2:真冬のストロベリー

少女はさめざめと泣きながら、嗚咽の合間に少しずつ、これまでのことを話してくれた。

村の真実を見抜いて、あの牢獄を抜け出す決意が出来たこと。隙をついてこっそりと逃げ出してきたこと。
なけなしの所持金であった2000円は、数日で使い切ってしまったこと。各地のポケモンセンターにお世話になりながら、シンオウ地方を渡り歩いていたこと。
西へと向かっていたときに「声」を聴き、迷わずこちらへ向かったこと。ミオシティの船着き場で途方に暮れているところへ、新チャンピオンであるあの少女と出会ったこと。
「ルカリオを連れた青い服の男性」という情報だけで、少女は迷わずゲンの名を導き出したこと、必ず連れてくると約束してくれたこと。
船頭の自宅で、彼の奥さんに温かいスープをご馳走になったこと。此処で祈るようにゲンを待っていたこと。その祈りがようやく届いたこと。

「一人で、よく頑張ったね。辛くはなかったかい?」

全てを聞き終えたゲンがようやく紡ぐことの叶ったその言葉に、少女は泣き腫らした目をすっと細めて、僅かに微笑み、首を振った。
「辛くはなかった」などという、虚勢にも程があるその否定も、相変わらずであった。そうした優しく健気な嘘はこの少女の十八番であったのだ。

「一人じゃありませんでしたよ。いろんな人に沢山、沢山助けてもらったんです。それに、途中からは貴方の声が聞こえていたから、迷うこともありませんでした」

貴方の声、というのが、ゲンを強く想うがあまり、この少女に降りかかっていた「幻聴」の類なのではないかと、そう推測することは簡単にできた。
そのような推測こそが一般的に為されて然るべきであることを、ゲンはよく理解していた。
船頭もその奥さんも、彼女が口にした「声」という言葉を、彼女の幻聴、ないしは空想のものであると結論付けて、「なんと健気な子だろう」と思っているようであった。
彼等の想像は正しい。少なくとも一般的な世界においてはそれがもっともな思考だ。

けれど、一般的という枠に収まれなかったゲンと少女の間に限っては、その「声」は全く別の形をしていた。
彼女は本当に「声」を聴いていた。それは幻聴でも空想でもなく、真に声の形を取っていたのだ。
それはゲンが「波動」というエネルギーを声の形へと変え、ずっと遠くへ飛ばしていたからであり、
その波動を拾い上げることの叶うのもまた、そうした波動を聞き取る力に長けたこの少女を置いて他にいなかった。
故に他の誰にも、彼等の真実は理解されることがなかったのだ。そして、それでよかった。寧ろそうでなければいけなかった。
少なくともゲンの側は、自分や彼女の力のこと、そうした力を持ち続けていたあの村のことを、誰にも明かすつもりなどなかったのだ。

当時のゲンの心は、このように頑として閉ざされていた。
柔和な笑顔を湛え、厚意を尽くし、穏やかに全てを受け入れた風を装いながら、その実、彼自身は何処にも受け入れてもらうつもりなどなかったのだ。
彼は真に一人であり、誰も己の内側に招くまいとして生きていた。
理解を乞うことはまだ彼には難しく、拒まれるかもしれないというリスクを冒してまで、この世界に愛されたいとはまだ、思えなかった。

故にその理解をし得る人間がいるとすれば、それは波動の力を、あの村の事情を真に理解し、その上で彼の苦悩に寄り添える存在でなければならなかった。
ゲンの目の前で、泣きはらした目のままに微笑むこの少女こそ、そうした彼の最善を全て満たしていた。そういう意味で、彼女は既にゲンにとってかけがえがなかったのだ。

「……本当は今すぐにでも、君と、これからのことについて話し合いたいのだけれど、その前に君を休ませてあげないといけないね」

そっと彼女の目元に指を伸べて、涙の筋をそっと拭い取った。記憶にあった少女の姿よりも今の彼女はずっと痩せており、目の下には深い隈が彫られていた。
あの村は確かに窮屈で異常だったけれど、少なくとも衣食住は保証されていた。
十分な蓄えを持たずに飛び出してしまった彼女にとって、シンオウ地方の旅は想像以上に過酷であったようである。
食べられるものを何でもいいから食べてほしい。そしてぐっすり眠ってほしい。そんなことを考えながらゲンは少女の手を取った。華奢な手の甲はほんの少し、荒れていた。

ゲンは船頭とその奥さんに頭を下げ、泣き止んだアイラを連れて船頭の自宅を後にした。
11歳の新チャンピオンは「ゲンさんに会えてよかったね」とアイラに笑いかけ、大きく手を振ってからくるりと踵を返して駆け出していった。
あっという間に小さくなったその背中が、跳ね橋の向こうに消えてしまった頃、ゲンは握った手の力を少しだけ強めて「アイラ」と彼女の名前を呼んだ。
波動の力を使わずに彼女の名前を呼んだのは随分と久しぶりで、ただそれだけのことがひどく感慨深いもののように思われて、どうにも、胸が痛んだ。

「この町から北に向かったところに、鋼鉄島という場所があってね。私はそこにある家を借りて暮らしているんだ。一先ず、そこで落ち着こう。
何か、食事のリクエストはあるかい?折角だから君の食べたいものをご馳走するよ」

その安堵と歓喜を極めた痛みを誤魔化すような、陽気な声音でそう尋ねる。
彼女は少しばかり躊躇う様子を見せたけれど、やがて「何でもいいんですか?」と縋るようにゲンを見上げる。

