番外寄せ集め

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(入学式、闇の鏡による振り分け完了後)

「えっ」

 追い縋るように腕を取った。驚きを示す低い声とともに振り返った。視線がぶつかった。僕は三回、相手は四回、瞬きをした。

「……あの、貴方」

 ああその髪の色、目の形、やや短めの睫毛も少し尖った顎も全く同じ。間違えるはずがない。つい先日、具体的にはそう、一昨日。断腸の思いでさようならを告げた相手のことを忘れられるはずなどない。何処からどう見ても男性の形をしたその生徒、僕が取り上げた何もかもによってそのかたちに成り果てた、かの依頼人。僕が敗北を期した相手。僕に、犠牲と名付けられた愛のかたちを教え込んだ人。
 そんな「彼」は、尚も繰り返す忙しない瞬きと共にアズールの目をじっと見ていたのだが、やがてふいに視線を僅かに落として腕章の色を確認してから、細く息を吐きつつ安心したように微笑んだ。

「同じ寮だね」
「……ええそうですね。僕と同じだ」

 僕と同じ。自ら紡いだ言葉があまりにもおかしいもののように思われて、アズールは一目も憚らず笑い出したくなった。だって僕等が「同じ」だなんて。人魚であり男性である僕と、人間であり女性であるこの人をして「同じ」だなんて!

「ふふ、急に腕を掴んでくるものだからびっくりしたよ。さっきの式で何か無礼をやってしまったのかと思った」
「これは失礼しました。その、貴方が……」

 でも……ああ、これこそが彼女の望んだことなのだ。これこそが彼女の上がりたかった「陸」であり、僕に契約をもって何もかもを取り上げさせてまで行きたかった場所なのだ。つまり彼女が「海の魔法使いさん」に望んだ本当のこととは「私の持っているものを取り上げてほしい」でも「男性になりたい」でもなく「この学園、NRCに入学する権利を得たい」に他ならなかったのだ。
 彼女が上がった陸は、僕のそれと地続きになっていたのだ!

「私が?」

 ことり、と首を傾ける様は、彼女の声が高く、髪が長く、その胸に控えめな膨らみがあり、アズールを「海の魔法使いさん」と嬉しそうに呼んで笑っていたあの頃と何も変わらなかった。でも今の「彼」の声は低い。髪はアズールよりも短い。胸は平たく潰れているし、その足の間には扱い慣れない男性器がぶら下がっているはずだ。そんな彼女は、いや彼は、僕があの「海の魔法使いさん」であることなどすっかり忘れ、初対面然とした調子で、アズールの前で首を傾げている。僕が、アズール・アーシェングロットが全てを取り上げたのだから、当然のことだ。そうなっていなければおかしいのだ。それが彼女との契約であり、「彼」がこの陸へ上がるための絶対条件でもあったのだから。

「……」

 ただ、そう言い聞かせながらも、この期に及んでアズールは「もっと他にやりようがあったのではないか」と考えずにはいられなかった。目を見張るほどに立派で美しかった長い髪、ワンピースやヒールシューズの似合っていた華奢な体躯、陸の歌を流暢に奏でる高く透き通った声、女性であることを示す胸の膨らみや、腰の緩やかな曲線や、その他、彼女が彼女であることを示していた全てを、取り上げずに済むような方法があったのではないかと悩まずにはいられなかった。
 これが本当に最善手であったのだろうか。他にもっとやりようがあったのではないか。彼女に似合っていたもの全て、僕が愛したその相応しさを「犠牲」とする以外の方法が、彼女が彼女のままでこの陸に上がれる方法が、他に何か、何か。

「ねえ君、どうしたんだい」
「いえ、何でもありませんよ」

 無理だったろうな、とアズールは瞬時に巡らせた思考の果て、そうしためでたい可能性へと早々に見切りを付けて力無く笑った。心配そうに眉を下げる「彼」に首を振って、本当に何でもないんです、と念押しして、今度こそ力強くにやりと笑ってやった。
 つい先日まで、人生の全てを冷たい海の中で過ごしてきたアズールに、陸のコネクションはない。NRCの学園長に「交渉」しようにも、今のアズールには陸における「うまみ」が分からない。彼女の特例入学を認めさせ、男性でない身でありながらNRCに籍を置かせるというごり押しを果たすには、何もかもが足りなさ過ぎた。陸での力強いバックアップも、弱みを握るための情報網も、彼女の安全を保障するだけの力も。
 安全。そうだ。下手に女性のまま、男性だらけの陸の地へと放り込むよりは、男性の姿で紛れ込んでいた方がずっと安全に違いない。陸の種族の中には女性というものに対してよからぬことを企みがちな者もいる……と聞いた時は正直、半信半疑であったものの、そうした文化が皆無であるとは言い切れない以上、女性であることは少なくとも、男性だらけのこの学園においては「リスク」になるはずだ。
 彼女の「相応しさ」か、安全か。二つを脳内で天秤に乗せれば、秤は呆気なく安全の方へと傾く。これ以上を望むための手札を今のアズールが持たない以上、彼女が上がりたい陸が此処であった以上、もうこうするしかなかったのだ。

