4:灯る火に風はあるか

広い家屋の中、見慣れない調理器具や電化製品の数々に、少女は目を輝かせてはしゃいでいた。
流石にあの村にも電気は通っていたし、冷蔵庫もガスコンロもあったのだが、そうした「エネルギーを放つ」ものの使用を許可されているのは、優秀な波動使いのみであったのだ。
遠巻きに見ているしかなかった冷蔵庫やガスコンロ、オーブンが、手を伸ばせば触れられる距離にある、という状況は彼女をこの上なく高揚させていた。
冷蔵庫を開ければ、当然のように冷たい空気が肌を撫でる。彼女はその冷気を肺の奥までいっぱいに吸い込んで「寒い!」と当然のことを紡ぎ、笑う。

購入した食材を一つずつ取り出して渡せば、彼女は嬉々としてそれらを冷蔵庫に仕舞ってくれた。
使ったことはなくとも、この中には十分な量の食料が詰め込まれていて然るべきだという認識はゲンにも少女にも共通するところであったらしく、
故にその中身が空っぽであることは、彼女をひどく驚かせていた。
「ゲンさん、今までどうやって生きていたんですか?」と、困ったように眉を提げて笑う少女に、「こんなものがあるんだよ」とレトルト食品を示せば、
彼女は益々その目を丸くして、銀色の袋に入ったカレーやスープの類をまじまじと見つめていた。

「お腹が空いたままでは満足に休めないだろうから、まずは君の願いに応えないといけないね。作るのを手伝ってくれるかい?」

ぱっと笑顔になって頷いた彼女が、大の「料理好き」であることをゲンは知っていた。
きっと喜んでくれるに違いないという、やや傲慢寄りを呈した彼の確信は、しかし彼女にとってはしっかりと真実の形を取っていたのだ。

「君はお腹が空いているだろうから、4枚分の材料で作っておこうか。私も久しぶりに食べたい気分だから、2枚ずつ焼こう」

「そんなに沢山、いいんですか?ゲンさんと同じ量を食べるなんて、とっても贅沢ですね」

あの村では波動の力が全てだった。優秀な波動使い程、高い位置に付き、優遇されるのだ。
それは彼女のような子供にも言えることであり、食事の内容、雑用の数、お風呂の順番まで厳しく決められていた。
厳しい環境の中で少しでも良い処遇を受けるべく、子供達はたゆまぬ修行を積むのだ。
幸福や平穏というのはそうした努力の積み重ねによって初めて手に入るものなのだと、そうした教えを受けて彼女は育った。

故に「私のような弱い波動使いが、何の努力もせずに2枚ものパンケーキを食べられる」という事実は、彼女を少しばかり混乱させているようであった。
無理もないことだ。仕方のないことだ。そう理解していた。弁えていた。それでもゲンの中に込み上げるどす黒い感情は、もうどうしようもなかったのだ。
生まれを恨むこと、力を憎むこと、人の心に心を痛めること、それらはゲンの中に呼吸と同じくらいの頻度で染み付いた毒であった。
悪意という毒を抱え続けることは自らの心をも疲弊させる。解っていた。けれど村を憎み続けることで、彼に救いがもたらされていることもまた、事実だった。

エプロンなどというものを持っている筈もなく、手を洗い、袖を捲るだけの準備で二人はキッチンに立った。
銀のボウルに小麦粉、ベーキングパウダー、砂糖を加え、均一に掻き混ぜてから牛乳と卵を入れる。
この1年間、全く作っていなかった筈なのに、ゲンの手はすらすらと淀みなく動いた。
4枚分のパンケーキに必要な材料の分量も、何をどのタイミングで入れるのかも、彼はしっかりと覚えていた。忘れていなかった。

フライパンを軽く水洗いしてから、ガスコンロの上にそれを置いて、少女を呼んだ。
当然のようにゲンから一歩引いたところで佇んでいた彼女は、「火を点けてごらん」という彼の指示に驚き、さっと顔を青ざめさせて激しく首を振った。
火を扱うこと、熱を操ること、それらは優秀な波動使いの特権であった。
今思えば随分とふざけた規則もあったものだと思うけれど、それがあの窮屈な箱庭を保つための道具であったのだから、仕方のないことだったのだ。
けれど今は違う。彼女もゲンも外の世界にいる。彼女はもう、ガスコンロやオーブンを使うことができて然るべきだ。

「わ、私にそんなこと、できません。包丁ならまだしも、火を扱うことなんか、」

「大丈夫だよ、怖がらなくていい。波動の力なんかなくたって、この火は君に襲い掛かったりしない。君はただこのつまみを回すだけでいい」

尚も拒絶の意を示す少女の手を強引に掴んで、ガスコンロへと誘導すれば、彼女はいよいよその黒曜石の瞳から大粒の涙を零し始めた。
『炎を扱えるのは一部の限られた人間だけであり、資格のない人間が扱えば炎は容易に牙を剥く。火傷は罪の証として、未熟な波動使いの肌に一生宿り続ける。』
そうした、まったくもって馬鹿げた教えに染まってしまった彼女の頭を、それ故にコンロに触れることを恐怖する少女の心を、先ずはこの荒療治で覚ましてしまいたかったのだ。

彼女に非があるのではない。だからこそその根は深く、容易には取り払われないだろう。
解っていた。けれど彼は必死であった。何とかして目を覚ましてもらわなければと、村でのルールを忘れてもらわなければと思っていた。
村への強烈な憎悪がそうさせたのか、それとも、この少女と共にこちらの世界で生きたいという願いがそうさせたのか、……あるいは、そのどちらもであったのかもしれなかった。

