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誰も、何も悪くなかった。にもかかわらずプラターヌの心は徐々に殺がれていった。
誰を犯人に仕立て上げていいのか解らず、彼は疲れていった。

「プラターヌ先生の授業は座っているだけでいいから、楽だなあ」

事の発端があるとするならば、それはこの、とある学生の何気ない言葉であったのだろう。
その生徒にとっては本当に何気なく発された言葉であり、当人はそんなことを口にしたことを、もうすっかり忘れてしまっているのかもしれなかった。
けれど彼は覚えていた。言葉というのは得てしてそういうものだと、解っていたからこそどうにも苦しかった。遣る瀬無かった。
授業中に、食事中に、誰かと会話をしている最中に、その文句はふっと彼の中に降りてきて、彼の矜持を、自尊心を、じりじりと焼き焦がすのだった。

飼育学は3年生になって初めて登場する科目だ。
ホグワーツの生徒はいずれも入学の1か月前にポケモンのタマゴを渡され、そのタマゴを孵して自らのパートナーとする。
それから2年間は別のポケモンを連れることは許されていないのだが、3年生になるとその制限が解かれる。モンスターボールを購入することが許されるのも、3年生になってからだ。

故に3年生は、1年生とはまた別の意味で初々しく、良い意味でぎこちない。
任意に連れ歩くポケモンを選べること、強いポケモンを探してホグワーツの外へと出かけること、そうした新しい何もかもが彼等の心を浮き立たせる。
それ故の事件や事故も、当然のように増える。
飼育学は、そうした彼等が「どのようにポケモンと関わればいいのか」を教えるために設けられた授業であり、
彼等が倫理と実力とを兼ね備えたポケモントレーナーとして成長するために、欠かせない学問であった。……そのようにプラターヌは自負していた。

この学問を志そうと決めたとき、彼には確かに誇りがあった。飼育学を専門に志す者としての、確かな誇りだ。
その誇りという宝石は、ホグワーツの院生として探究を続ける中で確実に磨かれ、輝きを増していた。
輝きが曇ることもない訳ではなかったが、決してその宝石は砕けなかった。その砕けぬ宝石こそが彼の背筋を伸ばしていた。教壇に立つその時まで、確かにそうだったのだ。

けれどいざ、彼が教壇に立ったとき、彼を見上げる生徒の大半は気怠そうな、熱意のない表情をしていた。彼等の目には輝きがなかったのだ。
……もっともその理由を、推し量れない訳では決してなかった。
「飼育学」という学問の立場と、「新任教師」という彼自身の立場とが、それぞれ、悪い方向に作用したが故の結果であったのだと、彼とて十分に解っていたのだ。

3年生にもなって新しく加わる科目は飼育学だけではない。また、2年生から継続して行われる授業も難易度を上げ、彼等に要求される魔法の知識や技術は当然のように増える。
彼等は「そちら」に手いっぱいで、正直なところ、生き物の生態やポケモントレーナーの倫理性のことを詳しく勉強している余裕など、まるでないのだ。
プラターヌとて学生だった時期を経ているから、彼等の慌ただしい心地というものはよく解っていた。彼とて、3年生の置かれている現状に理解がない訳では決してなかった。
けれど自らが魅入られてしまった学問が、大半の生徒に「軽んじられている」というこの事実は、想定していた以上に彼の心を抉った。
それ程に彼はこの学問に誇りを持っていた。その誇りという宝石こそが彼の背筋を伸ばしていた。彼を彼たらしめていたのだ。

所詮、飼育学なんかこの程度。
彼等は一言もそのようなことを口にしていない。そのような侮蔑の言葉を堂々と吐ける程、3年生というものは肝が据わっている訳ではない。
けれど授業中に居眠りをしたり欠伸をしたりするその態度が、授業中に別の教科書を開いて別のレポートを仕上げるために机へと貼り付いているその姿勢が、
あまりにも雄弁に「お前の授業は集中して聴く価値のないものだ」ということを、語っているように思われたのだ。
少なくとも、プラターヌにはそう思われてしまった。彼等の非言語的な侮蔑は、彼の心にはどうにも重すぎた。

自らの、新任教師であるが故の、ぎこちない語り、至らない授業が、彼等を益々退屈足らしめていることも彼にはとてもよく解っていた。
故に彼は「飼育学の価値」と「新任教師の実力」という二つの課題を抱え、愕然とし、戦慄し、……けれど自らの全てを注ぐかのように、3年生の授業をあまりにも熱心にこなした。
彼はそうした誠実な人間だった。その誠意が彼等に届くことを心から祈っていた。そう信じることこそが、彼を教壇に立たしめていたのだ。

『プラターヌ先生の授業は座っているだけでいいから、楽だなあ。』

そんな矢先の「言葉」であった。彼が初めて受けた、言語的な侮蔑であった。
教師になって1年目、最初の月。9月の下旬。まだ心を折るには早すぎる時期だった。けれど、折れてしまった。それはひとえに彼の元来の気質に由来するものだった。
彼はその実、とても臆病な人間だったのであった。

