スーパーに立ち寄って、ホットケーキを作るのに必要な材料を購入した。
まだ春には遠すぎる真冬の頃でも、春の食べ物である苺が当然のように売られているという事実は、閉鎖された世界で生きてきたこの少女をひどく驚かせていた。
見たことのない果物にはしゃぎ、カラフルな包み紙のチョコに歓喜の悲鳴を上げていた。
あの村ではチョコレートは貴重品だった。苺は春にしか食べられないものであった。
パイナップルなどという南方の果物を見る機会など、ある筈もなかった。そうした場所であったことをゲンは思い出していた。気持ちが悪くなる程の、息苦しさであった。
このスーパーの様相など、ゲンにとってはすっかり当然のものとなってしまっていた。
真冬に苺が手に入ること、海を渡って見知らぬ野菜がやって来ること、それらはもう彼を驚かせない。彼はもう驚かない。
1年という月日の中で、彼は以前の閉鎖的で不便な生活を忘れかけていた。
けれどつい数週間前まであの村で過ごしていた少女は、まだ覚えている。彼女はあの村に漂っていた閉塞感を忘れていない。少女はまだパイナップルの味を知らない。
「少し酸っぱいけれど、とても美味しい果物だよ。食べてみるかい?」
既にカットされて透明のパックに詰められた、南方の黄色い果物を指し示す。
彼女は「いいんですか?」と上擦った声で確認を乞い、ゲンの頷きを認めるや否や、嬉々としてそちらへと駆けていく。
どれにしようかと悩んだ挙句、一番大きなものを手に持って駆け戻ってくる。買い物カゴの中にそれをそっと入れる。
そうして顔を上げればまた、その黒曜石の瞳に珍しいものが映りこんでしまったらしく、キラキラと目を輝かせて「あれは何ですか?」と尋ねるのだ。
放っておけばこの少女はその好奇心のままに、目に留まるもの全てへと歩を進めてしまうことだろう。
大人にしては頼りなく、子供にしては成長しすぎているこの少女は、容易にゲンの視界の届かないところへ駆けて行ってしまうような気がしたのだ。
そうした、彼女を見失うかもしれないという「不安」が、本当に見失ったという「事故」に変わってしまう前に、
ゲンは買い物カゴを持たない方の手で、しっかりと少女の温かい手を握り締めていなければならなかった。
「あまり遠くへ行ってはいけないよ。この広さだ、見失っては探すのが大変だからね」
申し訳なさそうに、照れたように、許しを乞うように少女は眉を下げて笑う。そっと握っただけなのに、まるで祈りを捧げるかのように強く、強く握り返される。
果物やチョコレートに目を奪われている間も、その手は緩められることがなかった。
見知らぬ場所へと飛び出して、抱くこととなってしまった新しい不安に怯えていたのは、何もゲンの方だけではなかったのだと、知った。
買い物を済ませ、二つのビニール袋のうち小さい方を少女に渡す。彼女はそれを受け取りながら「重い方でもよかったのに」と笑って口にする。
「女の子より軽いものを持つ訳にはいかないよ」などと必要のない矜持を発揮すれば、ただそれだけのことがどうにもおかしいものに思われたらしく、少女は声を上げて笑った。
「なんだか変ですね。貴方があの村で荷物を持っているところなんか、見たことがなかったから」
……悲しいことに、波動の力というのは、人の鍛錬や修行を手酷く裏切る傾向にある。
エネルギーを生み出す力、目を閉じていても物の動きを捉えられるようになる力、ポケモンと心を通わせる力、
数キロ先の空で群れをなす鳥ポケモンの姿や数を言い当てる力、落雷がどの木に降りかかるのかを予見する力、人の感情を読む力、ポケモンの動きを予測する力……。
そうした力は、けれど類稀なる修行で身に付けることが叶うようなものでは決してない。磨くことは出来ても、新しく得ることなどできやしない。
稀有な力というのは求めたところで手に入らない。足掻いたところでどうにもならない。
あの村は、そうした稀有な力を「濁さない」ために作られた、忌まわしく悲しい場所だった。
「……そうだね、あの村ではそうだった。でも今の私は荷物を持てるんだ。もう、荷物を他人に持たせるなんてことをしなくても、生きていかれるんだ」
荷物など、軽ければ軽いほどにいいのではないか。そう思っていた時期も確かにあった。
けれど今のゲンにとっては、自らが生きるために必要となるものを、誰にも預けることなく自分で抱えていられるという事実が、どうにも喜ばしいものに思われてならない。
シンオウ地方の冬において、4時を回ればもう夕焼けが空を染めてしまう。日はもう随分と傾き、眩しい赤を広げ始めていた。
船着き場へと向かう二人の足に、黒い影がぬっと伸び始めていた。
ゲンは思わず振り返った。大きな袋も小さな袋も、同じように引き伸ばされてアスファルトを這っていた。
ゲンも少女も袋を持っていて、ゲンの影も少女の影も袋を提げていた。それがよかった。嬉しかったのだ。
船頭に挨拶をして、船に乗り込む。あっという間に鋼鉄島が見えてくる。
この人気のない島に家屋は一棟だけであった。その一棟こそがミオのジムリーダーの別荘であり、今のゲンの住まいであった。
此処だよ、と崖の上に立つ家を指で示しつつ船を下りれば、少女の足は、船から一歩出ようとしたところでぴたり、と不自然に止まった。
どうしたんだい、と尋ねようとして、ゲンは言葉を飲んだ。
少女の、黒曜石のように煌めく丸い瞳が、今は強く閉じられていたからだ。
