さて、ここでひとつ大事な話をしなければならない。
あたしは彼女が「働いていない」と思っていたのだけれど、どうやらそれは間違いであったようだ。
あたしはそのことを、皮肉にも彼女からでも彼からでもなく、お姉ちゃんから聞いて知ることとなってしまった。あたしが、12の頃だった。
「そういえばこの前、貴方のお母さんが作った曲を聴いてきたのよ」
彼女の仕事はなんと「作曲」だった。彼が料理という芸術の場に生きていたのと同じように、彼女もまた、分野は違えどやはり芸術の世界に生きていたのだった。
確かに彼女は1日の大半を、ピアノのある小部屋で過ごしていたけれど、鍵盤と戯れるのは夢見がちな彼女の単なる現実逃避であるのだと思い込んでしまっていたから、
あたしはあの不気味な行為が「仕事」として成立してしまっているという事実がとても恐ろしく、軽い吐き気さえ覚えたのだった。
家とフラワーショップの往復だけで生きていた彼女の作る曲、それを世に出していたのは他でもない、彼女の「友人」である、マリーだった。
どうやらマリーは出版社と縁があるらしく、過去にも何冊か本を出したことがあるらしい。
あなたのお母さんは小説家だったの?とあたしが尋ねると、お姉ちゃんはクスクスと楽しそうに笑ってから、すっとその海を凍らせて、
「小説だったらどんなに良かったかしら」
聞く人を震わせるような、おぞましい声音でそう零したのだった。
夜、お姉ちゃんが帰ってからしばらくして、彼女は入浴のためにピアノの小部屋から出て行った。
チャンスだ、と思った。あたしはピアノのある小部屋にそっと潜入して、枯れたカサブランカが飾られているサイドチェスト、その引き出しを片っ端から開けていった。
中には数冊の本が入っていて、あたしは一番上の冊子を取り上げて捲った。
その本には五本に並んだ不思議な罫線がびっしりと敷かれていて、その上に、リボンのような流れ星のような黒いものが無数に描き込まれていた。
それが何を意味していたのか、あたしにはさっぱり分からなかったのだけれど、それでも、この大量の「楽譜」を、彼女が書いたのだということだけは確信できた。
何故ならその本の表紙には、しっかりと「アルミナ」の名前があったからである。彼女こそがこれらの曲を作り、彼女こそがこの芸術を生み出していたからである。
その時のあたしに吹き荒れた嵐を、どのように表現すればいいのか、分からない。
……誤解のないように言っておくと、彼女は自分が働いていること、自分にお金を稼ぐ手段があることを隠していた訳では決してない。
彼女とて、あたしが問えば何かしらの答えを返してくれただろう。彼女も彼も、実の娘に不誠実を働くような人間では決してなかった。ただ、あたしが尋ねなかったのだ。
あたしは1年くらい前、自分の食事を自分で作るようになった頃から、あたしは彼女や彼と「親子らしくある」ことを諦めてしまっていたし、
あたしの「誰かとお喋りしたい」という欲求は、お姉ちゃんが3日に一度、遊びに来てくれることでいい具合に満たされていたものだから、
彼女と会話らしい会話をしたのは果たしていつの頃であったのか、あたしはすぐに思い出すことができずにいたのだった。
それ程までにあたしは彼女を、彼を、避けていた。反抗心という名前をした毒の花は、この時まではまだ、あたしの中で鮮やかに咲き誇っていたのだった。
残念なことに、あたしはこの楽譜がどのような旋律を示したものであるのか、まるで見当が付いていなかった。
あたしは楽譜の読み方を知らなかった。マリーはあたしに時計の読み方を教えてくれはしたけれど、楽譜の読み方までは教えてくれなかった。
それにもし教えてくれようとしたとして、あたしはあたしから彼女を取り上げるピアノというものを、小さな頃からとても嫌っていたので、その教えさえ拒んだのかもしれなかった。
「どうしたの?」
そこへ、彼女が入ってきてしまったのだ。
お風呂上がりの彼女の頬は少しだけ赤くなっていて、ああ、もっと早くにこの小部屋を出るべきだったのだと、あたしはすぐさま後悔したのだった。
髪を乾かすのが下手であった彼女は、いつもその長い髪から水滴を滴らせていた。
本当にタオルで拭いたのかと疑いたくなってしまうくらい、白髪交じりのその髪は濡れたままだったのだ。
けれど今は、そんな彼女に呆れている場合ではなかった。
あたしは勝手に彼女のものを見てしまったこと、勝手に彼女のことを探ってしまったことへの後ろめたさから、咄嗟に俯いてしまった。
俯けば、自然とあたしの視線は楽譜にぶつかった。この黒いリボンや黒い流れ星が意味するところは、やはりあたしには分からなかった。
あたしは芸術の世界に、二人の世界に生きてなどいないから、理解のしようがないのだ。
「……これは、どんな曲なの」
小部屋に放たれた、地を這うようなその声が、自分のものであると認めるのに数秒を要した。
あたしは、自分の心がどれだけ荒れているのかということを、その声音で気付かざるを得なくなってしまい、いけない、落ち着かなければ、と焦ってしまったのだけれど、
彼女は逆にすこぶる嬉しそうな顔になって、少女のような無邪気さで両手を伸べて、あたしの手からそっと楽譜を取り上げたのだった。
「この本は2年前に出したものなの。中でもこれはわたしのお気に入りで、新しい本を出してくれる度に編曲しているのよ」
彼女はいやに饒舌だった。とてもわくわくしているのだということが声色で分かった。
