43

あたしは彼女をピアノの小部屋から追い出してから、細く長く息を吐いた。
片付けなければ、と思いながらあたしは笑った。ああやはりこうなってしまうのだ、変わりようなどなかったのだと感ぜられたからであった。

癇癪、というものを起こしたのはこれが初めてのことで、思いの外それは後味の悪い、胸の痛むものであった。けれどもあたしは構うものか、と思っていた。
だっていくらあたしが癇癪を起こして怒鳴り散らして泣き喚いたとして、そんなことでこの歪な家の歪な様相は何も変わらないのだ。
彼女は何もできないまま、ピアノと花の世界に溺れ続けるのだし、あたしは明日も明後日も一人分の食事を作るだけなのだ。
彼が帰ってくる頃にはきっと、この小部屋も綺麗に片付いて、彼女もお風呂に入り直してその死臭をすっかり洗い流していて、
この小部屋の一輪挿しが割れている他には何も変わらない、そうした「いつも」に戻っている筈なのだ。それでいい、構わない。

雑巾で濁った水を拭き取り、溶けたカサブランカをゴミ箱へ捨てた。死臭を外へ逃がしたかったけれど、この部屋には窓がないから換気をすることもできなかった。
仕方がないのでドアをあけ放ち、リビングの窓を勢いよく開けた。夜風はとても冷たく、思わずくしゃみをしたのだけれど、その直後、背後であたしの名前が呼ばれたのだった。
彼女は両手にブランケットを抱えてあたしの方へと歩み寄ってきて、あたしがくるりと振り返るや否や、

「これを羽織って頂戴。風邪を引いてしまうといけないから」

などと、頬にカサブランカの茎をべとりとくっ付けたままの状態でそのようなことを言ってのけたのだ。
あたしはにわかにおかしくなって、声を上げて笑った。笑い過ぎてお腹が痛くなってしまう程であった。
彼女は不安そうに、泣き出しそうに眉を下げていたのだけれど、あたしが手を伸べて彼女の頬についたドロドロの茎をそっと取り去れば、
そのようなものを身に付けていたことに今、ようやく気が付いたのだという具合に、照れたように恥じるように、白い顔を僅かに赤くして微笑むのだった。

「……酷いことをして、ごめんなさい。花瓶の破片で足を切ったりしていない?」

「ええ、何処も痛くないわ。それにあなたが謝ることなんかこれっぽっちもないのよ。悪いのはわたしなんだから……」

彼女の、針金細工のように細い手は、可哀想な程に震えていた。
もうあのピアノの小部屋で憤るだけ憤り尽くしてしまったわたしは、激情を全て吐き出してしまったわたしは、
もうこの女性に対して「可哀想」というところに全てを注ぎ込んでしまうほかになかったのだった。
故に彼女のことをただ、そのような弱々しい姿として見てしまったとして、それは当然のことだったのだろう。そういう点において、あの癇癪には確かな意味があったのだ。

「あたしが散らかしたあの部屋はあたしが片付けておくわ。あなたはもう一度お風呂に入った方がいいと思う」

彼女はこくりと頷いて、言うとおりにしてくれた。これではまるでどちらが本当の親であるのか分からなかった。
彼女の心は少女のままで止まっていた。けれどそれが「何歳」の時で止まってしまっているのかまでは、あたしには推測のしようがなかった。
けれども実はこの時、既に11歳であったあたしは、彼女の心の年を追い越してしまっていた。彼女の年は、彼女にとっての思い出の日でずっと、ずっと止まっていたのだった。

ガラスの破片を拾い集めて、ごみ袋に放り込んだ。拾えない程に小さな欠片は箒で掃き集めた。
それでもまだ、フローリングが少しばかりキラキラしているような気がしたので、掃除機を取り出してきて隅から隅まで念入りに掃除した。
カラカラと何か硬いものが吸い込まれていく音を聞く度に、ああ、ガラスがまだ落ちていたのだと気付かされ、ヒヤリとすると同時に安堵しさえもしたのだった。

全ての片付けが終わった頃、彼女は再び髪を濡らしたままでお風呂から出てきた。
風邪を引いてはいけないからとブランケットをあたしに手渡した彼女だけれど、そのような甘い髪の乾かし方では、むしろ彼女の方が風邪を引いてしまいそうだった。
あたしは洗面所からタオルを持って来て、彼女をソファに座らせて、髪の水気をそっと拭き取った。
こういうこと、普通は母が娘にやるものなのではないかしら。そう思ったけれど、もうどうだってよかった。あたしも少し、疲れていたのだ。

粗方乾かし終えたと判断したところで、あたしは櫛で彼女の長い髪をといた。
乱暴にすると、彼女の絹のように細い髪は千切れてしまいそうだったから、できるだけ優しく、丁寧にとこうと努めた。
彼女はクスクスと笑いながら、ズミさんよりもずっと上手だわ、などと口にするのだった。……あたしはどうやら、彼の年齢さえも追い越してしまっていたようである。

「あなたはよく、生きていたって仕方がないと言っているけれど、きっとそれは本当なのよね。あなたは本当に、生きていることが苦しいのよね。辛くて辛くて仕方がないのよね」

髪を整えてから、あたしは彼女に向き直ってそう告げた。
彼女は悲しそうに目を伏せた。それが静かな肯定の返事であると、分かっていたからあたしも頷いた。
針金細工のように細い彼女、音と花と彼の料理だけを食べてなんとか生き長らえている彼女。料理も掃除も洗濯もできない彼女。生きていたくない、彼女。
あたしはそんな彼女が生きていることが可哀想で、とても、とても可哀想だと思われてしまって、