「海と川の違いは、海水か淡水か、ということだけではないんだ。海水と淡水とでは、水の温度も水流の速度も、水に溶けているミネラルの組成だって異なっているんだよ。
だから海に面していないホグワーツの中で、海水を好むポケモンを育てるためには、少し大掛かりな施設が必要になる。
水ポケモンを連れている子なら、既に見たことがあるかもしれないね」

例えば授業中、そこまで紡いで振り返る。生徒の顔を見る。
眠そうにしている生徒、こちらを見ることなく呪文学の教科書を開いている生徒、ペンを構えて真剣に聞いている生徒、笑顔で相槌を打っている生徒……。
そうした全ての存在に「悪意」を見出すことが、彼はいっとう得意になっていた。どういう訳だか分からないが、いつの間にか、そうなっていたのだった。
殺がれた矜持と元来の臆病が、そうした彼の悪癖を加速させた。止まりようがなかった。

欠伸をする男の子からは「お前の授業など退屈で聞いていられない」という悪意が聞こえた。
呪文学の教科書を開いている男の子からは「飼育学なんかよりもずっと大事な授業があるんだ、お前の話なんか後回しだよ」という悪意が聞こえた。
真剣に聞いている男の子からは「次に下らないことを言ったら教室を出て行きますからね」という悪意が聞こえた。
笑顔で相槌を打っている最前列の、ブロンドの女の子からは「こんな当たり前のことばかり教えなきゃいけないなんて、飼育学の先生は大変だなあ」という悪意が聞こえた。

悪意、悪意、悪意……。
彼等の態度が、表情が、本当に悪意であったのか、その全てを知ることの叶う人間など誰もいない。
そして仮にその全てが悪意だったとして、あるいはその全てに悪意などというものが微塵もなかったとして、そんなことは、このプラターヌには何の関係もない。
少なくとも彼にとっては、彼等の態度は、視線は、笑顔は、紛うことなき悪意であった。
彼自身によって生み出されたその悪意は、彼自身の理性をも裏切って暴走し始めていた、もう、どうすることもできなくなっていた。

「……先生、どうしたんですか?」

最前列に座っていた、ブロンドの女の子がそう尋ねた。
彼等のそうした、音にならない声を聞くことに夢中になり過ぎて、彼は自分があまりにも長く声を発さずにいたことに気が付かなかったのだ。
その女生徒は、どう見てもこちらを心配している表情であった筈なのに、それさえも今の彼には恐ろしかった。怖かったのだ。

君も、ボクの姿を滑稽だと思っているのだろう?

そうしたことを、けれどプラターヌは尋ねることさえできなかった。彼はもう、喉を震わせることさえ恐ろしくなり始めていたからである。
自習を言い渡すことさえできず、此処から立ち去る手段を失い、彼は狼狽えた。教室がざわめき始めた、その瞬間だった。

「先生!すぐに来てください。フラダリ先生が貴方の手を借りたいそうです」

バン、と教室の扉が勢いよく開かれ、ずかずかと大きな歩幅で、目つきの鋭く背の低い女子生徒が入ってきた。
墨のような色をしたワンレンボブは鋭く前下がりに切り揃えられ、彼女がぐいとプラターヌを見上げれば、その髪はまるで上質なカーテンのようにさらりと揺れた。

プラターヌはこの少女に見覚えがなかった。彼女はおそらく2年生か1年生なのだろう。
つまり彼女もまた、プラターヌのことも、この授業がどんなに退屈なものであるのかも知らない、ということになる。
「自分の授業の価値を知らない人間」が来てくれたという事実は、殊の外プラターヌを安心させていた。
大きく頷き、教室の生徒に自習を告げる。今度はしっかりと声が出てきた。その小さな生徒の背中を追いかけて、ドアを閉めた。

その途端、くるりと彼女は振り向いて、にっと得意気に笑ってから挑発的に彼を見上げた。背の低さを忘れさせる程に、彼女の笑みは大人びており、また美しかった。
その首元、緩く締められたネクタイはレイブンクローの青色をしていた。

「センセイ、気を張り過ぎよ。あんたの怖がりは生徒にも伝わるわ。あまり下手に出ているとなめられちゃうわよ?」

と、まるで幼い子供をからかうかのような声音が発されて、彼は面食らわずにはいられなかった。

「フラダリに時間を作るよう言っておいたから、少しあいつと話をしてきなさい。あんたの友人なんでしょう?」

ほら、と少女はプラターヌの背中を強く押した。あまりに強い力だったので、彼は前のめりになりながら2歩、3歩と進むこととなった。
慌てて振り返ればもう、彼女はいない。このホグワーツではそうしたことがたまにあるのだと、解っていたからプラターヌはもうそうした魔法の世界に驚いたりしない。
もっとも、それ以前の問題として、驚くことなどできる筈がなかったのだ。その奇怪な現象を訝しむだけの余裕はとうに失われていた。
そうしたことさえできない程に、彼は疲れ果てていたのだ。


2017.3.17

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