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防衛術を担当している教師、フラダリは、プラターヌの同期であった。
学生時代はグリフィンドールの監督生を立派に務めており、またホグワーツ卒業時には主席という華々しい栄光まで手にしていた。

普通、新任教師がいきなり防衛術の教師を担当したりはしない。
防衛術を専攻するホグワーツ院生は、呪文学や変身術の授業を行いながら、防衛術の教師に師事し、1年か2年の研修期間を経て、ようやく防衛術の教師を名乗ることが許される。
そうした流れが常であったのだが、フラダリの場合、その「一足飛びに防衛術の教師になること」が許されていた。それ程に彼は勤勉で実直で、素晴らしい人間であったのだ。

グリフィンドール生とハッフルパフ生の仲は悪くない。故にプラターヌとフラダリが共にいたところで、それを訝しむ人間は誰もいなかった。
フラダリにこそ及ばなかったがプラターヌとて優秀な生徒であったから、彼の隣に立つ人間として、プラターヌは不適切である、などと口にする人間も出てこなかった。
グリフィンドールとハッフルパフ、防衛術と飼育学。異なる部分の方が多かった二人は、けれど互いをよき友として認めていた。彼等を見た誰もがそのように考えていた。
二人は互いに己を高め合える素晴らしい戦友なのだと、そうした対等な関係であるのだと、プラターヌ以外の誰しもが、本当にそう思っていたのだった。

「レイブンクローの生徒から話は聞いているよ、入りなさい」

防衛術の準備室には、今はフラダリしかいない状態であった。おそらくベテランの教師が、上級生の授業を行っているところなのだろう。
フラダリとて、新任教師として多忙な日々を送っていることに変わりなく、故に授業が入っていないからといってのんびりと腰を落ち着けて休憩するなどという暇はない筈であった。
けれども彼はそうした多忙を何食わぬ顔で隠し、プラターヌを準備室へと招き入れる。

学生時代、その「堅物」具合から同寮の生徒に煙たがられることも少なくなかったフラダリだが、その一番の理解者はいつだってプラターヌであった。
彼はフラダリの理想に強く共鳴していた。けれどその高潔な理想が必ずしも叶うものでないことを心得ていた。
その上で、そうした理想を手放すことなくたゆまぬ努力を続ける彼をプラターヌは高く評価していた。
フラダリの堂々とした姿勢は、態度は、言動は、この理解者の温かい言葉によって確固たるものとなっていた。そしてきっと、それは今でも続いている。

そういう訳で、教師としての立ち位置に苦しんでいるプラターヌの姿を、彼の友人たるフラダリが痛ましく思っていない筈がなかったのだ。
故に彼はプラターヌへの誠意を、時間を、言葉を、惜しまないつもりであった。そうした気概でフラダリは彼を待っていたのだ。

「……ああ、さっきの子は君のところにも来ていたんだね。名前は何ていうんだい?」

「いや、わたしも知らない。1年や2年の授業では見たことがなかったので、3年生かと考えていたのだが、君も知らないのであれば4年生より上の生徒であるのかもしれないな」

おや、とプラターヌは少しだけ怪訝に思った。
自身を射るように見上げた彼女の背は低く、4年生以上であるようにはとても思えなかったからだ。
けれどそれ以上、あの見知らぬ生徒に思いを馳せ続けることはできなかった。それだけの気力はもう彼にはなかった。
プラターヌは勧められた椅子に腰掛け、肺の中のものを全て押し出すように、細く長く息を吐いた。
そんな彼の様子を心配そうに見ながら、フラダリはコーヒーを彼の前のテーブルに置いた。

「あまり自分を責めてはいけない。気負いすぎるのも君のよくない癖だ。自分をよく見せようと思わない方が案外、上手くいくものだよ」

「……よくないボクのままで壇上に立つことが、子供達のためになるとはとても思えない」

……解りきったことではあるのだが、フラダリに悪意などというものは全くない。
この意気消沈した友人の気概を何とか奮い立たせようとして、けれど決して緊張しすぎてほしくなくて、告げた言葉であった。

けれど今のプラターヌはその言葉を、「悪意」としか受け取れない。彼は人の姿に、言葉に、振る舞いに、悪意を見ることがここ1か月の間にとても、とても得意になっていたのだ。
今、彼がコーヒーを差し出したのだって「油を売っている暇があったら、さっさとそれを飲んで職務に戻ったらどうだ」という、咎めの文句にしか思われなかったのだった。

「初めから完璧な人間など誰一人として存在しない。そうしたことを示すのも教師の重要な役目であると、わたしは考えている」

……君がそれを言うのか、とプラターヌは思い、吐き捨てるように笑った。コーヒーの黒い泥が、彼の吐いた嘲笑の息によってゆらゆらと波を立てた。
ああまったく、この男は何を言っているのだろう?誰よりも立派で誰よりも優秀な、いつだって完璧だったこの男が、完璧でないことの尊さを説いたところで誰の何にも届かない。
少なくともプラターヌには、届きようがない。

「すまない。ボクには君の言っていることが全く解らない。君にも、きっとボクがどれほど惨めな気持ちでいるか、解らない筈だ!」

フラダリは愕然とした表情で、その淡い青の目を見開いた。赤を好む彼の中に唯一潜んでいるその異色の色を、しかしプラターヌは「綺麗な色だね」と褒めたことがあった。
彼はそうした意味でも正しく友人であった。自らの好ましく思わないものまで大事に拾い上げてくれる、この心優しき友人のことを彼は大切に思っていた。

