或る証明

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「私が練習していたあの歌は、元の世界で浄瑠璃と呼ばれているものです。浄瑠璃には色々と派生があるんですが、中でも私がやりたいと思っているのは、人形浄瑠璃……有り体に言えば、古びたミュージカルのようなものですね」
「有り体だなんて、言葉を濁さなくてもいいわ。アンタがそのミュージカルに注ぐ熱意を聞きたいって言ってるの」

 ジョウルリ、という聞いたことのない単語に、ヴィルは早速興味をそそられた。伝統芸能だと以前彼女が語ったそれは、おそらく彼女の元いた世界にしか存在しない特殊なものなのだろう。
 そうしたヴィルの予測に違わず、彼女がそこから続けた話の中に散りばめられた言葉は、どれも彼には馴染みのなさすぎる、未知が故に宝石のような煌めきと神秘性を持つものばかりだった。「三味線」という弦楽器による演奏でミュージカルが作られること。人形を操る役柄は「人形遣い」と呼ばれること。彼女が歌っていたものは、語りを担う「太夫」という役どころであること。嫉妬と絶望に満ちた女性が鬼の如き形相を露わにする様は「ガブ」という特殊な人形で表現されるらしいということ。
 人形は基本的に三人の人形遣いが一組になって操る。「主遣い」はその主体を担う最も重要な位置であるらしい。重い人形を長時間支えて操るためには相応の体力と筋力を必要とする。彼女が日頃から鍛えている様子であったのはそのためだった。

「じゃあアンタは『主遣い』をやりたいの?」
「そうです、と断言できればかっこよかったんですが、実はまだ悩んでいて……。主遣いは人形浄瑠璃の花形ではありますが、その分修行に膨大な年数が掛かるんです。時間というかけがえのないものを何年も投資して、でも結局主遣いを任せてもらえないまま別の役どころに落ち着いてしまう、なんてことも普通に在り得る世界なんですよね」
「ああ、だからどの役に転がってもいいように、歌の練習もしていたのね。……『三味線』はやらないの?」
「わー! やめてください! 楽器は、楽器だけはできないんです! 私があれを弾いてもニワトリの首が締まるような嫌な音にしかならなかったんですよ!」
「フフッ、ニワトリだなんて、そんなことある?」
「あるんですってば! 本当に酷いんですよ、何度振ってもバチがちっとも手に馴染まないんです。あ、バチっていうのは三味線の弦を弾くための道具で、ギターで言うところのピックみたいな……」

 ジョウルリ、について語る彼女はいつもに増して饒舌かつ早口だった。厳しい世界には違いないようであったが、それでも至極楽しそうに語り続ける彼女の姿にヴィルは安心させられた。鯨のヒゲや桐の木や貝殻など、自然のものばかりを使って造られている人形に宿った、溢れんばかりの生命感。三人で協力して一体の人形を動かし、まるで生きているかのように振る舞えた時の感動……。彼女の話から聞いて想像することしかできないヴィルでさえも何故だか気分が高揚した。魔法のない世界であるのは勿論のこと、科学技術の力にさえ頼らず職人の技だけで造り上げられた人形を、同じく魔法や機械の力を借りずに手作業で操るその様に、数多の人々の想い……魂のようなものが込められているであろうことは容易に察しが付いた。

「……語りにせよ、人形遣いにせよ、私が目指しているのは人形ではなく、それを動かし命を与える側の役です。観客が見ているのも人形、舞台で物語を作るのも人形。「私」は人形よりも目を奪う立場であってはいけない。見られるのは常に、人形でなければいけない」
「……」
「途中退場は悔しすぎる、最後まで舞台に立っていたい。そう願っていた先輩にとってはとても……つまらないものに感じるかもしれませんね」

