41

行ってらっしゃい、などという、あたしが使うことなど在り得ない筈であったその言葉も、3回、4回と繰り返せばもうすっかり慣れてしまった。

彼女は毎回、出かけるときは白いワンピースを着る。そのワンピースのしわを伸ばしているのがあたしであるということに、彼女はきっと気が付いていない。
彼女がアイロンを使えずとも、あたしはマリーにその使い方を教わっていた。ちょっと火傷が怖いけれど、慣れればどうということはなかった。
綺麗にピンと伸びたお洋服をハンガーにかけると、とても晴れやかな気持ちになるのだった。達成感、爽快感、そういうものまであたしはマリーに教わっていたのだった。

まだあたしは10歳だったけれど、その頃にはもう、あたしはマリーに教わった知識と技術を駆使して、家のことをもうほとんど自分でできるようになっていた。
掃除も洗濯も、上手とはいえないけれど、ちゃんとこなしていた。
そうしてある程度の料理を自分でできるようになった頃、あたしは毎日、あたしの分の料理を作ってくれる彼に、毅然とした声音で、こう言った。

「もうあなたの料理は食べないわ。自分の食事は自分で作るから」

彼はその言葉にひどく狼狽えた。
彼も彼女も、冷酷な人間という訳では決してなかった。寧ろ忙しい生活の中でも、彼なりにあたしのことを気にかけてくれていたのだと思う。
故にたった10歳のあたしがこのようなことを口にしたことは、人並みの人情を持ち合わせていた彼をひどく狼狽させるに至っていた。
けれどあたしは引かなかった。毅然とした目で彼を見上げて、もう一度「もうあなたの料理は食べない」と言ったのだ。

「彼女は食事を摂らないのだから、あたしのためにあなたがキッチンに立つ必要なんかない。あなたはあなたの生き甲斐である仕事を大事にして。
……心配しないで。あたしには素敵な先生が二人もいるの。料理も掃除も洗濯も、時計の読み方も、四則計算だって、全部、彼女達に教わったのよ」

彼はその言葉にひどくショックを受けたようだったけれど、あたしの頑として引かない姿勢を察すると、悲しそうに眉を下げて頷いてくれた。
「生活費」と称して、彼は十分すぎる額をあたしの手に握らせてくれた。
彼のお給金がなければあたし達は生きていけない。だから稼ぐ手段のないあたしが彼に配慮するのは当然のことだ。
そうした立派な建前を引っ提げて、あたしは彼に対する本音を、この上なく惨たらしい形でぶつけたのだ。
酷い人間だと我ながら思ったけれど、あたしはもう、彼女や彼のように美しく生きられないことを嘆いたりしなかった。寧ろ醜く在ることを、楽しもうとさえしていたのだ。

……余談であるかもしれないけれど、あたしの醜い「本音」というのは、このような形をしているのだった。

『あなたの芸術的な料理はお金を稼ぐためのもの。あなたの料理は彼女を笑顔にするためのもの。とても立派で美しくて、かけがえがないもの。
でもそんなもの、あたしは二度と口に入れない。あたしは美しいものなど決して食べない。
あたしはあなたの助けも彼女の助けも必要としない。あたしは一人で生きていく。
そのための方法を、力を、知識を、全て、全てマリーとお姉ちゃんが教えてくれた!あなたは、彼女は、あたしに何も、何も教えてくれなかった!
二人は美しい世界で、二人だけの世界で美しく生きればいい。どうぞ、勝手にやってくれ!』

さて、そういう訳で10歳のあたしの、年相応な「反抗心」は、けれども全く年相応でない形で花開いた。
その毒の花はみるみるうちに立派になって、あたしはその毒の花の鮮やかさと美しさとみずみずしさを吸って、したたかに逞しく生きていくことを、秘かに決意したのだった。

彼から貰ったお札を、30で割った。1日にどれくらいお金を使えるのか、あたしはある程度の推測を立てることができた。
取り敢えず一万円札を1枚だけ持って、いつもマリーと一緒に出掛けていた馴染みのあるスーパーへと向かい、お野菜や乳製品、パンやパスタの類をカゴに放り込んだ。
あと美味しそうだったので、チョコチップの混ざったクッキーも購入した。
大きな重い袋が2つ出来上がったけれど、なんとか持つことができた。あたしは彼女のように非力な存在ではないのだと、そう知らしめるように胸を張って帰宅した。

