C:グルテンに神秘

翌朝、5時2分前に目を覚ました。
慌ててベッドから飛び起きて、冷たい水で顔を洗った。パジャマを脱ぎ捨ててセーターに袖を通し終えたその瞬間に、窓の方から予告の通りに『アイラ』と私の名前が呼ばれた。
寝癖はついていないかしら、不格好ではないかしら。そんなことを思案する間もなく私はドアをそっと開けて宿舎を抜け出す。
ゲンさんは私を見つけると、穏やかな笑顔で「おはよう」の挨拶をする。今度の声は心にではなく耳に聞こえてくる。

「リオルは連れているかい?」

「は、はい」

「では一緒にこの辺りを歩こうか。もし誰かに見つかっても、君と一緒に波動の特訓をしているということにすればいい」

誰よりも優秀な波動使いである筈の彼の口から、そのような、まるで私よりもずっと小さな子供が奏でる嘘の響きが零れ出たことに、私は少なからず驚いた。
けれど「呆れたかい?」とすかさず飛んできた彼の言葉には大きく首を振った。
呆れない。呆れる筈がない。だって私はそうした彼の姿を知りたかった。皆の知らない彼を知りたかった。
彼はそうした私の出過ぎた強欲を、出会い頭に早くも一つ、叶えてくれる。

まだ外は薄暗くて、視界はあまり利かなかった。私にとっては悉く不自由な暗闇だった。
けれど彼にとってはそうではないらしく、迷いも淀みも全く感じさせない、しっかりとした足取りで村を歩いていた。
視界を奪う暗闇の方が、寧ろ彼を避けているかのようだった。私はそんな彼の後ろにぴったりとついて歩いていた。
静まり返った市場、野生のポケモンさえ目覚めていない空、まるで世界が私とこの人だけになってしまったようで、胸がキリキリとどうしようもない幸福に痛んだ。

アイラ、君は何になりたい?」

暫く歩いたところで彼は振り返り、不思議なことを私に尋ねた。
……私が何になりたいか?そんなの、優秀な波動使いになりたいに決まっている。
皆のように何か一つでいい、取り柄が欲しい。波動の力に振り回されるのではなく、貴方のように堂々と、毅然とした態度で使いこなしたい。
そうした願いは私だけのものではない。きっと誰もが、ゲンさんのような優秀な波動使いになることを願って、日々、たゆまぬ修行を積んでいるのだ。
努力は人を裏切らないのだと、そう教えられて育った私が、自身の、今はまだ報われていない努力の先に、貴方のようになることを夢見たとして、
それは何もおかしなことではない、至極当然のことであるような気がしていた。それ以外の願い、どうせ叶わない願いなど、考えたこともなかった。考えないようにしていた。

「優秀な波動使いになりたいです」

「……そうだね、そうだよね。では質問を変えよう。アイラ、君は何をしている時が一番楽しいんだい?」

その言葉に私はぱっと笑顔になって「お料理!」と紡いだ。
あまりにも大きな声が出てしまい、余所の家の人を起こしてしまうことを危惧して慌てて口を両手で塞いだが、そんなことをしても零れた言葉は口の中に引き戻ってなどくれない。
解っていながらそれでもそうせずにはいられなかった私を、ゲンさんは楽しそうに笑って許してくれた。
許してくれたと解ってしまったから、私は調子に乗って更に言葉を続けた。
私にとって「許される」ということはとても、とても珍しいことなのだ。だから手放せなかった。私はこんなところまで強欲だった。

「稲刈りをした時にはざらざらで茶色い、石みたいなお米の粒が、精米して真っ白な宝石になっていく、その流れを見るのがとても好きなんです。
火を使わせてもらったことはないけれど、炊き上がったご飯の鍋を開くとき、とてもわくわくします」

「ああ、確かにとてもいい匂いがするよね。キラキラ光っていて、真珠のようだと私も思ったことがあるよ」

「素敵ですよね!あと、パンの材料を捏ねて形を作っているのは私なんですよ。焼き上がると大きく膨れて黄金色になって、とても綺麗なんです。
サラダの盛り付けをするのも好きですし、ドレッシングを作るのも楽しいです。白いお皿に料理を盛り付けているとき、まるで、お絵かきをしているみたいで、」

夢中になって喋り続けていた私は、暗闇の中で彼と目が合うや否や、それまでの高揚をすっかり手放して「ごめんなさい、」と謝罪の言葉を零した。
けれど彼は驚いたようにその目を見開いて、そして困ったように笑いながら「続けてくれないか?」などと、とんでもないことを口にするのだ。

「君の話をもっと聞きたい。君がどんなことを考えながらこの村で暮らしているのか、知りたいんだ」

「……私の話なんて、面白くないと思いますよ」

「そんなことはないさ。少なくとも私は、料理の盛り付けを絵画のようだと思ったことは一度もなかったよ」

「そうなんですか?」

驚いた!
私のような子供が考えるようなこと、この立派な人にとってはもうずっと昔に悟っているような、些末で下らないことばかりだと思っていたのに。
私の未知が彼の既知である、ということはきっと数えきれない程にあるのだろう。けれど私の既知が彼の未知であるなんて、そんなこと、この世界には一つもないのだと思っていた。
それ程に私は小さく、彼は偉大だった。