『アタシはただ、最後まで舞台に立っていたいだけ』
 途中退場。それはあらゆる舞台において悪役を演じてきたヴィルにとっての、ある種のコンプレックスのようなものだった。最後までスポットライトを浴び続けられる、ヒーローやヒロインの位置を羨んだことも一度や二度では決してなかった。
 VDCの合宿初日、映画の出演依頼の連絡が来たとき、あの場に監督生もいた。最後まで舞台に立っていられない役はもう受けないとして依頼を跳ね除けたヴィルを、彼女はどんな気持ちで見ていたのだろう。見られるべきは「私」ではない、というプロ意識の元に人形を操らんとしている彼女が、ヴィルにこの話をするのを嫌がったのも無理のないことだった。勿論、つまらないなどとは決して思わないし、幻滅するなど以ての外だが、「そうされるかもしれない」と危惧した監督生の心持ちはもっともだろう。
 悲しい配慮をさせてしまったことを今更ながらにヴィルは恥じた。彼女はそんな彼の手をほんの少しだけ緩めてからもう一度強く握り直し、にっと軽快に笑って「気にしていない」ということを言外に伝えてきた。

「貴方にだけは話せない、と思った理由は他にもあって」
「教えて」
「この仕事、昔は女性がやることを禁じられていたんです」

 少しややこしい歴史と事情があるので今は話さないでおきますが、と付け足して困ったように笑う彼女は、おそらくその「ややこしい歴史と事情」のせいで傷付けられたことが少なからずあるのだろう。そうした過去を容易に察せてしまえる程度には、その笑顔は彼女にしては随分と下手で、ぎこちないものだった。

「長く『男性の芸能』とされてきたものへ女性が飛び込んでいくことに、多くの人はいい顔、してくれないんですよね。沢山反対されて、否定されて、馬鹿にされました。そうした批判を……私自身を磨き上げることでなんとか跳ね除けつつ、此処まで来たんです」
「……そうだったの」
「でももし、尊敬している貴方にさえ否定されてしまったら、ジェンダーレスの考えをしっかり持っている貴方にまで、私の挑戦を嗤われてしまったら、今度こそ立ち直れなくなるんじゃないかと思って……どうしても言えなかった。私の、失礼で臆病な予防線は、きっと貴方を不快にさせましたよね。ごめんなさい」

 先程彼女がしてくれたように「気にしていない」と言外に伝えて微笑んでしまえば、それは嘘になる。ヴィルが彼女の拒絶に傷付いたことは紛れもない事実であり、それをひっくり返してまでこの強い人を慰めにかかるべきではない。

「話してくれて、ありがとう」

 ではどうすべきかを真剣に考えた挙句、彼の口から最終的に零れ出た言葉はそうしたありふれたものにしかならなかった。けれどもその言葉を受けて微笑む彼女からは、つい先日まで張られていた予防線の……ヴィルをこれ以上こちらに踏み込ませまいとする装甲の気配が微塵も感じられなかった。そこに希望を見たヴィルは、まだ彼女に伝えられるものがあるはずだと信じて、嘘偽りない本心だけをただひたすらに、二人の間へと落としていった。

「つまらない、だなんてアタシ、絶対に思わない」
「……はい」
「アンタの決意も、奮励も、何一つ間違ってなんかいない」
「あれっ、……ふふ、困ったなあ。そこまで言ってもらえるなんて想定外です。夢みたい」

 夢ではない。現実だ。全て本当のことだ。ヴィルが彼女の目指すものを素晴らしいと思っていることも、彼女がヴィルにようやく自分のことを話してくれたことも、全て。

 彼女の話で聞くことしかできないジョウルリという伝統芸能をヴィルは素晴らしいと感じた。それだけの素晴らしくも過酷を極めた文化を担おうとしている彼女を、心から立派だと思った。同時に、その文化がどれだけ素晴らしいものであろうと、彼女一人ではどう足掻いてもこちらの世界にそれを再現することは不可能だろうなとも思った。こちらの世界にジョウルリはないし、作れない。そうした残酷な確信が、ヴィルの目の前を暗くした。

