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少女が泣いていた。プラターヌはそのことにひどく驚いていた。
あまりにも衝撃的な事実に息を止めてしまった。あまりにも長い時間、酸素を貰えなくなった肺がキリキリと痛み始めるまで、プラターヌは呼吸を忘れていたのだった。
彼がそれ程までに驚いた理由は他でもない、今日というこの日に泣いているのは、いつもの、あの美しいハッフルパフの1年生ではなかったからである。

「……君、どうしたんだい」

「あはは、ごめんなさい。今はこんな顔しかできないんです。どうしても止まらないんです」

11年前、プラターヌがこのホグワーツに入学してきた時からずっと、このゴーストは少女のままの姿であった。
週に1回程度、顔を合わせて短い挨拶を交わすのみの関係であったが、それでもプラターヌはこのゴーストに思い入れがあった。
親友、などとゴーストを呼ぶつもりは更々なかったけれど、それでも、ささやかな友人としてこのゴーストのことは大切だった。

そんな彼女が泣いている。いつもの声音で笑いながら、困ったように首を傾げながら、それでもやはり、泣いている。
この11年間、一度も見たことがなかった彼女の涙は、まるで本物であるかのようにプラターヌの鼻先へと落ちてくる。ささやかな冷たさを感じて思わず瞬きをする。
けれどその涙は質量を持たず、すぐにふわりと霧のように消えてしまう。ゴーストの涙は、その姿に違わず儚いものであるのだと、彼は知る。

「尊敬していた人がいなくなったんです。私よりも長く、このホグワーツにいた人でした。とても優しい人でした。ずっと一緒でした」

……ああ、その「人」とはゴーストのことなのだと、プラターヌは容易に察することができた。
けれど生きている人間である彼が、ゴーストの別離に寄せる悲しみを完全に推し測ることなどできそうもなかった。
故にどんな慰めの言葉をかけていいか解らずに、やはりただ沈黙する他になかったのだ。

ホグワーツの「生きている人間」がいなくなった、なとどいうことがもし起きれば、大騒ぎになる。
当然、教師であるプラターヌにもその失踪事件は知らされるだろう。授業などしている場合ではない。探さなければならない。生きている人間は、いなくなってはいけない。
けれど「生きていない人間」がいなくなったところで、誰も気にも留めない。
死後の魂だけが生前の形を取り、彷徨い続けている。そちらの方が本当は「異常」であり、生きていない人間がいなくなることこそ、当然の「正常」なことであるからだ。
霊感のそこそこある人間でなければその存在を知覚することも叶わない、そんな「ゴースト」という存在は、何の前触れもなく突然現れて、何の前触れもなく突然、消える。
「命がない」とはそういうことだ。プラターヌはそのことをとてもよく解っていた。

死者には命がない。死者は命と同時に魂をも手放して然るべきだ。けれど魂を手放すことのできない死者というのも稀に存在する。
そうした魂を、このホグワーツという場所は寛容にも全て受け入れている。彼等は生前の姿を借りて、命のないまま、魂だけのまま、此処に在り続けている。

では、その魂を手放すことができるようになったとき、死者は何処へ行くのだろう?
とても、辛いところなのだろうか。苦しいところなのだろうか。だからこの無名のゴーストは泣いているのだろうか。彼女はそのゴーストの苦しみに心を寄せているのだろうか。

「悲しいのかい?」

けれどプラターヌのそうした問い掛けに、ゴーストはふるふると首を振った。
そうして顔を上げて、笑おうとして、けれどどうにもそれはいつもの笑顔ではないのだった。

「いいえ、悲しむべきことではないんです。喜ぶべきことです。嬉しいんです。でも、寂しいんです」

「……」

「大丈夫ですよ、今だけですから。泣きたいと思うのは今だけです。明日、いいえ明後日、……ううん、もう1週間もすれば、このどうしようもない水も止まります。
命とはそういうものです。辛いことも幸せなことも、忘れるように出来ているんです。あの人はそうした業の深いところに、当然のところに戻っただけなんです」

命というものを持っていない筈のゴーストのそうした言葉を、やはりプラターヌは理解できそうにない。彼女の言っていることが、彼にはまだよく解らない。
プラターヌにはゴーストと人間の区別があまりついていない。人間には命がある。ゴーストには命がない。それだけの違いしか彼はまだ知らない。
ゴーストについてあれこれと探ろう、などと考えるには、その存在はあまりにもプラターヌの近くに在り過ぎていた。
常に吸い込んでいる空気を疑問に思わないのと同じように、彼等が此処に在ることの意味について考えたことなど、一度もなかった。

