5:フォンリィの花芯

フライパンにバターを落として少し待てば、それは形を崩してとろりとフライパンの上を滑っていった。
ただそれだけのことにも少女は目を輝かせて、食い入るようにゲンの手元を見つめていた。
「魔法みたい」と感嘆の溜め息と共にそのようなことを零すので、ゲンは笑いながら「それじゃあ君も私も魔法使いということになるね」とすかさず口にした。
すると益々声を上げて笑いながら「私がゲンさんと同じ肩書きを貰えるなんて、やっぱりこの世界は素敵」と、
この世の全ての幸福を掻き集めたような、幸せに絞め殺されそうな笑顔を湛えてみせる。
大きく見開かれずとも、黒曜石の瞳はやはり眩しく、彼女の声音は笑顔の形を取らずともやはり、心地いい。

「おかしいと思っていました。だって外に出てから、他の人が波動の力を使っている気配が全くしないんです。
波動の力を上手く使えない私が、あの村では悉く異常だったのに、村を出た途端、波動の力を使うことが異常なことになっている」

「そうだね。外の世界の人間は、波動というものをそもそも知らないようだ」

「でも、確かに私達はその力を使っていた筈なのに。その力だけが、私達の救いだった筈なのに……」

すっかり溶けてしまったバターをフライパンに馴染ませる。少女はフライパンに視線を落としながら不安そうに呟く。
生地の入ったボウルを取り出して、泡立て器でもう一度軽くかき混ぜる。
ダマが出来ていないことを確認してから、ゲンは慣れた手つきで躊躇いなく、熱したフライパンにそれを流し込んだ。

「この広すぎる世界がおかしいんですか?それとも私や貴方が生まれ育った世界がおかしかったんですか?」

少女は、フライパンの上に広がる生地にもう歓声を上げたりはしなかった。
歓声以前の問題として、彼女の視線はもうフライパンには落ちていなかったのだ。代わりに彼女はゲンを見上げていた。
縋るような黒曜石の瞳はゲンに答えを求めていたけれど、ゲンは悲しげに笑って首を振るほかになかったのだ。

村では優秀な波動使いとしてもてはやされ、全能のように思われていたゲンであったが、そうしたものはこの世界では何の役にも立たない。
波動は、我々に答えを差し出してくれるような、そうした神の道具などでは決してない。波動使いは神になどなれない。
ああ、それなのにあの村は、何をどう思い上がって、あんなことを。
そうした憤りを喉の奥に飲み下し、ゲンはもう一度笑った。笑えば、あの村への歪んだ感情にもなんとか嘘が吐ける気がした。

「私にも解らない。解らないから、信じたい方を信じよう。
アイラ、君はどちらがいい?波動の力こそが絶対であったあの村と、そんなものの存在すら知らないような、外の世界。どちらで生きていたい?どちらを信じたい?」

解りきった答えであった。彼女があの村から飛び出してきたという、それだけの事実があればこのような質問など最早不要であった。戻ることなど、できる筈がなかった。
だからゲンのそれは質問ではなく懇願の形を呈していた。やや暴力的なその懇願が、彼女の心に届くことを信じて、信じ切って、口を開いた。
彼は悉く臆病に出来ていた。自身と自身の大切な人を守るための臆病は、少々、好ましくない形で膨張しすぎているようにも思われた。
けれどこれが、悪意という毒に浸され続けたゲンという男の限界であった。これ以上の勇気と優しさなど、持ちようもなかったのだ。

「私はもう、あの村には……」

「私も同じだ」

黒曜石の目がはっきりと見開かれる。被せるように同意してしまったことを恥じるように、照れるように彼は笑う。笑って、フライパンへと視線を落とす。
小さな泡が生地の表面に立ち始めていた。火が通り始めた合図であった。

「君も私も自由な存在だ。おそらく全ての人がそう在るべきなんだ。
だから私は、そうした人間としての尊厳を奪い取り、閉じた空間で稀有な力を守ることだけに躍起になっているような、悪趣味なあの村にはもう、戻らない」

「……」

「もし戻ることがあるとすれば、それは君を迎えに行くときだろうと思っていた。でも私が迎えに行くより先に、君の方から飛び出してきてしまったね。
君は昔からずっと、私よりも勇敢で気丈で聡明だった。波動の力なんか使わずとも、君は変わらず素敵だったよ」

フライ返しを構えて、生地の底に差し入れる。「見ておきなさい」と少女に目配せをしてから、ひょいとひっくり返す。
1年というブランクを感じさせない、慣れすぎた手つきに彼女は歓声を上げる。ひっくり返された生地は綺麗な焼き色を付けていて、破けることもなく丸い形を保っていた。

「ゲンさん、本当はこっそり練習していたんじゃないですか?」

頬に残った涙の跡を自らの袖口で乱暴に拭ってから、彼女は村にいた頃を思い出させるような明るい声音でそう告げる。
困ったように笑いながらゲンが告げるのは、彼女がもしかしたら望んでいたかもしれない、甘酸っぱい言葉ではなく、ただ彼の真実を示した、誠実な苦い言葉だ。