「ほら、やってごらん」

長い、長い沈黙の後で、彼女はゆっくりとコンロのつまみに触れた。
ここからどうするのか、と尋ねるように、目に涙を浮かべながらゲンを見上げるので、「軽く押し込んでから、右に回してごらん」と指示を出した。
彼の言葉に忠実に、つまみをそっと押し込んでから右に回せば、カチカチという音を経て円状に青い火が灯った。
当然のこと、何も不思議に思うことなどない、現象。けれど驚愕に目を見開く彼女にとって、それが「何」を意味しているのか、ゲンにはとてもよく解っている。
解っているから彼女の沈黙をただ見守った。その静寂を、彼の方から破いてしまう訳にはいかなかったのだ。

「……これだけですか?」

間の抜けた声音だった。すとんと拍子抜けたように落とされた肩は、けれど暫くするとクスクスと震え始めた。
彼女は、笑っていた。つい2分前の恐怖をなかったことにするかのように、笑い始めた。
けれど溢れた涙はなかったことにできなかったようで、瞳と同じく丸くキラキラと光るそれは、つうと頬に確かな跡を残して落ちていった。
ただ、美しかった。笑うことにより零れてしまったその透明な涙は、けれどもう「痛々しい」ものではなくなっていたのだ。

「変だわ、火傷をしないなんて。……どうしてですか?」

「それは、きっとこの世界が、私達にとても寛容であるからだと思うよ」

寛容。その言葉を繰り返して少女はまた沈黙する。
自分には扱えないと思っていた「火」が、ガスコンロの上で大人しく青い明かりを灯しているという事実を、瞬きと共に何度も噛み締めて、再び「寛容……」と口にする。

「あの村では波動が全てだった。あれを使えなければ「何もできない」ようにみなされ、扱われていた。
でもこの世界には、大勢の知恵と技術により生み出された便利なものが沢山あるんだ。だからあんなものを使わずとも、私達はこうして生きていけるんだよ」

「……」

「波動の力なんかなくたって、便利に快適に生きられるんだ。力を持たない外の世界の人々は、力を持った私達よりずっと、ずっと自由だったんだ」

限られた者しか火を扱えない世界だった。限られた者しかモンスターボールを持つことが許されない世界だった。
リオルとルカリオ以外のポケモンをパートナーとすることは禁じられていた。
村の外との交易は、一部の限られた人間だけの特権であり、それがあの世界でのヒエラルキーをより強固なものにした。
村にある本はどれも古びたものばかりで、役に立たなかった。学ぶことさえも十分にできない場所であった。
学べば、あの村に疑問を抱いてしまうことを、頭のよく回る大人というものはとてもよく解っていたのだ。

私達は不自由に飼われていたんだ。

けれどそうした残酷な言葉で、彼女の過去を指摘することはどうにも憚られたため、
ゲンは彼女の目を覗き込んで、あの惨い過去のことではなく、今此処にある自由というものを教え込むために、口を開いた。

「君はリオル以外のポケモンを連れ歩くことができる。モンスターボールだって簡単に手に入る。ポケモンの背中に乗って空を飛ぶこともできるし、海を渡ることもできる。
料理も、ポケモンバトルもできる。好きなことを学べるし、どんな職に就いてもいい。誰を好きになってもいいし、誰も好きにならずともいい。
このシンオウから遠く離れて、全く知らない土地で旅をしてもいい。君は本来そうした、とても自由な存在なんだよ」

君は波動を感じ取る力に長けているけれど、もうその力を使う必要なんか何処にもない。使わなくていい。いや、寧ろ使ってくれるな。

懇願がいよいよ洗脳に似た形を取り始めていた。ゲンは必死であった。この少女の体と心にびっしりと張り巡らされた「村の掟」という茨を取り払いたかったのだ。
強引にむしり取ろうとした結果、ゲンの手が血に塗れようとも構わなかった。
生きること、生きるために変わることには痛みが伴うのだということを、彼はとてもよく解っていたからだ。
そして傲慢なことに、ゲンはその「痛み」を彼女にも耐えてほしいと願っていた。茨に縛られたままの彼女を置いて、綺麗な手のままに立ち去ることなどゲンには到底、できなかった。
それが彼の醜いエゴであったとしても、それでも、あの村の茨よりはずっと「マシ」だと確信していたのだ。

「私にそんな自由が許されているようには、とても思えないけれど、」

そうしたゲンの強すぎる懇願に嘘がないことを、きっとこの少女は見抜いている。

「でも、あの村が何処かおかしいということは、私にも解っているつもりです」

その言葉が、ゲンにとってこの上ない救いであった。
自らの故郷を「おかしい」としなければならないという、その心の痛みに眉をひそめながら、それでも彼女は勇気ある言葉を紡いだ。ゲンにはそれがどうしようもなく嬉しかった。

あの村から逃げ出してきたばかりの、この世界での生き方をまだ殆ど会得していないような彼女の手を、引かねばならないのはゲンの方であったというのに、
彼女のそうした言葉に、寧ろこの1年間、孤独に身を凍えさせていたゲンの方が「引っ張り上げられた」ような気がしていたのだ。
それ程にこの少女は勇敢であった。それ程にこの男は臆病であった。それでも互いにとって互いはかけがえがなかった。
あの村から逃げ出してきたのは、逃げ出すことに成功したのはこの二人だけだったのだから、当然のことだった。他の代わりなど在る筈もなかった。
その数奇な運命をゲンは憎むべきだったのか。それとも「逃げ出せた存在が他の誰でもない、彼女でよかった」と感謝すべきだったのか。……果たして、どちらだったのだろう。


2017.2.26

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