A:赤い宝石の名前

朝の7時に目が覚める。朝食の匂いが漂ってくる。飛び起きて、着替えて、冷たい水で顔を洗って、髪を整えてから食堂へ走る。
小さなリオルは元気よく鳴いて、ぴったりと私の後ろに付いてくる。私の一番で唯一の、家族だ。

私は母と父の顔を知らない。兄弟と呼べる人もいない。
一緒にこの宿舎で暮らしている仲間は、同じ年頃の子供達は沢山いるけれど、彼等と私に血の繋がりがあるのかどうか、解らない。
村から出ることは許されていないから、きっとこの静かな村の中に私の両親もいるのだろう。もしかしたら私にはお兄さんや妹だっていたのかもしれない。
けれど、生まれた傍から親元を離され、決められた人、決められた場所、決められた時間で厳格に育てられるうちに、
私達は生まれた瞬間には確かに覚えていた筈の「実の両親」の顔を、どうにもすっかり、忘れていく。

もしかしたら私の母は、今日もトーストを焼いてくれている食堂の明るく元気な女性なのかもしれない。
あるいは毎朝、丁寧な言葉で私達に挨拶をしてくれる、眼鏡の先生がそうなのかもしれない。
波動の使い方を教えてくれる、髭の立派なおじさんが私の父である可能性もあるし、少し珍しい色のリオルを連れた男の子が私の弟であるかもしれない。
近しい人が誰なのか解らない世界。けれど確かに近くにいる世界。誰もが皆、黒曜石のような深い色の髪を持って生まれてくる世界。波動の力こそが全てである、世界。
慣れている。解っている。父や母の顔を知らなくとも、私はこうして毎日を生きている。近しい人に会えずとも、笑っていられる。

「おはようございます!」

「おはよう、アイラ

食堂の女性から、いつものトーストとミルクを受け取る。隣の男の子はトーストにチョコペーストを塗っている。
私も塗りたい、食べてみたい。そんな気持ちに嘘を吐いていつものようにそのまま齧る。
黄金色にこんがり焼けたトーストの耳が好きだ。歯を立てれば心地良い音だけ返してくれる、ささやかで優しい朝食が好きだ。
私のトーストにチョコペーストが塗られることは決してないけれど、このトーストが奪われてしまうことも決してない。
毎朝、必ず私のところへやって来てくれる、かけがえのない平穏の音は今日も優しい。頑張ろう、という気分になる。
いつか必ず私もチョコペーストを食べられるようになるのだと、そのためにたゆまぬ努力が必要なのだと、この頃は純粋に、ひたむきにそう信じていたのだ。

「土煙を起こすことも叶わない、弱い波動使い」
皆は私のことをそう呼ぶ。私はその呼称に異議を唱えたことは一度もない。だって本当にその通りだからだ。私は波動を「力」とすることのできない存在だったからだ。
皆のように、丸太を割って薪にしたり、その薪を燃やすべき火を起こしたり、10分後の風向きを読んだり、嵐の訪れを感じ取ったり、そういうことの一切ができない人間だった。
力を持たない、使いこなせない人間に、この村はとても厳しく出来ていた。それが当然のことだったから、悲しむという発想がそもそもなかったのだ。
この通り、波動を「力」として扱えない私は所謂「落ちこぼれ」だった。けれど、そうした私には波動の一切が解っていなかったのかというと、実は、そういう訳でもない。

私は波動の気配を感じ取ることができる。人や生き物の、溢れ出る感情を波や音の形で見たり聞いたりすることができるのだ。
言語の形を取りこそしないけれど、生き物の周りに漂う波動の色や音は、時に言葉よりもずっと雄弁だ。
嫉妬の霧は煤の色、誠意の風は海の色、諦念の息は鉛色、慈愛の泉は空の色。
喜んでいる人からはそよ風のように心地いいメロディが聞こえるし、憎しみに心を燃やしている人の背中からは不協和音がピリピリと漏れ出している。
私はそうしたものを見たり聞いたりしながら育った。私だけの特権であることも心得ていた。