 であるならば、彼女は自らの志した芸術のため、彼女の夢のために、きっといつか此処からいなくなるのだろう。

「……美しさと愛について、ルークと三人で話したことがあった」
「ええ、そうですね」
「アンタはあの時、ルークの在り方を羨んでいるようだったけれど、アンタ自身はどちらを大事にしているの? アンタの芸術を、美しいとされた方が喜びに足る? それとも、ジョウルリという文化ごと愛してほしいと願っている?」
「私は……」

 そこで言葉を切った監督生は、何かを思い付いたかのように、ぱっと笑った。目を機嫌良く細めつつ、ヴィルの手を握ったまま立ち上がった。ベッドに腰掛けた状態のヴィルをやや見下ろすような形になった彼女は、握る手を僅かに弱めて大きく深呼吸をした。
 ゆっくりと上下する肩の向こう側、カーテンを閉め忘れていたステンドグラス調の窓の中に、煌めく細い月が見えた。綺麗だった、とても。

「私は愛されたい」

 ああ、こうやって愛を受け取る意思があることを予め伝えておけばよかったのかと、雷に打たれたような心地の中、ヴィルはそんなことを思った。
 「愛」も「好き」も、使い古された馴染みのある単語であるにもかかわらず、彼女の喉を通して出てきた途端、にわかに未知の過ぎる、おそろしく美しい宝石のようなものにさえ思われてしまう。こんなものは知らない。こんなものを受け取る術など、とてもではないが自力では思い付けない。
 こういうものを通じ合わせることがこんなにも難しく苦しいことであると、ヴィルは初めて知った。これまで沢山、我が事としてあらゆる運命を「役」という形で経験してきたにもかかわらず、それら全てがこの場においては何の役にも立たないのだ。未知が故に、受け取り方も贈り方も分からなかった。受け取る意思をこうして示されても尚、ヴィルには為す術がなかった。分からなかったのだ、本当に。

「じゃあ、どうしたら」
「……はい?」
「どうしたら、愛は証明できる? こんなに苦しいのは美しいからじゃなくて愛しているからだって、どうすれば伝わるのかしら」

 それでも伝えたいと願うなら、もう尋ねてしまうしかない。

「……」

 此処に、彼女の夢見たジョウルリはない。だからヴィルの語る愛、彼が証明せんとしているそれが「何」に向けられたものなのか、「誰」へ贈られるべきものなのか、きっとこの聡い監督生は分かっている。分かっているからこそ返答に窮し、沈黙しているのだ。監督生が「受け取らずともよい」として強引に変えた空気の中に押し流された「愛」や「好き」を、今やそのままヴィルが打ち返しているようなものだったのだから、何のことだかととぼける方が無理な話だろう。それでも、苦し紛れな笑みや誤魔化しで空気を濁そうとしない姿勢にヴィルは救われた。

「ごめんなさい、分かりません。私には、上手く答えが出せません」
「……そうよね。アタシにもさっぱり分からない」
「ただ、どうすればという手段じゃなくて、どうなったかという私個人の結果だけ話してもいいのなら」

 その愚直で誠実な姿勢はやはり好ましい。その沈黙の間、彼女がヴィルのことを真剣に考えてくれているということが分かるから、やはりとても嬉しい。
 監督もスタッフも観客も存在しないこの夜において、彼女ただ一人だけが自分を見てくれている。メイクもしていない、踊ることもできない、美しさとは程遠いところにある今の自分を、賛美ではなく愛をもって見てくれている。嬉しかった。救われた。幸せだ。幸せ、なのに。

「今日の件で私の、ヴィル先輩に対する『美しい』と感じる心は、正当な美への評価ではなく愛だってことが分かりました。私はヴィル先輩が好きみたいです。その上で貴方に『この苦しさは愛故だ』とまで暗に言われてしまったら……それは、もう、喜ぶなという方が無理な話じゃありませんか?」
「……」
「私は貴方を信じます。私にとって都合の良いように信じます。私は貴方が好きなので、そして貴方も同じ気持ちであったならどんなにか素敵だろうと思いさえしたので……」

