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「誰かいるのかい?」

プラターヌは思わずそう尋ねていた。疑問の形をした彼の声音は森の奥へと吸い込まれ、木霊することもなく重たい風の音に掻き消されて、消えてしまった。
この森に棲む悪戯好きのポケモンが、女性の泣き真似を呼び声として、森の奥へと人を迷い込ませようとしているのかもしれない。
そうした推測ができないほど、プラターヌは愚かな教師ではなかった。けれど「きっと野生ポケモンの悪戯だ」と片付けるには、その音はあまりにもか弱いものであった。

少しだけ、少しだけ進んで、見つからなければ戻って来よう。
そう言い聞かせつつ、腹を括った彼は森への一歩を踏み出した。けれど進むまでもないことだった。
呼び掛けに答えなかったその声の主は、けれどプラターヌが足元の枝を踏んだ、その「パキッ」という音に驚き、引きつった悲鳴をすぐ傍で上げたからである。
その声の主は、人の言葉を操るその生き物は、やはりプラターヌの恐れた「人」であったからである。

ガサリ、と倒れた巨木の影から誰かが立ち上がった。ローブをその身に纏い、フードまで被ったその人物の顔を、プラターヌは見ることができなかった。
けれど見えずとも、確信できる事実が一つだけあった。

「この森を逃げ場として選んだ人間は、プラターヌだけではなかった」という事実である。

身体を、顔を覆い隠したその女性は、プラターヌの足音と姿を認めるや否や、くるりと踵を返して森の奥へと駆け出してしまった。
瞬間、プラターヌは自分が教師であることも、出会う人全てに悪意を見ていたことも、この少女が「校則違反」をしているのだということも、何もかもを忘れて、彼女を追った。
此処は「禁じれらた森」であり、禁じられなければならない理由を多分に有する場所だ。
パニック状態で奥へと突っ走ることがどれだけ危険なことであるか、プラターヌは十分に理解していた。
故にどうしても、何としてでも彼女を止めなければならなかったのだ。

「待ってくれ!」

プラターヌは運動神経が良い訳ではなかったが、それでも大の大人であり、少女の歩幅が彼のそれに敵う筈もなかった。
故にすぐさま追いついて彼女の肩らしき部分を掴もうとしたのだが、彼女は思いもよらぬ行動に出た。
ローブから腕をすっと引き抜き、まるでトランセルが進化をするときのように、するりとローブをプラターヌの手に預け、抜け出したのだ。
黒いローブは不要となった殻のように、ただ軽く虚しい質量をプラターヌの手にかけるばかりであった。
そうしてローブという黒いサナギから抜け出した「蝶」は、羽のように長いストロベリーブロンドを夕日に広げて、プラターヌの方を振り向いた。

「……」

ハッフルパフの黄色いネクタイを緩く締めていた。少し短いスカートの中から、細い脚が頼りなげに伸びていた。
すっと伸びた高い鼻の下、薄い唇はかたく引き結ばれていた。大きなライトグレーの瞳はゆらゆらと泉のように揺れていて、そこからひっきりなしに涙が零れていた。
ぽろぽろ、ぽろぽろ。まるで楽器を奏でるように、白い頬を涙が伝った。少し尖った顎の先から滴り落ちたそれは、彼女の足元に生えるツル科の植物の蕾に落ちて、弾けた。
彼女の細い腕に抱かれているポケモンは、彼女の恐怖に共鳴するかのように、その赤いツノを強く輝かせていた。
それがラルトスであるのだと、プラターヌはこの暗がりの中でも察することができた。

新入生だ、とすぐに解った。手にしたローブはまだ、購入した直後に見られる特徴的なしわを残していたからだ。
加えてプラターヌはこの少女を、ホグワーツの廊下で幾度か見たことがあった。
ラルトスを抱きかかえて不安そうに廊下の隅を歩く彼女と会話をしたことはない。勿論、彼女も飼育学の教師であるプラターヌのことなど知らない筈だ。
にもかかわらず、プラターヌは廊下ですれ違っただけのこの少女のことを覚えていた。拙い言い方になってしまうが、それ程までに印象的な少女だったのだ。

少女はあまりにも美しかった。その髪といい、目といい、肩といい、指といい、世の少女が羨んで然るべき全てを有しているようにさえ思われた。
にもかかわらず彼女の自尊心というものは、これ以上ないというくらいに奥底のところを、這うように泳いでいるのだった。
自らの有しているものと、自らへの評価が、あまりにもかけ離れたところにありすぎていた。

「ごめんなさい」

あまりにも美しい声音で発せされた「それ」は果たして、何に対しての謝罪であったのだろう。プラターヌにはよく、解らなかった。
教師である自分から逃げたことに対する謝罪なのか、校則に違反したことに対する謝罪なのか、涙を止められないことに対する謝罪なのか、あるいはその、全てなのか。
仮にその全てに対する謝罪であったとして、もしくはそのどれかに対する謝罪であったとして、ではプラターヌはどうすればよかったのだろう?
ハッフルパフの寮点を減らせばよかったのか、この少女を叱ればよかったのか、何も言わずに彼女の腕を取って、森の外へと案内すればよかったのか。
解らなかった。どれが最善であるのかを見極められるだけの経験を彼は積んでいなかった。彼は新任教師であり、しかも飼育学は3年生からある授業だ。新入生と関わる機会など皆無に等しかった。

