B:パンドラは開かれた

そのトタン造りの倉庫は、村人達が割った薪を蓄えておくためのものであった。
修行の一環として割られた大量の木材は、全て大きな屋根の倉庫に集められている。外に薪を放置することは許されていなかった。
火にくべるためのものだから、雨に濡れて湿気てしまえば使い物にならなくなるし、何より外に放り出していると、森に住むビッパがその薪を大量に盗んでいってしまうのだ。

けれどこうして倉庫の中に薪を隠しても、ビッパというのは勘のいいポケモンであるようで、薪の場所を突き止めてはその扉の隙間からすっと侵入し、薪を持ち出してしまうのだ。
そのため彼等の届かない高さにドアノブを作り、しっかりと閉めておく必要があった。それは子供にも大人にも共通する「ルール」であり、誰もがそれを守っている筈であった。
そんな倉庫の扉が、20cm程、開けられている。閉めなければ、と思うと同時に、背中を冷たい汗が伝った。嫌な、想像をしてしまったのだ。

……最も幸いなのは、中の薪が全て無事で、荒らされた痕跡が何もない場合だ。これなら私は「なあんだ」と苦笑しつつ、ドアをしっかりと閉めるだけでいい。
次に「マシ」なのは、薪が盗まれており、ビッパの足跡がそこかしこに付いている場合だ。
私は慌てて宿舎に戻り、顔馴染みの女性に「倉庫にビッパが入ってしまったみたいです」と連絡すればいい。あとは大人達が何らかの対策を打ってくれる。

けれどもし、あの倉庫の中にビッパがいて、今まさに薪を盗もうとしているところだったとしたら。
私は波動の「力」を使えない。リオルだってそれほど強くない。もしあの扉を開けた瞬間、驚いたビッパに襲い掛かられてしまったら、私もリオルも、傷を負うだろう。
誰だって、望まぬ怪我などしたくないものだ。私はまずその想像に怯んだ。
更にその派手な傷によって「ああ、やはりあの子はビッパを追い払うことさえもできないのだ」と、皆に思われてしまうことを想像すると、いよいよ悲しくなってしまったのだ。
身体の傷につける薬は身に染みる。心の傷につける薬は存在しない。解っていた。容易には癒えないであろう二つの傷を負うリスクを考えると、冷や汗が出た。

それでも「見て見ぬふり」というものができなかったのだから、私もいよいよ愚かだったのだろう。
私は生きることにおいていよいよ下手な人間だった。とても不器用な人間だった。故に空っぽのカゴをその場に置いて、息を殺して倉庫に歩み寄るほかになかったのだ。

「……」

中は静かであるように感じられた。私はドアノブに手を触れて、そっと引いた。
どうかビッパが中にいませんようにと、私はただそれだけを祈っていた。私は己の身に不運が降りかからないことだけをひたすらに祈っていたのだ。

その祈りは、けれど思いもよらぬ形で叶ってしまった。
倉庫の中にはビッパの姿も、ビッパの足跡もなかった。かといって静まり返っていた訳ではなかった。そこには確かに先客がいた。

「ゲンさん?」

「!」

私に背を向け、分厚い本に視線を落としていた彼は、弾かれたように勢いよく立ち上がった。
同時に、おそらくその膝の上に置かれていたのであろう、私がいつも使っている枕くらいのサイズの茶色い箱が、ガタリと音を立てて落ちた。
蓋が開き、中からは二冊の本と、モンスターボールの描かれた派手な色の袋が飛び出してきた。まるでスモモを詰めたかのような、丸いふくらみがその袋には幾つもあった。
何が入っているのだろう。そう思って手を伸べようとしたけれど、その不思議な袋に触れることは叶わなかった。
その人があまりにも素早く私との距離を詰め、本と袋を直ぐに拾い上げたからだ。

「君は確か、アイラだよね、六番宿舎の……。どうしてこんなところに?」

「扉が開いていたから、ビッパに盗まれないようにしっかり閉めておこうと思ったんです。ごめんなさい、こんなに驚かれてしまうとは思わなくて……」

「いや、気にしないでくれ。君は何も悪くないんだ。私が、慌てただけなんだよ。本当にすまない」

彼は、慌てているのかもしれなかった。
上擦った声音、不自然に泳ぐ瞳、強張った肩、その全てが「焦っている」「慌てている」ということをあまりにも雄弁に示していた。
……にもかかわらず「慌てているのかもしれない」と、断言の形を取れなかったのは、この彼が何の感情もその周りに漂わせていなかったからだ。

焦燥や困惑に飲まれそうになっている人から零れ出るべき、灰色の棘のような波動が彼にはない。彼の周りには何色の霧も、風も、泉もない。
優秀な波動使いほど、その身に沸き上がる感情を処理するのが上手な傾向にある。
彼がこのような状況下においても、何の波動も零していないのは、そうしたことが理由であったのかもしれなかった。

けれどこの男性は、そうした「波動」をコントロールする術こそ心得ていたものの、表情や声音に嘘を混ぜることは、どうにも不慣れであったようである。
その、至極不安そうな表情は、まるで幼い子供のようであった。彼はその幼い顔のままに、あろうことか私に、頭を下げた。

「お願いだ、私がこのようなものを持っていたこと、誰にも言わないでほしい」

波動の勇者の生まれ変わりとして、誰彼からも目を掛けられ、崇められていた彼の懇願を、断る術など私には端からなかった。けれどただ、驚いていた。
この立派な人が、私のような子供に頭を下げるなんて!この村の中でとても偉い地位にある筈の貴方が、私に、命令ではなくお願いの言葉を口にするなんて!