 今、こんなに幸せなのに、これ以上など望むべくもない程に満たされているのに、そんな幸せをくれたこの人はいつか、ヴィルの前からいなくなる。

 
「貴方の愛を、喜んでみたい」
 

 その言葉に引き寄せられるようにして、ヴィルは手を離して勢いよく立ち上がった。眩暈のせいかぐらつく視界の中央に、驚いて目を丸く見開いた彼女を捉えつつ、その肩へと両腕を回した。抱き締めた、と言えば聞こえはいいが、上手く力の入らない腕では縋り付くような形にしかならなかった。とはいえ高身長であるヴィルの体躯を、鍛えているとはいえヴィルよりはずっと小柄な彼女が支えきれるはずもなく、間もなくして二人はずるずると崩れ込むように床へとへたり込む羽目になった。
 格好のおかしさからだろう、彼女はクスクスと笑いながらヴィルの背中に手を回してくる。冷たい手をしたヴィルが長らく握っていたにもかかわらず、背中には握った直後の温もりが失われることなくそのまま残っていた。

「アンタのジョウルリが見たい。アンタが世界一輝いているところをこの目で見てみたい」
「……嬉しい、ありがとうございます。でもこっちの世界じゃちょっと難しいかもしれませんね? 人形も三味線も、マリオネットやエレキギターで代用できるようなものじゃありませんから」

 彼女の制服が擦れる音が聞こえる。ヴィルの頬をくすぐる髪からは仄かにシャンプーの香りがする。震えている方の息はおそらくヴィル自身のものだ。泣いているのもおそらく、ヴィルだけだ。
 片腕でヴィルの背中を掻き抱いて、もう片方は再び彼の手へと伸びてくる。温かいそれを強く握りながら、耳元で囁くように紡がれる彼女の言葉を聞く。こんなにも嬉しく、こんなにも幸せであるはずなのにひどく苦しい。大岩が頭上へ降ってきた訳でもないのに、心臓が潰れてしまいそうだ。

「それに、仮に再現できたとしても、輝くのは私じゃないんですよ。主役は人形です。人形浄瑠璃での『一番』は、人形でなければいけないので」
「それでも、アンタの魂が吹き込まれた人形はきっと誰のものより美しいはずだから」
「あはは、私、あの界隈じゃまだ見習いもいいところですよ? 私より美しく演じられる方なんて大勢います」
「それでもアンタが一番だわ。愛しているから、そう見えるはず」
「……ふふ、どうしよう。信じられないくらい素敵。こんな告白、生まれて初めて受けました」

 彼女は自らの志した芸術のため、彼女の夢のために、きっといつか此処からいなくなる。ヴィルはいつか、ヴィルを好きだとまで言ってくれたこの子を、いつか彼女の夢のもとへ返さなければいけなくなる。

「今日だけよ。立ち止まるのも、休むのも、泣くのも、今日だけ」
「……ええ当然です。私達、のんびり生きていては到底手に入らないようなものに焦がれてしまっているんですから、奮励は続けるべきですよね。何があっても、何もなくても」
「アンタにこうして大人しく抱き締められるのだって、今日だけよ」
「あれっ、これも今日限りですか? 寂しいなあ。じゃあ今、沢山抱き締めておかなくちゃ」

 別れる未来は嫌だ。この手を離したくない。そんなのは絶対に好ましくない。でもそれ以上に彼女の夢が叶わないままであるのはもっと好ましくない。彼女の話を聞くだけでも十分に素晴らしいものだと分かってしまう、ジョウルリという文化から、彼女を、引き離したままにしておきたくはない。
 彼女が志すその素晴らしいものになら、喜んで彼女を返すべきだ。笑って、送り出してみせるべきだ。

「ねえヴィル先輩、抱き締めさせてくれるのは今日だけでいいから……手は、また握らせてくださいね。貴方の手が冷たいままだと、私が寂しいから」

 だからその最後の時までどうか、どうか。

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