「……ローブを、渡してもいいかな」

「あ、えっと、」

「大丈夫だよ」

何が大丈夫なのだろう。その大丈夫、で少女の何を安心させようとしているのだろう。
訳が分からぬままにプラターヌは言葉を紡ぎ、一歩を踏み出した。彼女はラルトスを強く抱きかかえこそしたが、けれどもう、彼に背を向けて駆け出すことはしなかった。
手を伸ばせばこの少女の肩に触れられるというところまで来た彼は、腕の中のローブを軽く畳み直そうとして、襟に施された金の刺繍に目が留まった。

シェリーというんだね」

はっと少女は息を飲んだ。そうしてきょろきょろと辺りを見渡すかのような素振りを見せて、長すぎる沈黙を置いてからそっと、頷いた。
勿論その間にも彼女の目からはひっきりなしに涙が零れ続けていて、さてこれはどうしたことだろう、とプラターヌは考え込まざるを得なかった。
そっとローブを差し出せば、彼女はさっとそれを受け取り、再び頭からすっぽりと被ってしまった。
彼女は再びサナギの中へとその長い羽を仕舞い、飛び方を忘れたかのように、やはり泣くのだ。

「君も、人が怖い?」

弾かれたように少女はプラターヌを見上げた。ライトグレーの瞳は一瞬、たった一瞬、涙を流すことを忘れていた。
肯定の返事の代わりに、少女は「ごめんなさい」と再び紡いだ。
プラターヌは思わず苦笑した。彼女の謝罪はまるで挨拶のようであった。けれど挨拶などというものよりもずっと重たく、苦しいものであった。
少なくとも、プラターヌはこれほどまでに強い懇願の形を取る「ごめんなさい」を、聞いたことがなかった。

「ボクも、一人になりたくて此処へ来たんだ。ホグワーツはあまりにも人が多すぎるからね。だから君がこの場所を選んでしまった理由も、なんとなく解るんだ」

「……」

「これ以上、森の奥に入らないと約束できるなら、君のことは秘密にしていよう。……守れるかい?」

それは教師としてあるまじき行為であることを、プラターヌはしっかりと心得ていた。許していいことと許してはいけないことの区別がつかない程、彼は愚かな人間ではなかった。
けれどそれが一体何だというのだろう?そのような分別が一体、何の役に立つというのだろう?
教師としての姿に則りこの森から彼女を追い出して、……その後は?彼女は他に何処へ行くことが許されるというのだろう?
何処にも行けない。此処しかない。その心地にプラターヌは共鳴してしまった。それが全てであったのだ。

プラターヌは倒れた巨木に腰を下ろした。白衣を纏った白い背中に夕日が差しつけていた。
この薄暗い森に似つかわしくない温かさが彼の背中には宿っていて、思わず笑ってしまった。

「寒くないかい?此処なら陽が入ってくるから、少しマシだと思うよ」

その笑顔のままに少女を手招けば、彼女はあまりにも長い沈黙の後で彼の言葉に従った。
1m程の空間を開けて、彼女は巨木の影に座り込む。まるで夕日から隠れるようなその行動にプラターヌは苦笑した。
それでは温かくなどなりようがないよと、しかし告げることはしなかった。
彼女が腰を落としたその場所は、まるで彼女の訪れをずっと前から待っていたかのように、草も苔も、何も存在していなかったからである。
夕日の当たる温かい場所よりも、日から逃れる冷たい場所を彼女は好んでいるのだということが、彼にも解ってしまったからである。

もしかしたら彼女は、入学してきた直後からずっと「こう」であったのかもしれなかった。
誰にも気付かれなかっただけで、この森のこの巨木の影というのはずっと、彼女のための場所であったのかもしれなかった。

「ボクはプラターヌ。飼育学を教えているんだ。……聞き慣れない科目だろう?飼育学は3年生からある授業だから、君に教室で会えるのは2年後になってしまうね」

「……」

「ボクも教師になって一年目なんだ。君と同じだね」

そう告げれば少女は初めて、困ったような照れたような、ささやかな微笑みを浮かべた。
それでもやはり目は涙に揺れていて、いつか彼女の目は息ができなくなって潰れてしまうのではないかと、人の悪意に毒され過ぎたプラターヌはそんなよからぬ想像をした。

「ねえシェリー、ボクも此処に来ていいだろうか?」

彼女は顔を上げ、頷こうとしたのだろう。けれどその細い首は動かされなかった。何故なら彼女の目はプラターヌの足元に釘付けになっていたからだ。
プラターヌも自らの足元に視線を落として、思わず「あっ」と声を上げた。

先程、彼女のローブを奪い取った場所に生えていたツル科の植物が「其処」にも生えており、その白い蕾はいつの間にか開いていた。
満月のように丸く眩しく咲き誇るその花もまた、この森のポケモン達に違わず「夜行性」であるらしい。


2017.3.17

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