6:波を棄てる音もまた波

パイナップルのある世界。真冬に苺が食べられる世界。チョコレートやハチミツを安価で手に入れられる世界。波動の、知られていない世界。
そうした、あの村とは違う何もかもを噛み締めるように、少女はパンケーキをもう一度口に運び、こくりと飲み込んだ。
か細い喉はゲンの記憶よりも更に細くなっているように思われた。フォークを構える指も同様に、やはり頼りないものだったのだ。
変化というものは、それが好ましいものであろうとそうでなかろうと、一様に人の体と心を疲弊させるものなのだ。解っていた。

「あの村を出てよかった。楽しいこと、幸せなこと、外に出て沢山、知りました。
でも、今がどうしようもなく幸せだからこそ、悔しいんです。どうしてあの村で私達はあんなに苦しまなければいけなかったのかって、そう考えると、悲しいんです」

とりわけゲンとこの少女にとって、その「変化」はあまりにも目まぐるしく忙しなく、まるで毒のようであった。
好ましい変化には違いなかったが、あまりにも環境が違い過ぎて、嵐と見紛うかのような変化で、彼等はその嵐に踊らされ、疲れ果てていた。

『あの村に生まれなけば、こんな嵐に心を割かれることもなかったのに。』

運命への憎悪が聞こえた気がした。……勿論、そのような恨み言を彼女は吐いていない。
けれどパンケーキをあまりにもゆっくりと咀嚼するその姿が、苦しそうに眉を寄せるその表情が、あまりにも雄弁にその呪いを奏でている。
ゲンはそんな彼女から目を逸らすことができない。

「ゲンさん、貴方はこんな気持ちになりませんでしたか?あの村を、あの生活を、悲しみたくなりませんでしたか?自分が、とても虚しい存在であるように思いませんでしたか?」

「思ったよ、今だってそう思っている。おそらく君よりもずっと酷い思いで、私はあの村を呪っている」

呪う、という禍々しい言葉に少女の顔がさっと冷えた。ゲンは「冗談だよ」という風に苦笑してみせるが、彼女の目にはそれが嘘であることがきっと見えている。
今のゲンの周りにはきっと、血のように赤い憎悪の色が渦巻いているのだろう。ワインのように濃い霧が、きっと己の笑顔さえ隠しているのだろう。
彼女はそうした、生き物の強すぎる感情を、波動という「色」に見ることのできる人間だった。彼女に、嘘は吐けないのだ。

「でも、もういいのだと思うことにしたよ」

彼女の強張った表情が少しだけ和らぐ。それを見届けてから、ゲンはナイフをパンケーキにそっと差し入れる。
切り口からふわりと甘い湯気が上る様を、できることならゲンはいつまででも見ていたかった。

「私も君も、これからずっと長い時間、こちらの世界で生きていられる。特に君は私よりもずっと若いのだから、あの村で苦しんでいた時間の何倍も、幸せでいられるんだよ。
だから、これまでできなかったことよりも、これからできることに目を向けてみないか?」

「これから、できること……」

「沢山、あるだろう?あの村を出てから、既に君だって沢山経験してきた筈だ。あの村を飛び出してから、君は何が一番嬉しかった?」

すると彼女は困ったように眉をひそめてクスクスと笑い始めた。
「そんなの、」と声を震わせながら至極楽しそうに発されたその声音だって、きっとあの村では聞くことのできなかった、悉く自由な響きをしているに違いないのだ。

「貴方に会えたことが、きっと一番嬉しかった」

私もだ、とたった一言付け加えればいいだけの話だが、まだゲンはそのたった一言を紡ぐことが叶わない。
おかしな話だと思う。臆病なことだと思う。けれどそれが彼であり、おそらくは彼のそうした面をも彼女はよく知っている。
ゲンは彼女にのみ、そうした己の弱さを示していたのだ。あの村で静かに暮らしていた頃から、ずっとそうであったのだ。

「ではその喜びを叶えるために、私はこれからも君と一緒にいることにするよ」

「いいんですか?私を、此処に置いてくれるんですか?」

「ああ、私も君に会えて嬉しかったから、君が此処にいてくれたなら、君の願いと同時に私の願いも叶うことになるね。
私は君の過去を共に恨むより、君の未来を共に祝福したいんだ」

その言葉で彼女をふわりと椿のように微笑ませることの叶ったゲンは、けれど次の一言でその笑顔を瞬時に凍らせてしまうことになる。


「だから波動のことはもう、忘れよう」


ぽとり、と椿の落ちる音が聞こえた気がした。
椿はその花弁を一枚ずつ、名残惜しそうに散らしたりはしない。その全てを豪快に、残酷に落とすのだ。斬首を思わせるその惨さが、ゲンは少しばかり苦手であった。
今、それと同じような空恐ろしさで、彼女がパンケーキの上に苺を取り落としている。ひどく傷付いたような表情で、悲しそうにゲンを真っ直ぐ、見つめている。
椿は一枚ずつ散らない。苺の中は白い。少女はまだ、パイナップルを食べていない。

