夕食の席に置いてある、コース料理のメニューが書かれた紙を、私は毎日のように持ち帰っていた。
彼はこの紙切れがただのガラクタにしか見えないらしく、「そんなものを持ち帰ってどうする気だ」と呆れたように言っていたけれど、私にとってこの紙は宝物だった。
村で暮らしていた頃には名前すら聞いたことのない料理や、本で読んだことしかなかったようなデザートが、この紙の上には書かれている。
本から知識を得ることのできない今の暮らしにおいて、この小さな紙が唯一の情報源だったのだ。
そして夕食の後で、それらを「日記帳」に纏めるのだ。
この料理はどんな食材が使われていて、どんな風な味がしたか、といったことを、逐一、忘れないうちに書き留めていく。
ペン先が紙の上を踊る、サラサラという音がとても心地いい。
「あんた、どうせ書くなら明日の明るい時に書きなさいよ。燭台の火だけじゃ、手元を照らすには足りないでしょ?」
「でも、今書いておかないと忘れてしまいそうだから」
トウコさんの言葉にそう返せば、彼女はテーブルの方へと歩いて来て、私の日記帳をそっと覗き込んだ。
この日記帳は、私がこのお城で暮らすようになって直ぐの頃に、外套掛けのダークさんに用意してもらったものだ。
「何か、紙と書くものが欲しいんです」と告げた私に、彼は1時間と経たない内に、立派な日記帳とペンを持ってきてくれた。
ペンといえば羽ペンくらいしか知らなかった私にとって、彼が用意してくれた「万年筆」というお洒落なペンはとても珍しいものだった。
その書き心地が抜群だったため、日記を書くこと自体がとても楽しくなった。私は暇さえあればその日記帳を開き、今日あったことを書き留めるようになっていたのだ。
「綺麗な字ね」
「ふふ、ありがとう。そんなことを言われたのは初めてよ」
私はこれまで書いてきた日記のページをパラパラと捲った。
最初の方こそ、いきなりこの広いお城に閉じ込められたことへの絶望と、彼への憎悪や憤りが濃い筆圧で殴るように書き記されていたけれど、
ここで暮らし始めて半月ほどが経とうとしている今では、怒りに任せてペンを取るようなことはなくなっていた。
彼への憤りが影を潜めるにつれて、日記帳にはそれ以外のあらゆる感情がインクに滲むようになっていた。そうした感情の軌跡を読み返すこともまた、楽しかった。
これまでの生活で、少しずつ、変わっていったものがある。
先ず、彼と話ができるようになった。怒りに任せて怒鳴りつけたり、癇癪を起こしたりするのではなく、ただ冷静に、穏やかに、彼と言葉を交わすようになっていた。
彼の皮肉めいた言葉遣いは相変わらずだったけれど、それは彼が持つ癖のようなものであり、彼の気難しい性格を反映しているに過ぎないのだと思えるようになった。
そして、彼は夕食の時だけでなく、昼間もたまに城の中を歩くようになっていた。
彼と廊下や階段で顔を合わせた時には、他の皆と同じように挨拶をして、歩きながら他愛のない話をした。
お城の皆は、そんな私達をとても驚いたように遠くから見ていたけれど、その理由は後になって分かった。
今までの彼は滅多なことがない限り、5階の自室から降りようとはしなかったらしい。
その変化に彼等は驚き、困惑し、けれど少しずつ、城の中を歩き回る主の姿に慣れていった。
それから、私はお城の皆に頼んで、皆と同じ厨房に立たせてもらい、料理を教わっていた。
お客である私を厨房に入れるなんて!と、皆は最初、慌てて私の申し出を断ったけれど、料理を教えてほしいのだと頼み込むことでようやく許可が下りた。
皆が夕食に出してくれるような豪華なものは作れないけれど、せめてお昼の軽食くらいは自分の手で作っておきたかった。
このお城の食材はどれも高級なものが用意されているらしく、同じようにパンを焼いても、自分の家で作っていた時とは比べ物にならない程の美味しさに仕上がる。
美味しく出来上がれば、料理も楽しくなる。喋るオーブンが色んな種類のパンの作り方を教えてくれるので、自然とバリエーションも増えていった。
今日あったことを書き留めながら、私はまだやって来ない明日へと思いを馳せる。
どんなパンを作ろうかしら。明日こそは一度も間違えずにピアノを弾けるかしら。彼とどんな話をしようかしら。
そんなことを考えながら、万年筆を強く握り締める。この時間は私のお気に入りだった。
シェリーの身代わりとしてこのお城に閉じ込められた筈の私は、この場所で過ごす時間を愛し始めていた。
*
「シアは料理の何たるかを解っている。分量の量り方も正確だし、何より手順に無駄がない。いいお嫁さんになるよ」
パンが焼き上がるまでの間、そのパンが入っている饒舌なオーブンが私の話し相手になってくれる。
お世辞でも、そんな風に褒められるのはとても嬉しい。