「君のために練習していた、と言えれば恰好が付いたのかもしれないけれど、パンケーキを焼くのは本当に1年振りなんだよ」

「ふふ、でもとっても上手ですよ」

「そこまで難しいものではないんだよ。君にも直ぐに焼けるようになるさ。……そうだ、明日のパンケーキは君に焼いてもらおうか」

再び顔を青ざめさせて「お米を炊いたこともないのに、パンケーキなんて、」と慌てたように口にする彼女の目には、けれど確かな期待の色が映っていた。
火を使うこと、生地に熱を通して黄金色に焼き上げること、そうした行為を、料理好きな彼女が望んでいない筈がなかった。望んでいたけれど、あの村では諦めざるを得なかったのだ。
けれど此処はあの村ではない。だから、彼女は火を使ってもいい。
そうした単純なことを、ゲンはこれから少しずつ、この少女に伝えていかなければならなかった。長い時間がかかるだろうと覚悟さえしていた。

この急激な変化は、すぐに受け入れられるようなものではない。重々承知していた。
彼もまた1年前、村から飛び出した際に彼女のような驚愕、動揺、躊躇、混乱を、おそらくは彼女以上に強く深く味わっていたからだ。
ゲンの方が彼女よりも感受性が強かった、という訳では決してない。単に一人であったからだ。孤独という苦すぎるスパイスは、彼の混沌とした感情をより増幅させていた。
驚愕、動揺、躊躇、混乱、そして孤独……。そうしたどす黒い渦の中でなんとか息をするために、彼は村を憎む必要があった。そうした暗く重い感情には「犯人」が必要であったのだ。
一人であった彼は、村への強烈な憎悪でしか自らの寂しさを埋めることができなかった。

けれど今の彼女は一人ではない。此処にはゲンがいる。彼女が迷わないように手を引くべき人物が、たった一人ではあるけれども確かに存在している。
故に彼女の驚愕、動揺、躊躇、混乱は、ゲンのそれよりも少しばかり緩やかなものになる筈であった。寧ろそうしなければいけなかった。
そのために自分がいるのだと、自分はそのために、この少女より1年早くあの村を出てきたのかもしれないと、彼はそうしたことまで考え始めていた。
苦しみに意味を見出せば、その苦痛や苦悩はなかったことになった。意味のある苦しみなら、孤独でない苦しみなら、耐えられた。
故に時間など、いくらかかってもよかったのだ。

「食器棚から白い皿を取ってくれるかい。トッピングは君にお願いするよ」

「はい、任せてください!」

かつて、料理の盛り付けを「絵画」と称したことのある彼女は、黄金色のキャンバスに赤と黄色の絵の具を落とせることにこれ以上ないというくらいの喜びを露わにした。
差し出された皿に焼き上がったパンケーキをそっとのせれば、彼女は嬉々としてそれをまな板の傍に置き、冷蔵庫の中から苺とパイナップルを取り出した。
水洗いしてからヘタを取り、ナイフを入れて鮮やかな赤と白を表に向ける。
一つ一つの苺を花弁に見立てているらしく、あっという間にパンケーキの上には椿が咲いた。椿の中央には当然のように、パイナップルがあしらわれた。
ハチミツをかけ終えた頃に、2枚目が焼き上がる。パンケーキの上に椿を咲かせることに夢中になっている彼女の横顔を見ながら、ゲンはああ、とひどく感慨深くなる。

彼女がいる。その事実が全てだった。それ以上の幸福など、きっと望むべくもなかったのだ。

冷たい水の入ったグラスを用意する。2つのグラスを食器棚から出すという、ただそれだけのことでさえどうにも嬉しい。
「美味しくできているといいのだけれど、」と予防線を張ってから席に着く。
彼女は「ゲンさんのパンケーキが美味しくなかったことなんか、一度もありませんでしたよ」と、ナイフとフォークを構えながら笑顔でハードルを上げてみせる。

「いただきます」

彼女の口からその挨拶が零れ出た瞬間の、ゲンの胸に物凄い風圧で吹き荒れた、どうしようもなく温かな幸福の嵐は、……ああ、果たして「何色」であったのだろう。
今のゲンの姿に、彼女はどういった感情の色を見るのだろう。
けれども少女はそれを指摘しなかった。というより、気が付かなかったのだ。
彼女にとって、自らの「いただきます」に揺れるゲンの心よりも、目の前にあるパンケーキの方がずっと大事であったのだから、仕方のないことであった。

年頃の少女にしてはやや大きめに切り分けられた一口を、彼女は一気にパクリと収め、時間をかけてゆっくりと咀嚼して、そして。

「……」

彼女は、笑わなかった。ただ漫然と瞬きを繰り返して、椿の咲いたパンケーキを静かに眺めていた。息を吐く音さえ聞こえなかった。
美味しくなかっただろうか。何か材料を抜かしていただろうか。中まで火が通っていなかったのだろうか。
追求と謝罪と、どちらの言葉を先に発するべきか判断しかねているゲンの前で、けれど少女はこくりと喉を動かしてから「悔しい」と静かに、とても静かに言葉を落とした。

「美味しいです。とても美味しい。あの頃と変わらない味です。美味しくて、嬉しくて、……だからとても悔しくなる。
どうしてもっと早く村のおかしさに気が付かなかったんだろう。どうしてもっと早く村を出なかったんだろう。どうしてもっと早く貴方に会えなかったんだろう。もっと早く……」

「嬉しい」と「悔しい」という、一見して相反しそうな二つの感情の波に襲われ、彼女は今にも泣きだしそうだった。けれど、泣かなかった。
彼女にはそうした強さもあったのだと、ゲンはまた一つ、彼女のことを知った。


2017.2.26

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