「分かりました、誰にも言いません」

たったそれだけの言葉、波動の力を使いこなせていない私なら、きっとそう答えるしかなかった、些末でありふれた、当然の言葉。
けれど彼はその言葉にこの上なく安堵したようで、今にも泣き出しそうに笑い、私の手を取って「ありがとう」と4回告げた。私の名前はその間に、5回呼ばれた。
彼のその声音は、少しだけ冷たいその手は、私を思い上がらせるに十分な響きを持っていて、だから私は、とんでもなく調子に乗ってしまって、

「でも一つだけ、私のお願いも聞いてほしい」

こんなことを、よりにもよってこの人に言ってしまって。

「いいよ、勿論だ。私にできることなら何だってしよう」

「……何でもいいんですか?」

けれど彼が、彼の方が寧ろ救われたような笑顔で了承の意を示してくれたから、「何がしたいんだい?」と訊いてくれたから、
私は「やっぱり、何でもありません」などと言うこともできずに、ただ彼の言葉に驚き、怯んで、立ち竦むほかになくなってしまったのだ。

どうしてこの人は私のお願いを聞いてくれるのだろう。
私が貴方の秘密を守ることも、貴方の言葉に従うことも、全て普通のことだ。けれどこの人が私のお願いを聞き届けることは、まったくもって、異常なことだ。
ゲンさんは立派な人だった。波動の力を誰よりも上手に使いこなしていた。昔の偉い人の生まれ変わりなのだという大人達の言葉を、私はそのまま信じていた。
そんな彼が私の言葉に従う理由など、まったくもって何処にも、ない筈なのに。

「その箱の話が聞きたいです。ゲンさんがどうしてその箱のことを秘密にしたいのか、私はよく解らない。だから教えてほしい。話してほしい」

私はあろうことか、この人の秘密を求めてしまった。

彼はたっぷりの沈黙を置いてから、至極嬉しそうな表情で背を丸めた。
私の頭を撫でながら「そんなことでいいのかい?」と尋ねるこの立派な人に、私の強欲は見抜かれていなかった。
私はとても驚いて、言葉を失って、ただ、こくこくと大きく頷くことしかできなかった。

アイラ、早起きはできるかな?」

「……はい!」

「いい返事だ。それじゃあ朝の5時、皆が起き始める前に君を呼ぶからね」

朝の5時になんて、起きたことがなかった。どちらかというと私は早起きが苦手な人間だった。それでも「はい」などと元気に答えてしまったのは、私が強欲だったからだ。
私はどうしても、この立派な人の秘密が欲しかった。
かっこよくて、皆の憧れで、皆に優しくて、優秀で……。そうした彼の、誰も知らないところを知りたかった。
遠くから眺めているだけでよかった筈なのに、私はまたしても強欲を働かせてしまった。

これは村の落ちこぼれである私には叶う筈のない大きすぎる願いであった。解っていた。
けれどその「叶う筈のないこと」が目の前に差し出されてしまった今、私は何としてでもこれを手放す訳にはいかなかったのだ。放したくなかったのだ。

アイラ

そんなことを考えていると、私の名前が唐突に呼ばれた。私はそれを耳で聞くことができなかった。何故ならその呼び声は、彼の喉から出てきたものではなかったからだ。
彼は口を開かずただ静かに微笑んでいるだけだった。彼の喉は震えていなかった。それは私の鼓膜ではなく、私のもっと奥、心臓の辺りを揺らしていたように思われたのだ。
私がその声に反応したことに気付くと、彼は少しだけ驚いたような表情の跡で、至極嬉しそうに「ああ、君には聞こえるんだね、よかった」と零した。

「明日、こうやって君を呼ぼう。これは伝えたい相手にだけ届くものだから、他の誰にも気付かれないんだ」

「波動、ですか?」

「そうだよ。今までルカリオ以外の誰にも成功したことがなかったのだけれど……君はもしかしたら、他者の波動を感じ取る力に長けているのかもしれないね。
……ああ、これも秘密にしておいてくれないか。誰にも言っていないんだ」

立派な彼が今更、どのような力を持っていたところで私は驚かなかった。寧ろ彼でも失敗することがあるのだと、そのことにこそ私は驚いていた。
更に「私以外の誰にも成功したことがない」という、この上なく光栄な事実も私を驚かせ、そして舞い上がらせていた。
私もまた、誰かの波動が「言語」の形で自分の耳に届いたことは未だかつてなかったから、その「初めて」がよりにもよって彼であることが、どうしようもなく嬉しかった。
だから「誰にも言いません」と誓いの言葉と共に頷き、その幸福な事実をそのまま信じた。
彼はやはり、こんな私の言葉にひどく安心したように眉を下げ、「ありがとう」という有難い言葉を紡ぐのだ。

波動の形を取った声が私に届いている。耳にではなく胸のずっと奥に、私の心に届いている。
私を呼ぶこの声は私にしか聞こえていない。今まで他の誰も、この声で名前を呼ばれたことがない。
嬉しかった。心臓を両手で包み込まれて、そっと温めてくれているような、そんな心地だった。夢を見ているかのようだったのだ。


2017.2.22

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