「私が「優秀な波動使い」でなくなってしまうことが、悲しいかい?」

「いいえ!そうじゃありません。……ただ、外はまるで異世界のようで、楽しいことも幸せなことも沢山あるけれど、私はまだ少し、怖いんです。
だから馴染みのある「波動」を、まだ持っていたいと思ってしまうのかもしれません。懐かしんでいたいのかもしれません。でも、いつまでもそんな調子じゃいけませんね」

握られたフォークの先がパンケーキの上のパイナップルに触れて、ゲンの心臓はそのことに大きく跳ねた。
今、どうかパイナップルを食べてくれるなとゲンは思っていた。ただそれだけを願っていた。
その悲しさのままにパイナップルを口に運んだなら、きっとその酸味が彼女を泣かせてしまうだろうから。
彼女はパイナップルを「塩辛いもの」として覚えてしまうかもしれないから。

「別の世界で生きるためには、きっと、呼吸の仕方を変えなければいけないんですね」

陸に打ち上げられた人魚のように、彼女は悲しげに目を伏せた。
この世界で生きるために用意した筈の言葉が、この世界での彼女の酸素を奪い始めていることに、ゲンは愕然とした。

けれど、それでは一体誰が、彼女に呼吸の仕方を教えてあげられるというのだろう。
外の世界にいる彼女の知り合いはゲンを置いてほかにいない。けれどそのゲンさえも、こちらの世界での適切な呼吸というものを、上手く会得することができずにいる。
このままでは二人共が無様に溺れてしまう。どうすればいい。どうすれば生きられる。
解らなかった。混乱と絶望は犯人を求めて彷徨い始めたので、ゲンは再び目をすっと冷たく細めてあの村を恨んだ。波動の力を憎んだ。そうすれば幾分か呼吸が楽になった。

私達のための酸素は何処にあるのだろう。解らなかった。ゲンにも少女にもまだ、解らなかったのだ。

**

苺とパイナップルが盛り付けられたパンケーキが、私の目の前にそっと置かれた。
無学な私は「椿」がどの季節に咲く花なのかということさえも解らなかったのだけれど、
薔薇の大輪のようにパンケーキを彩る苺の姿から、きっととても豪華で美しい花なのだろうと推測することは容易にできた。

花芯に見立てているらしいパイナップルにフォークを突き刺し、パンケーキと一緒に口へと運ぶ。
この洒落たパンケーキは、彼と彼女の思い出の味なのだと、そう認めれば口の中に優しい甘さがふわりと溶け出した。
パイナップルはもっと酸味の強い果物であった筈なのに、そこには甘さがただひたすらに漂うばかりであったのだ。……もう、パイナップルは酸っぱくなる必要がないのだ。
ただそれだけのことがどうにもおかしかった。随分と、ドラマチックなことだと思えたのだ。

「楽しくない話を聞かせてしまったね。気が滅入ってしまったのではないかい?」

「どうして?楽しいだけの人生なんかある筈がないんだから、不快になんてならないわ。寧ろ、嘘を混ぜずにありのままを話してくれたこと、とても嬉しく思っているのよ」

すると二人はまたしても顔を見合わせて、ほぼ同時に声を上げて笑い始めた。
そんなことを言った人は君が初めてだ、と言わんとするかのような、驚愕と愉悦を絶妙なバランスで配合した、眩しく愉快な笑顔だった。

彼の話は全く美しくなかった。私はそのことに喜び、そして安心していた。つまるところ私だってそうした「美しくない」人間だったのだ。
慣れない世界に放り出されたこの二人に私が「誰」を重ねているのかということを、きっと隣でパンケーキを食べている私の友人は見抜いている。
見抜いて、そして気付かない振りをしている。ニコニコと微笑みながらパンケーキを口に運び、「ねえ、もっと聞きたいよね」と私に同意さえ求めるのだ。

この友人が私に紹介したかったのは、この美味しいパンケーキではなく、そのパンケーキを作る二人の方であったのだと、私はようやく気付き、苦笑した。

ハッピーエンドであることが解っているフィクションというのは、やはりこの上なく安心する。
けれど彼等は「フィクション」ではない。彼等の生きる現実が、ハッピーエンドで終わることなど、在り得ない。
何故なら現実は「終わらない」からだ。ハッピーエンドのその先を、私達は生きなければならないからだ。
私は、私と同じ世界線に生きている彼等のハッピーエンドの、その先の姿を見せてもらっている。今の彼等が穏やかなのは、ハッピーエンドを経たからだと、解っている。
……ならば「そこ」に至るまでの苦難だって、しっかりと目を逸らさずに見つめるべきだ。

そうした決意をこっそりと胸に抱き、私は毅然とした音で「そうね」と友人の言葉に同意する。同意して、今度はアイラさんの方を見る。

「このパンケーキが美味しすぎて困っているところだから、いい具合にこれを不味くしてくれるような、とびきり苦い話が聞きたいわ」

「あはは、それならお安い御用です!私もゲンさんも、苦い話には事欠かないんですよ」

とびきり甘い笑顔を湛える彼女は、とびきり苦い話を始めようとしている。ナイフとフォークを握り締めたまま、私は彼女の言葉を待った。
その小さな口から果たして、どんな凄惨な物語が飛び出そうとしているのだろう。その笑顔はどんな声音で、かつての涙を語るのだろう。

「貴方は、お酒を飲むポケモンに会ったことがありますか?」


2017.2.21

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