Opening

『美味しいカフェがミオシティに出来たの。近いうちに食べに来ない?』

シンオウ地方に住んでいる、4つ年下の友人からそんな誘いの電話が来た。
私は二つ返事で了承の意を示し、家族に一日だけ家を空ける旨の報告をして、翌朝、ポケモンの背中に飛び乗ってあの寒い大地へと飛んだ。
私はシンオウの地理にそこそこ明るかった。昔、この友人にシンオウ地方を案内してもらっていたからだ。

あの頃はシンオウ地方を観光しながら、町にあるポケモンジムにも血気盛んに挑んでいた。
ミオにはトウガンさん、という男性がリーダーを務める、鋼タイプのポケモンジムがあったような気がする。
トリデプスに苦戦したのはもう数年前のことだというのに、私は今でもあの熱いバトルを思い出すことができていた。
私にとって、ポケモンバトルとは、ポケモンとはそうした存在だった。
忘れっぽい人間の代わりに、鮮烈な記憶をもって私達の頭に、心に、いつまでも留まり続けてくれる、愛おしい思い出の結晶だった。……勿論、その思い出は今も増え続けている。

私がシンオウ地方の新しいチャンピオンに出会ったとき、彼女はまだ10歳だった。
こんな幼い子が一人で旅などできるのかと、まずそこから心配してしまいそうになるような子だったが、ポケモンバトルは本当に強かったのだ。
ややこしい理屈を抜きにして、彼女はあらゆるタイプのポケモンに力技で挑んでいた。
そんな強引過ぎる戦略を可能にするだけの潜在能力が、彼女を選んだポケモン達には皆、備わっていた。
彼女はそうしたポケモン達を誇りに思いながら、けれど決してその力に驕らなかった。
「皆が頑張っているから私も頑張らなくちゃいけない」と、自己を奮い立たせる言葉を笑顔で紡ぎ、彼女はその小さな体と心でできる限りのことをしていた。

人を集め、人を導き、人を救うことの叶う人間というのは、総じて、やはり努力家で強欲なものなのだ。
そうした、私にはないものを悉く有している少女のことを、私は密かに尊敬していた。

あれから4年が経った。私の「後輩」と同い年である彼女は、けれどあの子よりも随分と背を伸ばして、とても美しい少女へと成長していた。
大人に敬語を使うことさえ知らなかった彼女は、けれどもう、丁寧な言葉を流暢に使えるようになっていた。
それでも私に対してはあの頃のまま、砕けた言葉で話してくれる。私はそれがどうにも嬉しい。

「仲良しの二人で開いているお店なんだよ。苺とパイナップルのパンケーキがとっても美味しいから、食べてほしいなあ」

その店はミオシティの北東に位置していた。扉には「臨時休業」という札が掛けられていて、どうやら貸し切りにしてくれているらしいと察し、思わぬ優遇にこそばゆくなった。
黄色い屋根の可愛らしい外観と、「仲良しの二人」という彼女の発言から、私は勝手に「女性の二人組が経営しているのかしら」と推測していたのだが、
洒落た装飾の扉を開けてすぐに聞こえてきた「いらっしゃい」という声音は、紛うことなき男性の、バリトン寄りのテノールであったため、私は少々、驚くこととなってしまった。

どこぞの白衣の優男を彷彿とさせる、柔らかな表情を称えた男性だった。青い服の上から白いエプロンを身に纏っていて、名札には「ゲン」と書かれていた。
その造形の美しさもさることながら、私は彼の髪色に目を奪われていた。藍色よりもずっと深いその黒は、まるで黒曜石のような不思議な艶を持っているように思われたのだ。
彼がはにかむように笑って僅かに首を傾げれば、その黒曜石はキラキラと瞬いた。黒は決して鮮やかな色ではない筈なのに、どうにも眩しい気がしたのだ。

彼は親しげに友人と挨拶を交わすと、一瞬だけ目を閉じた。その瞬間、不思議な風がふわりと吹いて、彼の黒曜石を一層キラキラと揺らすのだ。
まるで魔法を唱えんとしているかのような、不自然な、あまりにも長すぎる瞬きだった。
そんな彼が目を開くのと、柔らかいメゾソプラノで「はーい!」と返事をする声が上の階から聞こえて来るのとが同時だった。

濡れた手をエプロンで拭きながら現れたのは、私と同じくらいの年頃の少女だった。
男性と全く同じ、眩い黒曜石の髪は長く伸ばされ、一つに束ねて右肩から鎖骨を隠すようにするりと流れ落ちていた。
その髪の輝きが、あまりにも男性のそれに等しいものであったので、まさか血が繋がっているのだろうか、と少しばかり驚いたが、目の色が違った。
ゲンという男性の目はサファイアのような青だったが、この少女の目は黒色だった。
黒曜石を髪に宿すだけでは飽き足らず、瞳にまで映してしまっているかのような、そうした眩しい黒の目を持っていたのだ。

「初めまして、アイラといいます」

「……」

そうした、不思議な色を宿したこの二人に、私が驚いたのは言うまでもないことだ。
……けれど私が最も驚くべき点は、彼等の有した色の方にはなかった。

私は「この男性が声を発していないにもかかわらず、2階からこの少女が駆け下りてきた」ことにこそ、最も驚いて然るべきであったのだ。

少女は柔和な笑顔で私達をカウンターに案内する。友人は慣れた様子で席に着く。私は驚きを忘れることのできないまま、ぎこちない笑顔で椅子を引く。
アイラと名乗ったその少女が楽しそうに「いつものパンケーキでいいかしら?」と尋ねる。友人は満面の笑顔で頷く。
その黒曜石の瞳がすっとこちらに移されたので、私は尋ねられる前に「同じものを」と返した。