「ねえ、もし生きていたくなくなったら、そのときはあたしに言ってほしい。あたしがあなたを死なせてあげるから。あなたが生きなくてもいいようにしてあげるから」

だからこのような、取り返しのつかないことを言ったのだ。

「本当?」

彼女は目を煌めかせた。あまりにも美しい表情だった。
ああこの人は本当に、生きているときはあまりにも痛々しい、苦悶の表情を浮かべているにもかかわらず、
腐った花を眺めたりピアノを弾いたり死にたがってみたり、そうしたときの表情はとてもキラキラした、いっそ天使のようなものになってしまうのだ。

でも、もしかしたら、最初からこうすればよかったのかもしれない。あたしが彼女に優しくなるには、彼女の纏った死臭を認めてあげるだけでよかったのかもしれない。
今はもう砕けてしまったあの一輪挿しを、あたしが怖がらず、一緒に花の死を愛してあげるだけでよかったのかもしれない。
そうすれば、あたしはもしかしたらこの人を「母」と呼べたのかもしれない。

「とても嬉しいわ。それじゃあ、約束ね」

彼女はそう言って、折れそうに細い小指を差し出した。本当にその小指は頼りなくて、あたしの方がもしかしたらしっかりしているのではないかとさえ思えた。
12歳の手の大きさが、もうすっかり成人してしまった42歳の手に敵う筈がなかったのだけれど、
それでもあたしの記憶はあたしに都合のいいように捻じ曲げられてしまっていたらしく、その時からずっと、あたしの手は彼女のそれよりも大きかったのだ。
あたしの覚えている限りでは、確かにそうだったのだ。

翌日、あたしはミアレシティで一番大きなデパートに出掛けて、家にあったものにとてもよく似たガラス製の一輪挿しを購入した。彫り硝子のものはあまりにも高く、買えなかった。
ついでとばかりに、あたしはアパルトマンの階下にあるフラワーショップで花を1本だけ買った。4歳の時にあたしが恐れた、スターチスの紫の花だった。
帰宅して、その一輪挿しと一緒に花を手渡すと、彼女はとても喜んでくれた。一輪挿しに水道水を満たしてくれたので、あたしはスターチスの花をそっとそこへ差した。
彼女は花が大好きだったけれど、決して触れようとはしなかったから、これからは彼女が買ってきた花を、あたしが活けるようにしてもいいのかもしれない、などと思いさえした。

どうぞ、勝手にやってくれ、というような、反抗心という毒の花は、2年前はとても鮮やかであった筈の、あたしの心にずっと咲き続けていたその花は、
けれどいつしかくたびれて、萎れて、あの日のカサブランカのようにドロドロに溶けてしまっていた。
あたしには溶けた花を慈しむ趣味はない。故にその毒の花の死臭を、あたしは微塵も楽しまないままに、ぽいと心の窓から投げ捨てた。名残惜しさなど欠片も抱かなかった。

あたしは時折、彼女がピアノを弾いているところを見るために、彼女の「死の旋律」とでも呼べそうな美しい音を聴くために、その小部屋に入るようになった。
彼女はあたしが入ってきたことにも気付かず、夢中でピアノを弾き続けていることがほとんどであったけれど、たまにふと顔を上げて、あたしと目を合わせてくれることがあった。

「あなたも弾いてみる?」

あたしに気が付いたとき、彼女は決まって微笑みながらそう尋ねてくれた。しかしあたしはいつも首を横に振っていた。
彼女の仕事道具に触れることが躊躇われたし、何よりあたしには楽器のような美しいものなど似合わないと思い込んでいたからだ。

あたしは彼女や彼への反抗心を失っても尚、彼の料理を食べることを拒絶していたし、彼女の鍵盤を叩くことから逃げ続けていた。
彼等の世界にあたしは入れないと、入ろうとしたところで惨めな思いをするだけだと、分かっていたからこその行動であった。
そしていつしか、「入れない」ではなく「入りたくない」が故に、あたしは彼の料理を、彼女の鍵盤を、断るようになってしまったのだった。

あたしは美しくありたくなどなかった。何故ならあたしは生きていたかったからである。
どこまでも美しく生きようとしている彼女と彼がその実、とても生き辛いことになってしまっていることを、あたしはとてもよく分かっていたからである。

彼女と彼を嫌っている訳では決してなかった。むしろ慕っていた。焦がれていた。彼女のピアノの技術を、彼の料理の腕を、あたしは尊敬していた。
だからこそ、彼女の奏でる死の旋律を、彼の作る美の料理を、あたしは理解しないようにしていた。理解してはいけないのだと言い聞かせていた。
理解してしまえば、あたしもいよいよ生きていかれなくなってしまうのではないかと思ったのだ。
あたしも彼等と同じような美しさを纏って、生きていたって仕方がない、などと口にするようになってしまうのではないかと恐れたのだ。

あたしは「生きていかれない」と喚きたくなどない。あたしは生きていたい。
少なくとも、彼女を死なせてあげるまで、あの約束を果たすまで、あたしは生き続けなければいけない。あたしは死ねない。

それにあたしはまだ、お姉ちゃんと「友達」になれていない。
そういう訳で、あたしが冥界でダンスを踊るには、まだ少しばかり早すぎたのだ。


2017.4.11
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