それからというもの、プラターヌは「彼女」を探しながらホグワーツの廊下を歩くようになっていた。
彼女を見つけることは存外、容易かった。彼女は目立っていた。忘れ去られるような姿をしてはいなかった。その容姿は際立っていたし、何より彼女はいつも一人であったのだ。
いつも、いつでも何かを窺うように、きょろきょろと辺りを見渡しながら歩いている。
腕に抱えられたラルトスの、その赤いツノは、彼女の心の揺らぎに呼応するように明るくなったり暗くなったりを繰り返している。
腰までありそうな長いストロベリーブロンドが、そうした彼女の視線に合わせてふわふわと揺れている。
目に涙を浮かべながら、けれど決してそれを溢れさせることはせず、ただゆっくりと、歩いているのだった。
プラターヌはホグワーツの中で彼女に話しかけることをしなかった。
声を掛けたり肩に触れたりしようものなら、即座にその大きな瞳から涙がぽろぽろと零れてしまうのではと思わせるような、そうした危うい気配を彼女は常に携えていたからだ。
ただでさえ、「飼育学の新任教師」「つまらない授業しかできない先生」というレッテルを貼られているというのに、
それに加えて自寮の生徒を泣かせたという汚名まで加われば、いよいよ彼は教員ではいられなくなってしまいそうだった。
彼もまた、触れれば壊れてしまいそうな程に、ギリギリのところを綱渡りでもするかのように歩いているのだった。故に彼の歩幅も小さく、ぎこちないものであった。
そうした点においても、二人は悉く似ていたのだろう。
二人が禁じられた森で会っていることを知っている者は一人もいない。
常に一人で歩いているように見える彼と彼女が、しかし「一人でない時間」を確かに有しているのだと知る者もまた、一人もいない。
*
少女とプラターヌはあらゆる点でとてもよく似ていた。
あまりに似すぎていて、プラターヌは今、自分の話をしているのか「彼女」の話をしているのか、解らなくなってしまうことが稀にあった。
少女は全ての人を恐れていた。プラターヌは全ての生徒を恐れていた。
その「全て」の中には、当然のように少女にとってのプラターヌや、プラターヌにとっての少女も含まれる筈であった。
にもかかわらず、少女はプラターヌが自らの「逃げ場」に留まることを許し、プラターヌもまた、先客のいるこの場所に足を運ぶに至っている。
彼女は全ての人に恐怖を抱くことがとても得意であった。プラターヌは全ての人に悪意を見ることがとても得意であった。
彼女は虐められている訳では決してなかった。プラターヌの授業が面と向かって非難されたことは一度もなかった。
誰も、何も悪くないにもかかわらず、少女の心も男の心もすっかり弱り殺がれてしまっていた。
魂の相似、というものがあるとすれば、おそらくこの二人の間にピンと張られた糸のことをそう呼んだのだろう。
「やあシェリー、どうしたのかな?」
学校のある日も、休日も、彼等は等しく夕刻に顔を合わせていたけれど、プラターヌがその言葉を投げかけられるのは週に3日か4日程度のことだった。
そうやって声を掛けられない日というのも確かに存在していた。
プラターヌが彼女の恐怖を引き取るのではなく、プラターヌの悪意を彼女に引き取ってほしいと弱々しく懇願することも、少なくはなかった。
そういう時、彼は決まってこう口を開くのだった。
「ごめんねシェリー、こんなボクでごめんね」
彼女は1年生であった。プラターヌの教える飼育学というものを、まるで知らない幼い少女であった。
故に彼女は彼の受ける悪意がどのようなものであるのかをまるで知らない。知りようがない。
にもかかわらず、彼女はぼろぼろと涙を流しながら、彼の懺悔を聞いていた。何度も小さく頷きながら、けれど決して彼の言葉を遮らないのだ。
プラターヌが少女の吐露する「恐怖」にそうしていたように、彼女もまた、プラターヌの怯える「悪意」への同意と共感を示した。
互いが互いのことを話している間、もう片方は決して口を開かなかったのだから、それは壁に向かって話しているのと同じであり、互いに、何も生まなかった。
あまりにも静かな時間。あまりにも無意味な時間。けれど彼は心から安堵していた。おそらく少女もそうであったから、毎日、この森を訪れていたのだろう。
けれど稀に、どちらともが口を開かないときがあった。
プラターヌにとっても少女にとっても、この森を訪れることは最早日課と化していたのだから、身を切るような苦痛を抱えておらずとも、此処へ足を運ぶのは当然のことだった。
プラターヌが「ごめんね」と謝らないとき、少女が「怖い」とうわごとのように繰り返さないとき、二人の間に降りた沈黙を、二人はぎこちない言葉で少しずつ、埋めるしかなかった。
プラターヌも少女も会話に堪能な方ではなかった。故に互いのぎこちなさは互いを安心させていた。
「ずっと此処にいると、寒いだろう?」