冷蔵庫の前に仁王立ちしたあたしは、買ってきた全てを押し込んだ。食べるものはそこへ仕舞うのだと、あたしはマリーに教わっていたのだ。
乾燥パスタまで冷蔵庫に入れる必要はなかったのだけれど、そこのところをあたしはまだ分かっていなかったから、とにかく全部入れてしまった。
新しい何かが始まるようでとてもわくわくした。あたしだけの世界を作り上げることができているように思えて、微笑まずにはいられなかったのだ。

朝食には専らトーストを焼いて、そこに苺のジャムを塗った。
本当はオムレツを食べたかったのだけれど、こちらに成功するのは5回に1回くらいのもので、あとはぐしゃぐしゃに崩れた炒り卵の様相を呈していた。
昼食や夕食は、お金に余裕があるときはカフェで食べたり、大通りで買い食いをしたりした。
少し節約したいなと思ったときは、家でパスタを茹でた。店には様々な味付けのソースが売られていたから、飽きることなどなかった。

マリーに野菜の重要性をよく説かれていたあたしは、サラダを1日1回は必ず食べるようにしていた。
カボチャやニンジン、ブロッコリーにキャベツ、そうしたものを一口サイズに切って、「タイネツ容器」というものに詰め込んでから電子レンジに入れた。
その箱の中に入れておけば、理屈は分からないけれど、5分ほどで蒸したような状態になる。
火を使わずに食べ物を温められるその機械を彼女はひどく恐れていたけれど、あたしはちっとも怖くなかった。寧ろ心から感謝していた。
鮮やかな色になったブロッコリーやニンジンに、ドレッシングをかけて食べた。
この、あたしでもできる手軽な野菜の摂り方は、マリーではなくお姉ちゃんに教えてもらったものだった。

あたしが作る食事はいつだって一人分だった。彼女はこんな無骨な、美しくない料理など食べない。そして彼は、家にいない。
そういう訳であたしは、一人で作って一人で食べていた。そうした生活にこの上なく満足していた。
だって美味しいのだ。腐っていないのだ。トーストも、温野菜も、ミアレシティの大通りで適当に買って食べるガレットも、美味しかった。美味しいと言い聞かせれば真実になった。

あたしは二人の世界に入ることを許されていなかったから、あんな美しい料理などこっちだって願い下げだ、という態度で、
フローリングに寝転がってクッキーをかじったり、冷蔵庫からサイコソーダの缶を取り出して立ったまま一気飲みしたり、
ビニール袋の下品な音を立てながら、メロンパンにぱくりとかぶりついたりした。
彼女はそうしたあたしの姿を悲しそうに見ていた。あたしは、楽しかった。毒の花の養分をたっぷり吸い上げたあたしは、どうしようもなく何もかもが愉快に思われていたのだった。

そうした生活を1か月程度続けた頃、更に楽しいことが起きた。15歳になった「お姉ちゃん」が、カロスのポケモン研究所で働くことになったのだ。
お姉ちゃんはイッシュ生まれのイッシュ育ちであった筈なのに、何故だかイッシュではなく、カロスで働くことを決めたのだった。
白衣を着たお姉ちゃんは最高にかっこよかった。そのかっこいいお姉ちゃんは、今までよりもずっと頻繁に、具体的には週に2回の頻度で、あたしの家を訪れてくれるようになった。

あたしが家事を覚えた頃から、マリーの訪問頻度はぐっと減り、最近では月に一度しか、マリーとお姉ちゃんに会うことができていなかったものだから、
お姉ちゃんがこんなにも頻繁に来てくれることが嬉しくて堪らず、あたしはとてもはしゃいでいた。
調子に乗って、二人分の夕食を作って、仕事終わりの彼女に振舞ってみたりもした。
夕食といっても、それは市販のパスタを茹でて市販のソースをかけただけのものであったり、温野菜のサラダにドレッシングをかけたものだったりといった、
おもてなしと呼ぶにはあまりにも粗末な代物であったのだけれど、それでもお姉ちゃんはとても喜んでくれて、いつもあたしの作った料理を完食してくれた。