 彼女は「彼」になる。彼女は「彼」である。これが最善手だ。彼女の「相応しさ」を全て取り上げたという罪は、僕だけが覚えていればいい。

「あっ、もしかして部屋が同じだったりする? 109号室?」
「おや残念、僕に割り当てられた部屋はその番号ではありませんね」
「違ったかあ、私も残念だよ。早速お仲間に巡り合えたと思ったんだけど」
「部屋が違っていても同じオクタヴィネルです、敵対する理由にはならないでしょう」
「ふふ、それもそうだ!」

 彼女は元から、どちらかというと中性的な喋り方をする人だった。だからこの姿になっても、その喋り口に関して特に違和感を覚えるということもない。一人称が「私」であることが少々珍しい、それくらいのものだろう。外見は小柄な男性そのもの、少し男性としての振る舞いに違和感があったとしても、そんなものは多種族の集まるこの学園では「文化の違い」できっと押し通せる。アズールの「契約」は並の魔法士では打ち破れない。変身解除薬も、その要素ごと取り上げてしまっている彼女には何の意味も為さない。彼女、いや彼が女性であることはまず見抜かれない。
 そうした安全性の確認を改めて行った上で、それでもアズールは不安を覚えずにはいられなかった。
 もし彼女が、いや彼がこれからの学園生活で、ひどい困難を強いられるようなことになりでもしたら? これだけの犠牲を支払って上がった陸において、望まぬ苦悩を繰り返すことになってしまったら? 僕と同じかたちになったことを、僕と同じ陸へ上がったことを、後悔するようなことになったら?

「アズール・アーシェングロット」
「……君の名前?」
「ええ。貴方さえよければ、アズールと呼んでください」

 許さないぞ、そんなことは。

 これは貴方が渡った橋だ。通行料は既にたんまり貰っている。僕等はもう同じ場所、同じ形。だからお前だけ引き返すなんて、許さない。許さない。どうか悔いてくれるな。いなくなってくれるな。
 お前にとっての「海の魔法使いさん」は、お前のヒーローでなければいけないんだ。

「同じ寮の生徒として、できれば友人として、よろしくお願いします」
「友人、それはいいね! 是非仲良くしよう。私、ちょっと遠いところから来たものだから、知り合いが一人もいなくてね、寂しかったんだ」
「ふふ、それは心細かったでしょう。可哀想な貴方には慈悲を差し上げなければ」

 などと大仰に語りつつ差し出したアズールの手を、彼は何の躊躇いもなく取った。アズールよりも一回り小さな手、けれど彼が「彼女」だった頃よりは幾分か大きく力強くなったその手、また触れられるとは思っていなかったその手。強く握れば妙な感慨に襲われた。泣きたくなるような喜びがほんの一瞬、目蓋の裏でチカチカと光った。文献で見た「花火」というものにも似ている気がした。

「実はね、僕も心細かったんです。冷たい海から陸に上がってきたばかりで、慣れないことが多くて」
「海? じゃあ君は人魚なんだね。オクタヴィネル寮生には人魚の方が多いとは聞いていたけれど、見た目じゃ全然分からないな」
「ふふ、そうでしょうそうでしょう。僕の作った変身薬は性能が良いんです。ですがいくら僕が優秀でも、文化の違いばかりはどうしようもありません。僕が陸の世間を知らないばかりに粗相を起こすことがないよう、友人として優しく見守っていただけると嬉しいのですが……」
「あはは、そんなことでいいなら喜んで! 早速だけど、何か知りたいことはある?」
「では手始めに、僕が握っているこの手の主の名前を」

 彼は一呼吸おいてからひどく嬉しそうに笑い、低く落ち着いた声で答えた。

「私はイヴイヴスマルトバレー。君と友人になれてとても嬉しいよ。これからどうぞよろしく、アズール」

 ああ、貴方そんな名前をしていたんですね。
 喉から零れそうになったその感慨を何とか押し止めてアズールは笑った。
 さあ覚悟しろイヴスマルトバレー。僕と同じ陸に同じかたちで上がってきた以上、簡単に冷たい海になど返してやらないぞ。お前の行きたいところへ連れて行ってやる。何処へだって何にだって橋渡しをしてやる。通行料なら既にたんまり頂いているし、これからもしっかり頂くつもりだ。

イヴ
「うん、アズール」
「僕も嬉しい。貴方と友人になれて、とても」

 支払い方法? 簡単だ。ただ「アズール」と呼んでくれればいい。僕にただ「イヴ」と呼ばせてくれるだけでいい。そう、まるで友人のように。僕等ずっと前から友達であったかのように。

「ふふ、どうしたのアズール。そんな、泣きそうな顔で言わなくたっていいのに」

2021.4.4

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