彼女は至極嬉しそうに微笑んで「ありがとうございます」とお礼の言葉を紡ぐ。カウンターの向こうに立つ男性が「少し時間を貰うよ」と了承の言葉を告げる。
そんな声音さえも、宝石のようにキラキラと瞬いているように思われた。そうした不思議な二人であった。
その「不思議」が悉く同じ形を取っていることが、どうにも訝しいことのように思われたのだ。不自然だったのだ。

「……ねえ、どうしてゲンさんが貴方を呼んでいることが解ったの?」

その「不自然」をぎこちない笑顔のままに誤魔化していればよかったものを、私はとてもデリカシーに欠ける人間であったから、そうした、無神経な追及をしてしまったのだ。
驚きに見開かれた二つの黒曜石を見て、ああしまった、と思った頃にはもう遅すぎた。
私の後悔はまたこうして一つ増えるのだ。小さな罪を悔いることには、もうすっかり慣れてしまった。

けれど彼女の表情は、驚愕から笑顔へふわりと変わった。まるで「見抜いてくれたことが嬉しい」とでも言うようなその優しい表情に、今度は私の方が驚くべき番だった。
……どうやら私の悪癖は、今日この日、この少女においては良い方向に働いてくれたようである。
誰かを苦しめて然るべきである筈のこの無神経さが、時に別の人を喜ばせたり安心させたりすることさえ叶ってしまうのだから、不思議な話だ。

「君は波動、という言葉を聞いたことがあるかい?」

カウンターの向こうでゲンさんが口を開く。アイラさんはニコニコと微笑みながら、私と同じように彼の言葉に耳を傾けている。
正直に首を振れば、彼はパンケーキの材料を取り出しながら、その「ハドウ」というものの説明をしてくれた。

「目に見えないエネルギーのことを、私とアイラの生まれた村ではそう呼んでいたんだ。私達はそのエネルギーを扱う「波動使い」になるべく、修行をしていた」

「ゲンさんは波動を操る力に長けていて、光や音の形で遠くに届けることができるんですよ。
さっきも、波動を飛ばして私を呼んだんです。私はそうした波動を見たり聞いたりする力を持っているから、彼の声に気付くことができたんですよ」

「へえ、そんな便利な力があるのね。私もそういうの、欲しかったなあ」

思わずそう呟けば、二人は顔を見合わせて、同時に頬を綻ばせて笑い始めた。
「波動を知らない人に、こんなにも早くその存在を受け入れてもらえたのは初めてだよ」と彼が楽しそうに告げたことから、
ああそうか、こうした不思議な力というものは、普通はおいそれと信じてもらえないものであるのかと、世間の常識と自身の認識の乖離を思い出して、私も笑った。

この世界には不思議な力を持った人間がいる。その稀有な人間は、けれど私達のすぐ近くで、私達と同じように息をしている。そのことを私はとてもよく解っていた。
稀有な力というのは、私にとっては「稀有」ではなく、すぐ傍に、日常的に存在するものであったから、今更、他の力を目にしたところで疑ったりする筈もなかったのだ。

『そうか、君にも聞こえないんだね。可哀想に。』

「あいつ」の声が聞こえた気がした。
ほんの数時間前に「行ってらっしゃい」と私を見送ってくれた優しいテノールボイスは、
けれど4年前、確かにその同じ声音で、「ポケモンの声を聞く」という力を持たない私を冷たく鋭く叱責していた。
あの頃の私は、出会い頭にそんな挑発的な言葉を口にした彼という男に、ひどく苛立ち、憤っていた。
けれど今なら、彼を知りすぎてしまった今なら解る。彼が何故、あのような言葉しか紡げなかったのか、何故あのような過激な思想を抱くに至ったのか、その全てが解っている。

稀有な力を持った人間の生き様は、往々にして厳しいものだ。私はそのことをとてもよく解っていた。
だからこの人達も、厳しく生きざるを得なかったのではないかと思ってしまったのだ。
二人は「あいつ」と同じように恐れ、悩み、苦しみ、その果てにようやく、今の穏やかな生活を手にするに至っているのではないかと、そんな風に考えてしまったのだ。
そして、そんな私の勝手な憶測は、次の彼の言葉で一気に「真実」へと形を変え、私の前に「知る」という勇敢な選択肢を、鮮やかな声音で与えるに至ったのだ。

「長話は嫌いかい?」

「……いいえ、大好きよ」

毅然とした声音でそう告げれば、アイラさんはクスクスと笑いながらカウンターの向こうへと回り込み、ゲンさんの隣に立った。
今から私は、この二人の人生を覗こうとしている。穏やかな彼等の、おそらくは全く穏やかではない話を、聞こうとしている。
二人の恐れを、悩みを、苦しみを、共有させてもらおうとしている。

「……」

「あいつ」の部屋が脳裏を掠めた。心臓を穿たれるようなあの痛みを思い出して、けれどすぐに笑うことでそれを振り払い、大丈夫だと自身に言い聞かせた。
あれからもう4年が経った。今度はもう少し、まともな「聞き手」となることができる筈だ。

「それじゃあ、アイラがあの村を飛び出して私に会いに来てくれた頃のことを、先に話しておこうか。……今から、もう3年前のことになるかな」

青いグラスに入れられた水の中、浮かんでいた氷がカラン、と音を立てた。


2017.2.25

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