その日、鋼鉄島に少女が訪れた。彼女はシンオウ地方のチャンピオンであるシロナに勝利した、事実上の新チャンピオンとして既に名が知られていた。
「ゲンさんに会いたいって人がミオに来ているよ」
彼女とゲンが出会ったのは、彼女がシンオウでの旅を終えてから1年後のことであったため、当時僅か10歳であった彼女がどのような旅をしていたのかを、彼は全く知らなかった。
故にどのようなポケモンと出会い、どのような人と触れ合い、どのように心を揺らしていたのかというそうした全ては、
少女の旅路と交わらないところで生きていたゲンには全くあずかり知らぬところであった。
その幼く柔らかな笑顔の裏にどのような恐怖が、不安が、苦悩があったのか。それはまた別のところで展開されるべき物語であり、ゲンが覗き得るようなものではなかったのだ。
そのためゲンとこの少女との距離は、偶然の邂逅を最初で最後の一点として、自然と、遠ざかっていくものと思われた。
けれどそうはならなかった。彼女はゲンのことをしっかりと覚えていた。だからこそ彼女はゲンを訪れ、彼に会いたがっているという人物のことを伝えるに至ったのだ。
そういう意味でも、人の縁とは実に不可思議で、神秘的なものであった。
それはいつの時代にもどんな場所にも通ずる理であり、未来すら読める人間にとってもその「縁」という不定の質量を持つ糸は等しく不可解であった。そういうものであったのだ。
「私に?それは珍しいことだね。どんな人なんだい?」
「アイラさんっていう、15歳くらいのお姉さんだよ」
アイラ。その名前はゲンの中に、一人の少女の姿を弾き出した。数年前の記憶にある彼女はただ小さく幼く無力で、それ故に誰よりも懸命であった。
最後に彼女と言葉を交わしたのは約1年前、彼女が14歳になったばかりの頃であった。「15歳くらいのお姉さん」という、この少女の推測は正しかったのだ。
「何処にいるんだい?」
「ミオシティの、船頭さんの家。お金が足りなくて、船に乗れないって言っていたの。だからゲンさんに来てもらえばいいかなって思って、呼びに来たんだよ」
それを聞くや否や、ゲンは勢いよく立ち上がって、コートを引っ掴み、中に財布が入っていることを確認してから家を飛び出した。
坂道を踏みしめる時間すら惜しく思われて、崖を滑り降りたくなったがぐっと堪えた。
凄まじいスピードで船着き場まで駆けてきたゲンに、顔馴染みの船頭は驚いたような表情を見せたが、すぐに豪快に笑って船を出してくれた。少女も、慌てて乗り込んだ。
1年。
それを「たった1年」とするにはゲンの孤独はあまりにも深く、かといって「長すぎる1年」とするには、彼の時間はあまりにも慌ただしく過ぎていた。
孤独を噛み締め、新しい世界で懸命に生き、そうしていつの間にか1年が経ってしまっていた。彼にとってこの1年はそうした時間だった。
あの子にとっては、どうだったのだろう。
自慢だと言っていた長い髪は、あれから更に伸びているのかもしれない。それとも適度に長さを整えられて、変わらずにいるのかもしれない。
真っ直ぐにこちらを見上げていたあの目は、変わらずそこに輝いているのだろうか。
解らなかった。この1年のことをゲンは想像することしかできなかった。
ただ一つ解ることがあるとすれば、彼女が「あの村」を飛び出してきたという事実だけだった。
あの村から脱出する術を彼女は見つけたのだ。彼女もまた、ゲンと同じところまで辿り着いていたのだ。そうでなければ、彼女がミオシティにいることなど在り得なかった。
あっという間にミオシティが見えてくる。激しい白波を立てて海を割くこの船は、数分も経てばゲンをシンオウ地方の本土へと運んでくれる。
船が停止するよりも先にゲンは船から足を出す。船頭が苦笑しながら「おいおい、気を付けろよ」と窘める。
船着き場のすぐ傍にある船頭の自宅、そこへ拳を叩きつけるように乱暴なノックをする。
はい、とすぐに開いた扉の先で、柔和な笑みを湛えた女性が「待っていたわ」と彼を迎え入れる。
「ほらアイラちゃん、ゲンさんが来てくれたわよ」
ソファに体を沈めていたその「小さな子供」は、弾かれたようにぱっとその顔を上げた。
その子供は目をいっぱいに見開いて、愕然とした表情のゲンをその目に焼き付けていた。瞬きをすることさえ忘れていた。そして、それはゲンも同じであった。
そこにいる少女が「アイラ」であると、すぐに確信することができなかったから、ゲンはただただ目を凝らして、その子供を見つめるほかになかったのだ。
長く伸ばしていた「彼女」の髪は、まるで少年かと見紛う程に短く切り落とされていた。
長い髪。笑顔で誇っていた美しい髪。
彼女はそれをふわふわと羽のように揺らして得意気に笑っていた。彼女を心から微笑ませることの叶っていた、数少ないものの一つがその髪であった。
明るく元気な少女だった。決して心を折ることなく、健気に懸命に生きていた少女だった。
彼女のことを「知り合いの一人」として見るには、ゲンが彼女と過ごした時間はあまりにも長く、温かく、そして愛おしいものだった。
つまりはそうした存在だったのだ。たった1年会わずにいたところで、その想いが薄らぐことなどまるでなかったのだ。
そんな彼女の髪が、切られている。そのことはゲンをどうしようもなく不安にさせた。
これは本当に私の知る「アイラ」だろうかと、疑ってしまいたくなるほどの衝撃だった。
