。彼女も当然のように握り返してきた。
どちらからともなく歩幅を揃えて、校舎への道を歩いた。歩くスピードは揃えど、吐かれる息の頻度はバラバラだった。そのちぐはぐさを楽しみたかったので、呼吸まで揃えるようなことはしなかった。
仲睦まじいことだね、と目を細めつつにっと笑って告げるルークの前で、繋いだ方の手を掲げる。「誤解しないで、これは来たる決闘に向けてのウォーミングアップよ」と、ヴィルにしては随分と下手な言い訳を告げて笑った。彼女も力強く握り返しつつ「その通りです」と同意して、ヴィルのささやかな嘘をどうということのない風に共有してみせた。
ねえ、これでもう寂しくない?
貴方の手が冷たいままだと私が寂しい、そのように話していたことを思い出し、そう尋ねたくなった。けれどもひどく嬉しそうに目を細めて鼻歌で奏で始めた彼女には最早愚問であるように思われたため、ヴィルもその歌にメロディを乗せる形で小さく歌ってみるだけに留めておいた。
歌いながら、歩きながら、手を繋ぎながら、ヴィルは頭上にある空へと意識を向けた。彼女が時折そうしていたように、その向こうにこそ彼女の元いた世界があるのだと信じて、ヴィルは。
ありったけの毒を孕んだ目で、頭上に広がる冬の青をきつく、きつく睨んだ。
ジョウルリ。異世界の素晴らしい伝統芸能。彼女の焦がれたもの。彼女が夢見て志し、心から愛したその芸術。ねえ、アナタのことが羨ましくて、妬ましくて、憎くて憎くて堪らない。アナタにアタシの「愛」を奪われることが悔しくて堪らない。
叶うなら、世界さえ飛び越えて呪いを掛けてやりたい。
それでもアタシはアナタの美を信じている。アナタに向けられるあの子の愛を信じている。だからその時が来れば、必ず、この子をアナタのいる世界へと返すと約束しましょう。素晴らしいアナタの元へなら、喜んで彼女を送り出しましょう。劇的にひっくり返ることのない世界であったとしても、その舞台へとあの子の手を引いてあげましょう。それこそがきっと、アタシの誇りと、あの子への愛の証明になるはずだと信じて。
だからその最後の時までどうか、どうか、この手を繋いだままでいさせてほしい。