プラターヌがフラダリを理解していたのと同じように、彼もまたプラターヌを理解していたのだ。
故にプラターヌが、ずっと彼の理解者で在り続けながら、その実フラダリに対して、決して小さくはない劣等感を抱き続けていたことだって解っている。
どこまでもフラダリをよく評価しながら、それでも「ボクと君は違う」という心地を、プラターヌはこれまで一度も手放さなかった。今も、そうであるのだ。

繰り返すがプラターヌはフラダリの理解者であった。故に彼の指摘は正鵠を射ていた。
常に成功者としての道を歩み続けていた彼が、挫折による焦燥、絶望、屈辱を理解できる筈がなかった。それをフラダリも心得ていた。それでも、支えたかったのだ。
けれど「悪意」に飲まれたプラターヌはそれを拒んだ。何も解っていない癖に手を伸べてくれるなと、フラダリの厚意を突き放した。
ならば今は口を閉ざすほかにないのだ。フラダリはしっかりと解っていた。解っていながら、それでもどうにも心苦しかったのだ。拳を握り締めずにはいられなかったのだ。

「お互い、少し頭を冷やした方がよさそうだ」

絞り出したようなその言葉に、プラターヌははっと顔を上げた。
「ごめん、」と消え入りそうな声音で泣き出しそうに発せられたそれを、フラダリは困ったように笑って許した。
解っている。プラターヌにもまた悪意など存在しないのだ。そして彼よりもずっと平静を保っているフラダリは、彼の暴言に悪意を見ることなど決してしない。

今はそうした時期なのだ。フラダリもプラターヌも人間であるのだから、何もかもを変えることなどできやしない。
変えられないものに飲まれたなら、待たなければならない。
その変えられない流れがプラターヌを少しでもいい場所へ押し流してくれるようにと、フラダリは願うことしかできない。そして、それでいい。

人が人以上の力を振るうなどという喜劇は、歴史書の中だけで十分だ。他の誰でもないフラダリが、そう考えていたのだった。

「だがこれだけは覚えておいてくれ。誰も君のことを滑稽だとは思っていないし、それどころかわたしは君のことを誇りに思っている。今までも、これからも」

プラターヌはもう一度「悪かった」と、今度ははっきりと謝罪の言葉を紡いで、防衛術の準備室を出ていく。彼の弱々しい背中を、フラダリと1杯のコーヒーが見送る。
丁度、授業が終わったのだろう。隣の教室から防衛術の授業を終えたと思しきスリザリンの4年生が飛び出してきた。
時刻は5時を回った頃であり、放課後の時間をどのように過ごそうかと皆が浮足立っていた。
プラターヌはその賑やかな流れに飲まれないようにと、ホグワーツの校舎の外に出て、だだっ広い芝生に足を下ろす。
悪意を飲み込み過ぎた彼の息は細く長く重く、9月の空気に放たれて、ゆっくりと溶けていく。

ボクはおかしくなったのだ。

そうした自覚が彼にはあった。解っていながら、しかしどうすることもできなかった。
傷付いた右足を庇って歩く術を彼は心得ていたが、傷付いた心を傷付かないように庇うにはどうすればいいのか、全く知らなかったからだ。
もっとも、そんな術などありはしないのだから、彼の周りの人間にも、彼自身にも、非は全くなかったのだけれど。誰も、何も悪くなかったのだけれど。

誰もいないところへ行きたい。一人になりたい。
鬱屈とした想いを身体に纏わせて歩くには、このホグワーツという場所にはあまりにも人が多すぎる。

彼の足は自然と、ある場所へと向かった。教師と限られた院生だけが立ち入ることを許されている、昼間でも薄暗い、不気味な森だ。
生徒の立ち入りは禁じられているし、許可を得た院生や教師がこの森を訪れたとして、その時間帯も早朝から正午にかけての頃であるのが常であった。
この森に生息する凶暴な野生ポケモン、その多くが夜行性であり、それ故に夜の森はあまりにも危険であることを、教師や院生は十分に心得ているのだ。
日が傾き始めている頃に森へと足を踏み入れれば、用事を済ませる頃には夜になってしまう。
そのため夜行性の植物やポケモンに用のない限り、彼等がこの時間帯に森を訪れることはまず、ない。

だからこそ、プラターヌはそこへ行かなければならなかった。
その禁じられた森以外に、一人になれる場所など思いつく筈もなかったのだ。

見えない何かに招かれているかのように、彼は薄暗い森へと歩みを進めた。彼の呼吸は森へと近付く度に少しずつ、楽になった。
今の彼には「滑稽」という値札は付いていなかった。森へと歩みを進める彼を見ている者など誰一人としていなかったのだから、当然のことだった。
そうして森の入り口に立てば、鉛のように重たい風が、ずんと鈍い音でプラターヌの白衣を巻き上げた。森はプラターヌを褒めることも、貶すこともしなかった。

けれどその、果ての見えない深い場所が飲み込もうとしていたのは、どうやら彼だけではなかったらしい。
もう少し奥へ、と踏み出しかけた足をプラターヌは宙で不自然に凍り付かせた。女性の嗚咽らしきものが聞こえたからだ。


2017.3.17

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