けれど顔を上げた彼女の、緩慢に繰り返された瞬きの奥、二つの瞳は確かにゲンのよく知る黒曜石の色を湛えていたため、
彼はようやく「ああ、間違いなく彼女だ」と確信するに至り、いよいよ安堵して肩の力を抜いたのだ。
しかしその瞬間に安堵したのはゲンだけではなかったらしく、少女はその大きな目に大粒の涙を浮かべ、
ぽろりと目元からそれを零すのを合図とするかのように、わっと泣き出してしまった。
子供っぽい泣き方だった。1年前にも「幼い」と感じたその声が、そのままの形でゲンの前にあった。
その、あまりにも頼りなく不安気な泣き声に、ゲンが慌てて駆け寄ってしまったのは不可抗力であったのだろう。
手を伸べれば、華奢な少女らしからぬ物凄い力で縋り付かれた。膝を折って彼女を抱き締め返せば、いよいよ泣き声は大きくなり、痛烈な響きでゲンの鼓膜を塩辛く揺らした。
*
この世界にはあらゆる人間が暮らしている。誰一人として同じ形を持って生まれてくることなどありはしない。
当然のこと、誰もが同じ形を取ることなど叶わないという、変わりようのない理だ。
けれど一部の人間には、その「違い」というものがより鮮明な形を取っていることが、ある。
たとえばイッシュの四天王、その一人である女性は超能力を使いこなすことができるらしい。
あまりに大きすぎる力に彼女自身も苦しんでいたようだが、周りの支えもあり、その力を制御しながら、トレーナーとしての強さを極めることに成功しているようであった。
また同じ土地には、ポケモンの声を聞くことのできるという青年もいる。
傷付いたポケモンの声を聞き、ポケモンの幸福を真に願っていた彼は、けれどポケモンの声を聞くことのできないトレーナーの、確かな真実を聞き届け、
……今ではポケモンと人が奏でうるハーモニーを、その土地で聞くことが叶っている、という。
ジョウト地方のエンジュシティには、伝説のポケモンを見守る役目を担った一族もいる。
見えないものを見る力を有したその一族の末裔は、今もそのポケモンの訪れを、伝説のポケモンに認めてもらえる日を願って修行を続けているようだ。
ホウエン地方にはルネの民と呼ばれる一族がいて、神聖な地である目覚めの祠という場所や、空の柱という高い塔を守っている。
自然豊かな土地に住まうと言われる三匹の伝説ポケモンの絶妙な均衡を、彼等はずっと見届けてきたのだ。
超能力を手にしたい。ポケモンの声を聞きたい。見えないものを見てみたい。ルネの民に生まれたい……。
そうした願いは、しかし個人の思いだけではどうにもならないものだ。願ったところで人は己の出生の場所を、生まれるという運命を変えることなどできない。
人は神ではない。人は求めたからといって全ての力を手にできる訳では決してない。
……さて、この真実は真逆のことにも同じように言える。
超能力など要らない、ポケモンの声など聞きたくない、見えないものなど見たくない、ルネの民になど生まれたくない。
そう願ったところで、彼等に付与されてしまった稀有な力と運命はどうしようもなく、変えることなどできないのだ。
人は神ではない。人は神からの授かりものを拒むことなどできない。
ゲンとこの少女も、この「神からの授かりもの」に相当する、稀有な力と運命を強いられた人間であり、
そうした点において、彼女の糸が切れたような泣き方はゲンにとって、悉く理解に足るものであったのだ。
もしゲンも「独り」でなかったならこのように泣いていたかもしれないと思ってしまう程の、そうした、あまりにも痛烈に共鳴し得る感情の発露であったのだ。
シンオウ地方の山奥にある小さな村。ゲンと少女はそこで育った。
静かに密やかに慎ましやかに暮らすことを余儀なくされる、よく言えば厳かで格式のある、そして悪く言えばあまりにも窮屈な、村であった。
見えないエネルギーである「波動」と呼ばれる力を操ることで、ポケモンと心を通わせたり、物体の動きを捉えたり、
はたまた人の感情の揺らぎを読んだり、物体に宿った思念を感じ取ったり、更には未来を見たりすることもできる、らしい。
「らしい」というのは、そもそもゲンがそうした境地に達する前に村を出たからであり、
一人前とみなされる前にあの空間を抜け出してきた彼というのは、所謂「落ちこぼれ」になってしまうのだろう。
……この少女もどちらかと言えば、そうした「落ちこぼれ」として扱われていた存在であった。
波動の力こそが全てであったあの村において、彼女の残酷な不遇は当然のことであった。その悲しく不条理を極めた「当然」を、彼女は寂しそうに笑って、受け入れていた。
感受性の強い子だった。よく笑い、よく泣き、自分のしたいことに必死に打ち込み、周囲の期待以上の結果を出そうと努める子だった。
健気な努力を重ねる彼女が、あの小さく狭い村に食い潰されてしまうのではないかとゲンは恐れていたが、しかし彼女はいつだって「大丈夫」と笑っていた。
そんな彼女が遂に「大丈夫」ではなくなってしまったのだ。あの村で息をしていられなくなって、とうとう、飛び出してきてしまったのだ。
けれどあの村で生まれ育ち、村の外になどついぞ出たことのなかった彼女に、外の知り合いなどいる筈もなかった。
そんな彼女が、唯一知っている人物。それがゲンであり、故に彼女がゲンを探すのは必至であったのだろう。彼に頼るしかなかったのだろう。
解っていた。解っていたけれど、嬉しかったのだ。
アイラ、君はこんな身勝手な私を許すだろうか?
2017.2.21