「ありがとう。でも、村では歌やダンスの上手な可愛い子が人気だったんです。私はそうしたことに興味がなかったから、男性との交流は殆どありませんでした」
そう告げれば、村という言葉を聞いた調理器具たちが、「私にも聞かせてよ」「何の話をしているんだい?」と、私の方へとやって来た。
大したお話じゃありませんよ、と前置きをしてから、私は住んでいた村のことを話す。
このお城にいる家具や調理器具、楽器たちは、私によく、外の世界のことを聞きたがった。
彼等はこの10年間、このお城から出たことがない。だからこそ、外の世界からやって来た私に興味を示し、色々と尋ねてくれるのだ。
村のこと、そこでの暮らしのこと、人やポケモンのこと。私は思い出せるだけの記憶を全て使って、彼等に外の世界の話をした。
このお城に住む皆は、外に出ると自我を保てなくなってしまうのかしら。だからずっと、この中で暮らしているのかしら。
それとも、動く家具や食器は人を怖がらせるだけだから、こうしてお城に籠っているのかしら。
気になったけれど、尋ねることはできなかった。彼等がこのお城に10年間、ずっと留まっているのは、相応の理由があってのことだと理解していたからだ。
「シア、パンが焼けたぜ」
そうこうしている内に、オーブンがパンの焼き上がりを伝えてくれる。彼のおかげで、パンはいつも焦げることなく綺麗に仕上がるのだ。
少し形が歪なものも混ざっているけれど、どれも綺麗に焼き色が付いている。二度目のロールパンにしては、及第点だろう。
「ありがとう!」とオーブンにお礼を言って、私はそのパンの粗熱を冷ましてから小さな籠に盛り付ける。
……料理はとても楽しいけれど、残念なことに、此処に住む皆とその味を分け合うことはできない。
彼等は「食事を必要としない」のだ。故に人間の食べ物を口にすることはできない。元は無機物であった彼等を考えれば当然のことなのだが、私は少しだけ寂しかった。
こんなにも流暢に人間の言葉を操り、人間のような立ち振る舞いや仕草をしてみせるのに、彼等は「もの」以外の何物でもないのだ。
それでも彼等は、自らの姿と立場に誇りを持っている。だから私は、何も言わない。それが彼等に向けられる敬意だと知っているからだ。
「それじゃあ、お邪魔しました。今日も厨房を貸してくれてありがとう」
私は彼等にそう告げて、パンの入った籠を抱えて厨房を出た。
焼きたてのイーストの匂いが鼻をくすぐる。それが心地良くて、鼻歌を歌い出そうとした、その瞬間だった。こちらへと歩いてくる外套掛けさんと彼に気付いたのは。
「!」
ぱちん、と何かが弾けるような音と共に、私の頭の中に素晴らしい考えが浮かんだ。
ああ、そうだ。どうして忘れていたのだろう。今までもずっと彼と食事をしていたのに、こんな簡単なことに気付かなかったなんて。
私は抱えていた籠の中から、一番形のいいロールパンを取り出して彼の眼前に差し出した。
私の方が彼よりも圧倒的に背が低いため、軽く背伸びをするような不格好な体制になってしまったけれど、そんなことはどうでもよかった。
呆気に取られたような表情をする彼に、私は微笑んで告げる。
「食べて」
「は?」
「私が作ったの。食べてみて」
そのままの体勢で見上げ続ければ、長い沈黙の後で、彼はそのロールパンを口にくわえた。
流石に一口では食べきれなかったらしく、後から手で持って数回に分けて口に運び、時間を掛けて咀嚼した。
手で受け取ってから口に運ぶと思っていただけに、その行動は私を多少なりとも驚かせたけれど、そんなことはどうだってよかった。今、重要なのは彼の言葉なのだ。
そして案の定、彼がぽつりと呟いたその一言で、先程の私の驚きなど、勢いよく弾けてしまったのだ。
「美味しい」
その瞬間の、涙が出そうな程の感動を、私はどのように表現すればいいのだろう。
私はその言葉に微笑むこともお礼を言うこともできずに黙り込んでしまった。長すぎるその沈黙に、彼の方が怪訝な顔をしてみせる。
私は持っていた籠からロールパンを一つだけ手に取り、残っていた分を全て彼に押し付けて駆け出した。
「おい!これは、」
彼の制止の声が聞こえたけれど、足を止めることはできなかった。階段を駆け上がり、廊下を凄まじいスピードで走った。すれ違う箒たちに挨拶をすることすら忘れていた。
部屋に飛び込んだ私は、扉を背にして深呼吸をしようと努めてみる。あまりにも速く走り過ぎて息が上がってしまった。
どうしたのよ、と呆れたように尋ねるトウコさんに、私はようやく微笑むことができた。
「美味しいって、言ってくれたの」
走り過ぎたからだろうか、心臓が不思議な音を立てて揺れていた。けれど身体は驚く程に軽く、今なら空も飛べる気がした。
大仰な言葉だと誰かに笑われた気がしたけれど、だってこんなにも嬉しいのだ。今なら少しくらい、大きな言葉を使っても許される筈だ。
2015.5.17