良い感情も悪い感情も、大きすぎると人の器に収まりきらなくなって外へと溢れ出てくるものなのだと、私は幼い頃からずっと、知っていた。

その霧や息や音というのは、子供達の周りに多く漂う傾向にあった。小さな体の中に抱えきれる感情というものはあまりにも少ないのだ。
もどかしさは星の色、熱意は炎の色、怒りは血の色、覚悟は緑色。寂しさや悲しみは……青色の時もあるし、白い時もあるし、オレンジ色の時もある。
そうした様々な色を子供達は忙しなく纏い、時に波動のみに飽き足らず、涙としてその感情を零すこともあった。涙は、感情の種類にかかわらず一様に透明だった。

逆に大人はそうした「波動」をとても上手に隠していた。体も心も大きくなった彼等は、容易にその感情を外へと零したりはしないのだ。
それでも、たまに真っ赤な風や煤色の霧を纏っている女性がいる。嫉妬や憤りは大人の大きな体からも時に飛び出し、暴走する。
彼女たちはそうした禍々しい霧や風を纏いながら、それでも、どうしようもなく穏やかに優しく、笑うのだ。

私にとって波動は「力」ではなく「精神」だった。精神は表情によって容易に隠され、力によって呆気なく捻じ伏せられるものなのだ。
「彼」に会うまでは、これこそが私の真実であったのだ。

「今日は誰が選択物を干してくれるの?」

洗い終えたらしい洗濯物のカゴを抱えた年上のお姉さんが、食堂に向かってそう尋ねる。
勢いよく立ち上がって「私です!」と大声で告げれば、彼女はにこりと笑って「それじゃあお願いね」と、大きなカゴをどさりと食堂の入り口に置いた。
ああそうだった、今日は当番の日だった。ゆっくりトーストを味わっている場合ではなかったのだ。
そう気づいて、残りのトーストをミルクと一緒に喉の奥へと流し込む。ミルクの冷たさが否応なしに私の目を覚ましてくれる。

本当はホットミルクが好きだ。80℃くらいに温められた、火傷しそうな湯気を頬にそっと浴びるあの感覚が好きだ。甘くなったミルクを少しずつ飲むのが好きだ。
けれど叶わない。解っている。でも幸いなことに日曜日の朝食だけはホットミルクの恩恵にあずかることができるから、今日の冷たいミルクを恨む気にはなれなかった。
火曜日のミルクが温められることは決してないけれど、でも冷たいミルクが奪われてしまうことだって、在り得ないことなのだ。

食器を下膳台に積み上げて、大きなカゴを抱き上げる。裏口から外へ出て、竿に洗濯物を引っ掛けていく。石鹸の匂いが鼻先をくすぐる。思わず、笑みが零れる。
子供達の歓声が聞こえてくる。二番宿舎の方角だ。何か楽しいことがあるのかしら。
竿の向こうには稲穂の波が見える。そろそろ収穫の時期かしら。新米はどんな味がするかしら。
冷たい選択物を手に抱いた私の意識は、この宿舎の外へ、通りの向こうへ、黄金色の波の中へ、何処までも飛んでいく。誰も私のささやかな散歩を邪魔することはできない。

この村には、私を含めた子供達が暮らす宿舎が幾つもある。扱える波動の量や強さによって、住むことのできる宿舎さえも異なるのだ。
私の住んでいる六番宿舎は市場や広場から少し離れたところにある。傍の畑には毎年、秋になると稲穂が黄金色の波を作っている。
本物の海もこんな風に美しいのかしらと、まだ見たことのない大海原に思いを巡らせるのが好きだった。