それはあの村において誰もが教わることになる「感性を研ぎ澄ませるための儀式」であり、彼女は正にその力を使っているところであるのだと察してしまったからだ。
「……」
あの村を出たところで、長年培われてきた波動の癖は抜けようもない。解っていた。
けれどそうした癖をこの1年の間ですっかり消し去り、普通の人間として振る舞うことを選び続けていたゲンにとって、
この少女の、まだ村での行為を捨てきれていない姿というのは、ひどく眩しく、また痛々しいものに思われてしまったのだ。故に、思わず目を逸らしてしまったのだ。
彼は波動の力を使うことを秘かに恐れていた。己の体に馴染み過ぎたその力を、封じ込めてなかったことにして、己を欺くように「普通」を偽って過ごしていた。
唯一、彼女の名前を呼ぶ時にのみ、彼は波動の力を使っていた。波動で声を放てば自分の声がより遠くへ届くということが、彼にはとてもよく解っていたからだ。
波動の力を使って『アイラ』とその名を呼び続けて1年、ようやく、彼女がその呼び声に応えてくれた。ゲンの波動を拾い上げ、彼の元へと来てくれたのだ。
ゲンはもう、波動の力を使って彼女を呼ぶ必要がない。喉を震わせて紡ぐ声だけで、彼女を振り向かせることができるからだ。そうした距離に彼女が来てくれたからだ。
そうして彼はいよいよ、波動の力が全てであったあの場所のことを、そこで生きていた己のことを忘れていく筈であった。
「……とても心地いい波が聞こえます。此処からずっと北の方角には何かあるんですか?」
けれど彼女は覚えている。だからゲンは逸らした視線を彼女へと戻し、波動のことを思い出すほかにない。
北……と考え込んで、思い至る場所が一つだけあった。「ああ、それなら」と口を開くゲンは、自らの声音が震えていないかどうか、ただそれだけが心配だった。
「満月島のことかもしれないね。私も何度か行ったことがあるけれど、人も全く住んでいない静かなところで、特に何があるという訳でもなかったような気がするよ。
……でも、君がそう言うのなら、何か特別な生き物が住んでいるのかもしれないね」
それこそが彼女の持ち得た「稀有な力」であるのだということを、おそらくはこの外の世界において、ゲンと少女だけが知っている。
あの村において、ゲンは「波動を操りエネルギーを作る力」に長けていた。
火を起こしたり、風向きを少しだけ変えたり、稲を食べに来たムックルを追い払ったりという場には、必ずと言っていい程に彼の姿があった。
そうした「波動使い」の力がなければ、お湯を沸かすことさえできないような、その力以外でそうした大きなエネルギーを使うことを悉く禁じてきたような、
文明や技術があまりにも冷たく凍り付いた、慎ましやかな暮らしを極めた場所であったのだ、あの村は。
波動という稀有な力を使いこなす「血」を残すために、そうした場が必要だったのだ。
理解した今となっては非常に馬鹿げた、滑稽なことだ。けれどあの閉鎖的で滑稽な世界が、当時のゲンと少女の全てだった。
彼女はそうした派手な力こそ有していなかったものの、「人やポケモンの感情を聞く力」という確かな武器を持っていた。
思考などという複雑なものは到底彼女の手には負えなかったが、もっと単純な感情を、音として、色として彼女は感じ取っていた。
「花の色は嬉しい時に顔の周りをふわふわと漂っている」「煤のような黒はきっと嫉妬の色で、もっと強くなると鉛色になる」
「悲しい時は足元に淡い灰色の水溜まりができる」「混乱している人に話しかけてしまうと、不協和音が聞こえて気持ちが悪くなる」
そうした「見えないものを見て、聞こえないものを聞く力」だって、確かな波動の恩恵であり、優秀な武器であったのだが、
如何せんそれは「エネルギー」という派手で目立つものではなかったため、あまり村では評価されなかったのだ。
「土煙を起こすことさえ叶わない、弱い波動使い」
それが彼女の修飾語であり、彼女自身もそれを受け入れていた。受け入れて、そして健気に生きていたのだ。
そうした経緯があったため、波動の力を使って生きることに、この少女はゲン以上の抵抗感を抱いて然るべきであった。
けれど彼女は当然のように「目を閉じて、耳を澄ます」。そうして拾い上げた確かな波動を、ゲンに伝えることさえ躊躇わない。
「貴方は何も感じないんですか?」
「生き物の気配があることは解るけれど、それが良いものか悪いものかという判断は私にはできないよ。君のそれは君だけの才能だ、私には到底使いこなせない」
「……ふふ、ゲンさんは人を褒めるのがとても上手ですね。村にいた頃も、私のいいところを、どんな些細なことでも拾い上げて、褒めてくれた。
貴方といると、私が立派な人間になったような気がして、とても嬉しかったんです」
ううん、と少女は首を振る。
波動を聞くために止めていた足を再び動かして、鋼鉄島への一歩を踏み出す。小麦粉と砂糖の入ったビニール袋が、潮風に吹き付けられてカサリと音を立てる。
「貴方といて嬉しくなかったことなんか一度もなかった」
私もだ。私も、君といて嬉しくなかったことなんか、ただの一度もなかった。君があの村から逃げてくる日を、ずっと待っていた。
毎日、波動の力で君の名前を奏で続けてしまう程には、君の不在は私の胸に痛すぎた。
……そうしたことを、まだゲンは口にすることができなかった。少しばかり気恥ずかしかったのだ。そういうものだった。
立派な大人の形をした彼の心はその実、少年のように若く幼く繊細で、青いものだったのだ。
2017.2.22