けれど月に2回ほど、お姉ちゃんが料理を作る側に回ってくれた。「今日は私が作るから、貴方は座っていて」と告げて、腕まくりをして勇ましくキッチンに立つのだ。
お姉ちゃんの作るオムライスも、シチューも、プリンも、とても美味しかった。カロスではあまり食べることのできない、素朴で、けれど温かみのある味付けだと思った。
ああ、きっとこれはお姉ちゃんの家の味なのだと、お姉ちゃんはこういう料理をマリーに作ってもらっていたのだと、そうしたことを察して、あたしは少しばかり、嫉妬した。
あたしもこんな美味しいものを作ってもらいたかったなあと、腐ったヨーグルトやサラダなど食べたくなかったなあと、
もうすっかり諦めてしまった筈のことが思い起こされて、どうにも悲しく、悔しくなって、けれどそれ以上にお姉ちゃんの料理は美味しかったから、あたしは笑うことができた。

「どうしてお姉ちゃんはカロスで働くことにしたの?イッシュ地方で暮らすことが嫌だった?両親のことが嫌いだった?」

「そんなことないよ。イッシュのことも、母さんと父さんのことも、大好き。
でもカロスで働きたいっていう思いは、もう何年も前から私の中にあったわ。私はここで働きたかったの。ここで生きたかったのよ」

海の目がすっと細められ、そして凍った。あ、と思わず息を飲んだ。
それはとても優しく温厚なお姉ちゃんが、ひどく残酷な言葉を紡ぐときの癖だったからだ。
あたしの気のせいであったのかもしれないけれど、お姉ちゃんが目を歓喜や安堵ではなく憤りに任せてすっと鋭く細めるとき、その海の色が少しだけ、濃くなるのだ。
あたしはそれを「海が凍る」と呼んでいた。怒りの炎、などという言い方をよく聞くけれど、お姉ちゃんの場合は逆だった。お姉ちゃんは燃やすのではない、凍らせるのだ。

「私はもっと上手にできる。懸命に生きて、立派になって、それで母さんに言うの。『ほら、ちゃんと生きられているでしょう?やっぱりあいつがクズだったのよ。』って」

お姉ちゃんの口から「あいつ」という言葉が出てくるとき、決まって彼女の目は凍っている。
その口も殺伐としたものになり、綺麗な言葉遣いが崩れ、粗っぽくなる。クズ、だなんて、この凍り付いた目の時でなければまず、聞くことの叶わない言葉だった。
そして、そうした鋭利な言葉と凍った目で語られる「あいつ」は、何故だか決まって、お姉ちゃんの母、つまりはマリーとセットになって登場するのだった。

マリーもお姉ちゃんも、とても優しくて素敵な人だった。マリーの夫、すなわちお姉ちゃんの父も、きっと二人に似て、優しくて素敵な人なのだろうと思っていた。
だからこそ、そんなお姉ちゃんとマリーとの間に、まるであたしと彼女のような奇妙な軋轢があるのだという「事実」は、あたしを少なからず驚かせていた。
……もっとも、それは歪んでこそいたけれど、きっと軋轢、などと呼ぶべきものではなかったのかもしれない。
お姉ちゃんは両親のことを本当に愛している。だからこそ「あいつ」のことが許せずにいる。確認したことはないけれど、きっとそういうことなのだろう。

「でもその気持ち、分かる気がする。だってあたしも一人で料理や掃除や洗濯をしているとき、思うもの。『あなた達なんかいなくたってあたしは生きていけるのよ。』って」

あたしはお姉ちゃんのように目を凍らせる術を知らないから、とびきり楽しそうに笑ってみせた。これは笑い話になり得ることである筈だった。楽しい、ことである筈だった。
けれどお姉ちゃんは笑ってくれなかった。お姉ちゃんが打ってくれる筈だった相槌の代わりに、グラスの中の氷がカラン、と虚しい音を立てた。


2017.4.11
【11:15】(41:51)

© 2024 雨袱紗