彼は全知全能の、それこそ「波動の勇者の生まれ変わり」とでも呼べそうな素晴らしい力を備えた人であるのだと、そういう認識を私はずっと持っていた。
それ故に、そんな彼の、誰も知らない姿を私だけが見ることが叶ったとして、その「姿」というのは、これまでの輝きよりももっと眩しく素晴らしいものであるのだと、
そうした彼を間近で見ることの叶う幸福を、ひっそりと慎ましやかに噛み締めているだけでよかったのだと、
私はそういう風に思っていたのであって、彼を全知全能の、神様のように見ていたのであって。

「呆れただろうか、私のことを」

「いいえ!」

こうして早朝に家を抜け出して、誰よりも彼に近い場所で見ることの叶った彼の姿が、紛れもない「ただの人」の形を取っていることなど、全く想定していなかったのであって。
あのトタン屋根の倉庫で見せた彼の、幼い子供のような不安そうな表情は、私が見た幻覚ではなかったのであって。
そのことが、この立派な人の中に私と同じ心があることが、どうしようもなく嬉しかったのであって。

「誰にも言いません。此処でのこと、貴方のこと、私は誰にも話しません」

私だって、彼のように全知全能の人間ではなかった。私の方がずっと小さく無力で、神様になどなれやしない存在であった。でも、彼もそうだったのだ。同じだったのだ。
私も彼も同じ人間であるのだという、たったそれだけの事実は私にかけがえのない救いをもたらした。
だからその救いに感謝しこそすれ、この人に呆れることなど、できる筈がなかったのだ。

「お料理が好き」と大きな声で口にした私を、楽しそうに頷いて肯定してくれたことが、どうしようもなく、嬉しかった。
私の実力、私の成績、私の力、そうしたものではなく、私の思い、私の願い、私の喜び、そうしたものが許されているのだという事実に、泣きそうになったのだ。

偉大で立派で優秀な彼の傍ではなく、私のお料理の話を聞いて笑顔になってくれる彼の傍に、いたいと思ってしまった。
私は悉く強欲に出来ていた。そんな私を許してくれたから、私は益々調子に乗ってしまった。

「私も、貴方の話を聞きたいです」

彼への懇願は、きっと村の尺度で言えば間違いなく「礼儀知らず」で「恥知らず」な、大き過ぎる「罪」だったのだろう。
この立派な人は、ただの子供である私が会話できるような、そうした近しい人では決してなかった。
おそらく私はこの人と話をするべきではなかった。昨日だって、彼の姿を見なかったことにしてそっと立ち去るべきだった。声などかけるべきではなかった。
私が貴方の名前を呼んでしまったことが、私の罪の始まりだったのだ。

「ああ、そうか、元々そういう約束で今日は集まったのだったね。君の話を聞くのが楽しくて、すっかり忘れていたよ。
……それじゃあこうしよう。1日に1つだけ、互いに質問をするんだ。これなら今日のように君だけに喋らせてしまうようなこともなくなるだろう。どうだい?」

「……それは、いつまでですか?」

「お互いに、質問したいことがなくなるまで」

私は大きく頷いた。
「村一番の落ちこぼれ」である私と、「波動の勇者の生まれ変わり」である彼との時間は、こうして約束されることとなった。

あの日、私が稲穂の海に伸びるあぜ道を渡って帰ろうなどという、いつもと違うことをしなければ、私は倉庫の扉が開いていることに気付かなかっただろう。
私が彼の姿を見つけなければ、私が声を発しなければ、彼もまた私に気付くことなどなかっただろう。あの箱を取り落とすことだって、きっとなかっただろう。
あの時私が欲張らなければ、「私のお願いも聞いてほしい」などと強欲なことを口にしなければ、この時間が始まることもなかっただろう。
もし私が彼の威厳に臆して言葉を控えたままだったら、彼に私の話を「楽しい」と思ってもらえることも、きっとなかっただろう。

この時間、明日から毎日、約束されてしまった時間。
それはどう考えても在り得ないような偶然の連続が重なって生まれたことだった。何がどう変わったとしても、きっとこの時間は生まれ得なかった。
きっとこうした、些末な偶然の連続を、綺麗な言葉で飾り立ててかけがえのないものとするために、人は「奇跡」などという文句を考え付いたのかもしれなかった。

私の身には余り過ぎるキラキラとした奇跡を、あろうことか奇跡のようにキラキラと輝いているこの人と共有することが、叶った。
私に微笑んでくれる彼の、薄暗い中に仄かに浮かび上がるだけの輪郭は、けれど晴れた日の稲穂の海よりずっと、ずっと眩しかった。


2017.2.22

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