慣れた手つきでグランドピアノの蓋を開けて、紺色の布を取り払って、洗濯物の畳み方も知らない癖に、その布はとても綺麗に畳まれてしまって、
そうして楽譜をピアノに立てかけて、彼女は白と黒の鍵盤に十本の指を置いた。
ふっと息を吸い込む気配がして、鍵盤が押された。
「……」
この小部屋の壁は防音素材で出来ているらしく、リビングやキッチンにピアノの音は殆ど届かない。
故に彼女が「何かを弾いている」ということは分かっても、それがどのようなメロディーであるのかということを、小部屋の外にいたあたしは全く、知らなかった。
小部屋に入ればいいだけの話だったのかもしれないけれど、できなかった。だってその中にはピアノだけではなく、一輪挿しがあったからだ。
あたしは一輪挿しが怖かった。その中の花が怖かった。4歳の頃からずっと怖かった。
今だって、枯れてドロドロになってしまった白いカサブランカは耐えられないような死臭を放っているのに、彼女はまるで気にせず、楽しそうに弾き続けているのだ。
あたしはそんな彼女を見るのが嫌で、彼女は料理も洗濯も掃除もできなくて、……ああ、それなのに、
そんな彼女の作った芸術は、彼女の奏でる旋律は、彼女の生きる世界は、死んでしまいたくなる程に美しいのだ。
あたしは死臭を放つ一輪挿しを引っ掴んだ。そして、笑顔で弾き続けている彼女の横顔に、その中身を勢いよくぶちまけた。
少女のような悲鳴を上げる彼女の足元に、その一輪挿しを思いっきり叩きつけた。
「あなたなんか大嫌い!!」
掘り硝子の高価な一輪挿しは無様に割れて、破片が小部屋に飛び散った。彼女は何が起きているのか分かっていないような、唖然とした様子でその破片の煌めきを見ていた。
白いカサブランカの死臭に嘔吐しそうになりながら、けれど私は嘔吐よりももっと惨く醜悪な何かを、この小部屋に勢いよく放たずにはいられなかったのだ。
あたしは一歩だけ前へと踏み出した。濁った水がソックスに染み込んだ。ぬめぬめしていて、とても気持ちが悪かった。一輪挿しも、花も、水も、不気味だった。嫌いだった。
けれどそれ以上に、目の前で静かに佇む彼女のことが、彼女の、ことが、
「どうしてあなたは洗濯物を畳めないの?ピアノの布はそんなにも綺麗に畳めるのに!
どうしてあなたはレタスもトマトも花も醜く腐らせてしまうの?彼の作る美しい料理はあんなにも沢山食べるのに!
どうしてあなたはフライパンを持つことができないの?そんなにも重そうな鍵盤を何時間でも叩いていられるのに!」
「……わ、わたし、」
「あなたは子供だわ、あたしよりもずっと幼くて我が儘で頭の悪い子供!ピアノが弾けるからどうしたっていうのよ!曲が作れるからなんだっていうのよ!
お金を稼ぐってそんなに偉いこと?料理より掃除より洗濯より、大事なこと?あたしはそうは思わないわ。だってお金があったって、あなた、何もできないじゃないの!」
可哀想、という言葉の意味を、あたしはこの時、初めて知った。
いや、この時あたしが彼女に向けていたのは同情などではない、憤怒だ。それは間違いない。けれどもその激情の流れを辿れば、何故だかそこに行きつくのだった。
彼女に対するあらゆる憎悪は、全て「可哀想」というところに帰結してしまう。
彼女は愚かで、哀れで、悲しい人。大人になることも、母になることもできない、狡くて、残酷で、美しい人。
「そんな風に美しいところばかりでずっと生きていくことができるなんて、まだ本気でそんなことを思っているの?」
生きるとはもっと厳しいことだ。もっと険しく、もっと惨たらしいものだ。力強く舵を握っていなければ、流されてしまうのだ。待っていても誰も助けてくれたりしないのだ。
彼女はもっと歩かなければならないのではなかったか。彼女はもっと外に出なければならないのではなかったか。
彼女はもっと食べなければならないのではなかったか。彼女はもっと喋らなければいけないのではなかったか。彼女は、もっと。
「いいえ、解っているわ」
カサブランカの溶けた茎の端を頬にみっともなくつけた彼女は、死臭を纏うというよりも死臭そのものになってしまったような彼女は、
実の娘である筈のあたしの言葉にこの上なく怯えた様子を見せる彼女は、震える声音でただそれだけを紡いだ彼女は、……ああ、けれどどうしようもない程に美しいのだ。
彼女が芸術なのだ。彼女が美であり、彼女が花であり、彼女が死なのだ。
「生きるってとても恐ろしいことね。惨たらしいことね。やっぱりわたしは生きていかれないんだわ。生きていたって、仕方がないのよ」
それは、あたしが物心ついた時から、彼女が歌うように紡ぎ続けてきた呪いの旋律だった。
生きるとはとても恐ろしいこと、惨たらしいこと。こんな世界でわたしは生きていかれない。生きていたって仕方がない。
彼女はいつもそう言っていた。彼がいないときの彼女の旋律はいつだって「そう」だった。死にたいと言いながら生き続けていた。
あたしはそんな彼女に憤り、苛立ち、けれど最後にはどうしても、可哀想だと思ってしまうのだった。
そういう訳であたしは泣いた。彼女も泣いた。けれども二人の慟哭は、防音素材で出来た壁が吸い込んでくれた。あたしと彼女が無様に泣いていたことを知る人間は、誰もいなかった。
この人が生きていることが、とても、とても可哀想だった。
2017.4.11
【12:16】(42:-)