でも此処は所謂「劣等生」の宿舎のようだから、皆は此処で暮らすことを快く思っていない。
誰もが早くこの場所から抜け出そうと思っている。一つでも「マシ」な宿舎へ行こうと日々懸命に修行している。
私も勿論、修行に励んでいる。……ただ、私はあまり「別の宿舎に移りたい」とは願っていなかった。
前述のとおり、窓から見える稲穂の海は最高に綺麗だし、人の喧騒から少し離れたところにあるこの宿舎の立地も気に入っているし、
……何よりこの宿舎の傍には、とても素敵な「お隣さん」が住んでいるのだ。

「波動の勇者の生まれ変わり」

村の人は、その「お隣さん」のことをそう呼ぶ。
彼は波動の力を使って綺麗な青い火を起こすことができる。風向きを読むだけでなく、ほんの数秒の間、風の流れを変えてしまうことだってできる。
遠く離れたところにある丸太を真っ二つにしたこともあるし、「嵐が来そうだよ」と知らせてくれるのは決まって彼であった。
そうした、誰もが欲して然るべき何もかもを持っている男性だった。皆に頼られ、皆に賞賛され、皆に憧れられている人物だった。

私よりも一回りほど年上であるその人が、私の「兄」であればいいのに、などと都合のいい夢を見たりもした。
けれどその「お隣さん」を私の兄とするには彼はあまりにも大人びていたし、私の父とするにもまだ若すぎるような気がした。
残念だなあ、と思いながら、私は憧憬のまなざしで遠くから彼を見るのが常であった。
焦がれたものは必ず、いつも遠くで輝いているだけだった。私はそれを見るだけでよかった。この目に焼き付けるだけで、満たされていた。
それが叶うという点において、この「劣等生」の宿舎はとてもいい場所であったのだ。

更に幸運なことに、そんな彼の近くに寄らせてもらえる時があった。
日曜日の3時になると、彼を含めた数名のお兄さんが一斉に火を起こして、宿舎の子供達のために美味しいパンケーキを焼いてくれるのだ。
青い炎も、美味しいパンケーキも、一様に私の焦がれるものであったから、それらを間近で見ることができるという幸福に私はこの上なく喜んでいた。
運が良ければ「落ちこぼれ」の私にも、余った生地で小さいパンケーキを焼いてくれるのだ。

一度だけ、彼の手からパンケーキのお皿を受け取ったことがある。

「熱いから気を付けるんだよ」

降ってきた優しい声音に私は慌てて顔を上げて、上擦った声音で感謝の言葉を紡いだ。
彼は他の村人の目を盗んで、おそらくは彼の分であった筈の、真っ赤な果実を私のパンケーキの上にそっと飾って、笑ってくれた。
使い慣れないフォークとナイフでそれを切り分けて、口に運んだ。甘くて、ふわふわで、どうしようもなく美味しかった。甘すぎてくらくらと眩暈さえしそうになった。

私のような人間がこんなにも美味しいものを食べられるなんて、おかしい。
そう思いながら、けれど私は遠慮というものをすることができず、パンケーキと果実をあっという間に平らげてしまった
優遇というものに飢え過ぎていた私は、その輝かしい恩恵を拒むことができなかったのだ。
偶然だとしても、気紛れであったとしても、私のところにやってきてくれたその幸福を、私は絶対に手放すまいと必死であったのだ。そうした意味で私はこの上なく貪欲だった。

だから私は「これ以上」を望まない。望んだところで私の波動ではその全てが叶わないことなど解りきっているし、何より私はこのささやかな幸福に満足していたからだ。
美味しいトーストと冷たいミルク、リオルとの生活、黄金色の海、石鹸の匂い、パンケーキの思い出、それらがあればいい。本気でそう思っていた。

けれど運命という名の幸運は、何故か私を選んでしまった。

「あれ……?」

稲穂の見えるあぜ道を通って近道をしようとして、私はいつもの道とは違うルートを選んだ。その偶然が私の目に「それ」を映したのだ。
倉庫の扉が、開いていた。


2017.2.27

© 2024 雨袱紗