『何でもいいんですか?』
あの頃と一言一句違わぬ、抑揚さえ同じように紡がれた言葉にゲンは思わず笑った。
彼女がそうやって前置きをするときというのは、何かとんでもなく大きなことを頼み込もうとしているように見えて、
その実、次に語られる「願い」というのはとてもささやかな、些末なものであることをゲンはとてもよく解っていたのだ。

そうしたささやかな願い事を、最上の我が儘であるかのように、申し訳なさそうに発することのよくある少女だった。
彼女には悉く控え目であった。更に微笑ましいことに、彼女はそうした控え目な願いしか訴えない自身のことを、この上なく強欲な人間だと思ってしまっているのだった。
そのアンバランスが、どうにも愛おしいもののように思われてならなかった。
危なっかしいとか、放っておけないだとか、もっと欲張ってほしいだとか、そういうこと以前に、そのささやかな欲張りが自身に向けられていることが、どうにも嬉しかった。
ただそれだけの純な想いであったのだ。それ以上などまだ、望むべくもなかった。

「ゲンさんの作るパンケーキが食べたいです」

苦笑しながら「そんなものでいいのかい?」と尋ねるゲンは、けれどこの上なく満たされていた。嬉しかったのだ。

ゲンとこの少女は確かに、あの閉鎖的な村で同じ時間を、決して短くはない時間を共に過ごしていた。
けれど、それだけの長い時を共有したという「事実」の受け止め方は、ゲンと少女では異なって然るべきであった。
たとえゲンがその時間をかけがえのない思い出として大事に覚えていたとしても、この若く幼い少女にとってはそうではない場合がある。よくあること、当然のことだ。
仮に共鳴したとして、それは単なる偶然に過ぎない事象なのだ。
けれどその偶然にもっと大それた名前を当て嵌めてしまいたくなる程には、ゲンはこの少女のことを覚えていた。「愛しい」という具合に、覚えすぎていた。
その「もっと大それた名前」は、きっと「奇跡」に似た響きを持っていたのだろう。

「いいよ、それじゃあ材料を買いに行こうか。小麦粉に卵に砂糖、あとベーキングパウダーも必要だ。
……君は苺も好きだったよね。きっと売っているだろうから、パンケーキの上にのせて食べようか」

その言葉に少女は驚いたように目を見開き、「春でもないのに苺が手に入るんですね」と、唖然とした表情のままにそうした驚愕の音を零してから、
けれどすぐにおかしなことを見つけたかのような表情になり、クスクスと笑いながら、まるで悪戯を思いついた子供のような目をしてゲンを見上げ、首を傾げる。

「ゲンさん、何も全て新しい材料にしなくてもいいじゃないですか。小麦粉やお砂糖なら、貴方の家にもあるでしょう?」

「いや、ないよ」

けれどその、ちょっとしたからかいの文句にゲンが真顔で返事をするものだから、少女はいよいよ驚きに目を見開いて、沈黙するほかになくなってしまったのだ。
どうして?とその黒曜石の色は雄弁に問うていたため、ゲンは苦笑しつつ「何故、自分の家に小麦粉という基本的な食材がないのか」を説明することとなった。

「今は全て乾物や既製品で済ませているんだよ。料理なんてしていない。パンケーキを作るのだって1年振りのことだから、上手く作れるかどうか自信がないんだ」

「村にいた頃はあんなにも美味しいパンケーキを作っていたのに……。料理、嫌いになってしまったんですか?」

「作っても喜んでくれる人がいないからね。一人で料理をしても、どこか寂しいんだ。虚しいんだよ」

勿論、料理をしようと思えばできるだけの設備が、あの家には備わっていた。
ミオシティのジムリーダーが持っている別荘は、丸ごとゲンに貸し与えられており、
それなりの設備が整ったキッチンで本気を出せば、おそらくはとても美味しいものが作れるのだろう。
けれどゲンは、お湯を沸かしたり電子レンジのスイッチを入れたりといった作業以外で、あのキッチンに立ったことは未だかつてなかった。
キッチンにはフライパンもフライ返しもあったし、ミオの食料品店に出かければ当然のように、小麦粉も砂糖もベーキングパウダーも簡単に手に入る。
けれど、作れなかった。食べてくれる人がいないから、何枚焼いたところで虚しいだけだと解っていたからだ。

「君があの村でとても苦しんで、疲れて、それ故に村を飛び出してきたのだということは解っているつもりだ。
でも……無神経な話だけれど、私の気持ちとしては、君が村を出てくれて本当に嬉しいんだ。君にまた会えたことをとても喜んでいるんだ。私はそうした、酷い男なんだよ」

あの村を飛び出して手に入れた「自由」と引き換えに、失ったものも確かにあったのだ。
その最たる例がこの少女の、パンケーキを頬張り「美味しい!」と紡ぐ満面の笑みにあり、……つまるところ、今のゲンは悉く恵まれていたのだろう。
自由と引き換えに失ったと思われていた存在が今、こうしてゲンの傍にやって来てくれたのだから。

「あはは、それじゃあ私は「貴方が酷い人でよかった」と思うべきなのでしょうね。私も、酷い人だわ!」

ゲンも少女も「酷い」人だった。そうした「酷い」ところで育ったのだから、当然のことなのだと思うことにした。そうした破滅的なお揃いの文句さえも、愛おしかった。


2017.2.21

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