初めてそうしたぎこちない沈黙が下りた日、彼は森を抜け出して、カフェテリアで2杯のコーヒーを購入してきた。
彼女はそれを受け取るなり、ぼろぼろと涙を零した。誰かに何かを貰うのが初めてであったからではない。理由はもっと単純なことで、彼女は、コーヒーを飲めなかったのだ。
この美しく大人びた少女はしかしまだ1年生であり、コーヒーを好んで飲むような年齢ではなかったのだということを、プラターヌはすっかり失念していたのだ。
しとしとと花の蕾に雨を降らせる少女に、プラターヌはすっかり青ざめた顔のままに何度も謝罪を紡いだ。
そうして全速力でカフェへと舞い戻り、今度はカフェオレを購入してきた。
少女はそれを受け取り、少しずつ口を付けながら「貴方にこんな手間を取らせてしまったことが恐ろしい」とまた泣き、
プラターヌは「君の飲めないものを買ってきてしまった自分が恥ずかしい」とまた謝罪した。
忙しなく繰り広げられる、少女の涙と男の謝罪を、果たして禁じられた森に住まうポケモン達はどのような目で見ていたのだろう。
けれど少なくとも、そうした滑稽めいた彼等が、森の野生ポケモンに攻撃され、追い出されたことは一度もなかった。
故に彼等のそうした滑稽な時間は誰にも邪魔されることなく、夜が更けるまで続いたのだった。
少女の涙、プラターヌの謝罪、交わされるぎこちない言葉、コーヒーとカフェオレ。
そうした時間の中で、白い蕾はいつだって「いつの間にか」咲いていた。
夕刻、プラターヌがこの森に足を踏み入れたときには確かにその蕾はかたく結ばれており、三日月のように細長く佇むばかりであった筈なのに、
少女の涙を引き取ったり、プラターヌの謝罪を引き取ってもらったりしている中で、その蕾はいつの間にか花開き、満月の様相を呈している。
「夜顔、今日も綺麗ですね」
暗い森に咲く白い月のことを話題に上らせるのは、決まって少女の方であった。
彼女は自分から口を開くことを滅多にしなかったのだが、この花についての言及だけは毎日、どんなに泣いていても欠かさなかった。
その白く丸い花が「夜顔」と呼ばれていることを、プラターヌはこの時間が始まってすぐの頃に、少女から聞いて、初めて知った。
「よく知っているね」という些末な、ささやかな誉め言葉にも、やはり少女はぽろぽろと泣くのであった。
塩辛い雨は夜顔の真っ白い花に落ち、ぱちぱちと透明な花火のように弾けた。
「それにしても、君は本当によく泣くね。……ああ、違うんだ。責めている訳ではないんだよ。ただ、そんなに泣いてしまうと息が苦しくなるのではないかなと思ったんだ」
慌ててそう付け足しつつ、プラターヌはコーヒーに口を付ける。少女は不思議そうに首を捻りながら、やはりぽろぽろと泣く。
もう日は沈んでしまっており、彼女の手元は暗くて見えないが、きっとカフェオレから昇る湯気をそっと割いて、彼女の涙はぽちゃんとその中に落ちてしまっているのだろう。
甘い筈のカフェオレが塩辛くなっていやしないかと、プラターヌは少しだけ心配になった。
そしてその少しの心配は、少女が嗚咽の合間に「貴方がいるから」と零したことで、
ぼん、と爆発したかのような勢いでプラターヌの心臓をぐるぐると対流し、彼の全身をあっという間に満たしていったのだった。
「そ、それはどういう意味だい?ボクは何か君を傷付けるようなことを言ってしまったかな」
「いいえ」
けれど彼女はきっぱりと否定の言葉を紡ぐ。紡いでから乱暴に涙を拭い、プラターヌを見上げる。
おや、と彼は少しばかり驚いた。少女が顔を上げるのも、そのように否定の音を奏でるのも、珍しいことであったからだ。
「他の人の前では泣けないから、貴方の前でしか泣いてはいけないような気がするから。……だから今のうちに、泣いておきたいのかも」
そうか、と安心したようにプラターヌは微笑み、彼女のそうした泣き虫な面を許した。
彼女は許されたことに気が付いたのか、あるいは言葉を紡ぐことが恐ろしかったのか、またぽろぽろと涙を落とした。落ちた涙は夜顔が全て受け止めた。
*
夜顔は出会ったあの日から1か月ほどでみるみるうちにそのツルを伸ばし、今ではこの森の中で動かない彼等を覆い隠さんとするかのように生い茂っていた。
ツルが伸びればそこに宿る蕾も増えて、この森に咲く月も当然のように数を増やした。彼女の涙を受け止める夜顔は、今日も白く咲いている。今日も美しく咲いている。
「夜顔、今日も綺麗ですね」
彼女の簡素な、嗚咽の合間の僅かな時間で放たれる短い言葉は、プラターヌの強張った心をゆるやかにほぐしていた。
彼女の方がずっと小さく無力であったのだから、当然のことだった。
この少女といるとき、プラターヌは自分が臆病であることを忘れられた。だってこんなにもこの少女は小さいのだ。この少女の心は、こんなにも。
「そうだね、とても綺麗だ。これだけ綺麗なのだから、泣いてしまっても仕方がないよね」
季節は10月の暮れであった。夜顔は成長し続けていた。
2017.3.18