そして、この11年来の友人に、半透明の友人に、その議題を提示されたところで、今のプラターヌにはどうしようもなかったのだ。
何故なら彼は「生きている人」を理解することに手いっぱいであったからである。彼は生きている人間であり、生きていない状態を我が事として認められずにいたからである。
故に「ごめんね」と、いつものようにそう謝るしかなかったのだ。それが彼の限界であったのだ。
少女はそんな彼の謝罪をいつもの笑顔で受け止めて、ビブラートのかけられた「大丈夫ですよ」を心地よいメゾソプラノで歌った。半透明の涙はまだ、凍えるように降っていた。

「人と関わるということは、なんだかボクにはとても恐ろしいことのように思えてしまうんだ」

そうした夜にも彼は禁じられた森に向かう。不甲斐ない自分を懺悔するかのように、夜顔という教会へと赴くのだ。
静かな「壁」は、泣き虫な「神様」は、そうしたプラターヌの懺悔をただ黙して聞いている。
相槌の代わりにぽろぽろと滑り落ちる涙を、今日も無数の白い月が引き取って煌めいている。

「ボクの担当は飼育学だという話は前にしたよね。ポケモンを相手にしている時は緊張したりなんかしないのだけれど、やっぱり相手が人になってしまうといけないね」

「……言葉があるからですか?」

足元の夜顔に落としていた視線を、プラターヌは思わず少女の方へと移した。彼はただ純粋に驚いていた。
この少女がプラターヌの「懺悔」の合間に言葉を紡いだことは、これまで一度もなかったからだ。
彼女はこれまでずっと、プラターヌの懺悔を黙して聞いていた。それは今日も変わらない筈であった。
けれど、変わらない筈のものが今、こうして変わっている。故にプラターヌが驚いたのも当然のことであった。
言葉を紡ぐという正常なことは、けれど異常な彼女にとっては悉く異常なことだった。

「……そうだね、それもあるけれど、人はポケモンのように優しくはないだろう?」

「でも人は、ポケモンのように残酷でもありませんよ」

そして、彼女の続けた言葉は更にプラターヌを驚かせた。
人はポケモンよりも「残酷でない」……これが、誰よりも人を恐れていた少女の言葉なのだ。
人が怖いと、そう言ってこのような森へと毎日のように逃げ出してきている彼女が、けれどその人のことを「ポケモンよりも残酷でない」としているのだ。
まるで勇敢な戦士のような、まるで幾つもの戦いを乗り越えてきたかのような表情で、覚悟を決めたように、諦めたように、その残忍さを許すように、彼女は告げて、やはり泣いた。

けれどその口からいつもの「ごめんなさい」は零れ出なかった。

この少女にはそうした強情なところがあるのだと、プラターヌはこの日、初めて知った。

彼女は確かに臆病で、怖がりで、泣き虫であった。けれどそれは、彼女の心が弱く控え目であることを示すものでは決してなかったのだ。
寧ろ彼女の矜持は、プライドは、大きく膨れ上がっていた。
彼女は自尊心というものを欠片も持ち合わせていない。彼女は自らを肯定すべき武器を何も持っていない。
にもかかわらず彼女は自らの意見を、自らの目に映るものを、そのまま彼女の真実とすることがとても得意であったのだ。それ、を譲ることなくずっと持っていたのだ。

彼女は己の価値観をみすみす誰かに譲り渡したりなどしない。彼女は彼女の価値を彼女自身で定めている。
その「定め」があまりにも低いところにあるからこそ、彼女は臆病を極めている。彼女の首は彼女自身の強情によって絞められている。

その惨い事実に彼女が気付いているのかどうか、定かではない。
けれどその臆病を「間違っている」とプラターヌが説いたところで、きっとこの少女は聞きやしないのだろう。
彼女は泣きながら、それでもきっとプラターヌの言葉を拒むのだ。「貴方のそれは私の価値観に馴染まない」と、きっと泣きながら撥ね退けてしまうのだ。
今までずっと、彼は少女の恐怖を、少女は彼の懺悔を、それぞれ黙して肯定していたから、その惨い事実に気付かなかったのだ。気付くのに1か月もかかってしまった。

「君はポケモンが嫌いなのかい?」

「プラターヌ先生は、人が嫌い?」

プラターヌの鼻先が凍えた気がした。
ああ、ほら、あの無名のゴーストが落とした涙の意味など、理解できる筈がなかったのだ。
だって彼は生きているこの少女のことさえも、満足に紐解くことが叶わない。生きている彼女の真意さえ分からない。

「君はたまに、とても恐ろしいことを言うね」

ようやく「ごめんなさい」と、いつもの言葉を紡いでぽろぽろと泣き出した少女は、けれどもう、ただのか弱い1年生ではなくなってしまっていた。
プラターヌがそうであったように、彼女もまた、ただ優しいだけの人間ではなかったのだろう。そういう意味でもこの二人は悉く似ていたのだった。

「私も怖い?」

息を飲むプラターヌの隣から聞こえた彼女らしからぬその音が、けれど幻聴であるとは到底思えなかった。
夜顔は彼女の涙を受け止めすぎて、いつの間にか破れていた。


2017.3.18

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