20

朝、いつものエプロンドレスを着て、昼食を食べ、部屋を出た。
長い廊下を歩きながら、私はNさんのアドバイスを思い出していた。

『キミができること、ではなくて、ボク等にできないことを探すんだ。案外、沢山あるものだよ。』
彼の言葉に従い、私はこの広いお城の中を、もう一度じっくり見て回ることにしたのだ。

「……」

階段で羽箒のヘレナさんが掃除をしていて、駆け寄れば笑顔で挨拶をしてくれた。けれど次の瞬間、その顔は氷のように固まってしまった。
その理由が解っている私は、困ったように笑って階段を駆け下りる。窓から差し込む光が、僅かな埃を反射してキラキラと光っていた。

1階の厨房では、食器や調理器具たちが忙しなく動き回っている。
彼等は扉のところで挨拶をする私に振り向き、やはり笑顔で挨拶をしてくれたけれど、次の瞬間、その顔が氷のように固まってしまった。
そんな彼等に苦笑しながら、私はもう一度、階段を上がる。すれ違う箒やモップたちが、驚愕の表情で私の方を見ている。
3階の廊下を半分ほど歩いたところで、私は耐えきれなくなり、振り返った。

「私に、何か言いたいことがあるの?」

そう、この人は私が自分の部屋を出た瞬間から、ずっと私の数歩後ろを黙って付いて来ていたのだ。
このお城で暮らし始めて数日が経ったけれど、夕食の時間以外で彼の姿を見たのは今日が初めてだった。
彼の部屋は何処にあるのかを私は知らなかったけれど、一日中、お城の中を歩き回っている私が見つけられないのだから、ずっと部屋に籠っているのだとばかり思っていた。
それが今日になって、突然、私の前に姿を現し、あろうことか私の後ろを、数歩遅れて付いてくるのだ。その奇妙な行動が解せなくて、私は不安になった。

何か、この人の怒りを買うようなことをしてしまったのかしら。私を監視しなければならないような出来事が起きたのかしら。
思い当たる節は特になかった。昨日の夕食では、特に声を荒げることもなく、会話らしい会話をすることができたと自負していた。
では何故、彼は私の傍から離れようとしないのだろう。

「私、何か悪いことをした?」

そう尋ねれば、彼は呆気に取られたような表情で、その隻眼を私に向けた。
しかしそれは一瞬で、直ぐにいつもの不機嫌そうな顔に戻り、視線をさっと窓に逸らして呟く。
その言葉は、今まで彼が告げたどんな皮肉よりも大きな衝撃をもって、私の心臓を大きく揺らした。

「お前が、「私を見て」と言ったから」

私は絶句した。そして、肩を震わせて笑い始めた。ああ、なんだ、そうだったんだ。腑に落ちた彼の行動に安心し、そして嬉しさが込み上げる。
この人は私の言葉を聞いていてくれたのだと、私の懇願を聞き入れてくれたのだと、そのことがどうしようもなく嬉しくて、けれどその行動がとてもおかしくて、笑った。
あの時間は、あの会話は、私の独り善がりなものではなかったのだ。私の言葉はこの人に届いていた。嬉しかった。言葉に出来ないくらい、嬉しかったのだ。

「私は、そんなつもりで言った訳じゃないの。私は貴方の命令がなくたって、此処から逃げ出したりしないってことを伝えたかったの」

「……何故?」

彼はその赤い目の鋭さを潜め、縋るように私をじっと見つめる。
そんな彼の姿が一瞬だけ、泣きそうな顔をした少年のように見えたのだ。
その少年の顔を、私は何処かで見たことがあるような気がしたけれど、それを思い出す前に少年の幻覚は消えてしまっていた。

「お前は、外の世界に未練はないのか」

「未練という程ではないかもしれないけれど、シェリーに会えないことを思うととても悲しいわ。
村の人達は私を代わり者扱いしていたけれど、シェリーだけは私と親しくしてくれていたの。彼女は私の大切な親友よ」

その言葉に、彼はとても傷付いたかのような絶望の表情を浮かべてみせるのだ。
ああ、この人はそんな顔もすることができるのだと、私は驚き、少しだけ安心する。この獣のような姿をした彼の中には、間違いなく、人間の心が芽吹いているのだ。

「でも、シェリーはもう直ぐ、村の男性の元へ嫁いでしまうから」

「!」

「どのみち、私は一人になっていたの」

そう、いつまでもシェリーと一緒に暮らすことなどできない。彼女はフラダリさんと結婚してあの家を出るのだから。
そして私は、もう一つの未練であるアクロマさんのことを思う。
アクロマさんのことは好きだった。尊敬もしていたし、慕っていた。けれどそれ以上の関係を私は望まなかった。
彼は私が村からいなくなったことを悲しんでくれているかもしれないけれど、それはきっと、村の人がシェリーを失った悲しみに比べれば本当に小さなものだと信じていた。
だからこそ私は、彼女の代わりに此処へ残ることを選んだのだ。何より、私がそうしたかった。泣きじゃくる彼女を、この城からどうしても出してあげたかった。

「だから、後悔はしていない」

それはつい数日前なら、自分に言い聞かせるようにして紡いだ嘘だったのだろう。この人に憎悪しか感じなかったあの頃なら、私は此処での暮らしに絶望していた。
けれど今は、その言葉がするりと抵抗なく口から零れ出る。私はこのお城での生活を受け入れ始めていた。
それだけではなく、寧ろ進んで此処に残ることを選んだかのように、気丈に微笑むことすらできたのだ。

「私は貴方を嫌いだと言ったけれど、それは私を命令によって縛ろうとする、身勝手で傲慢な貴方のやり方が許せないだけなの。
……でも、貴方がそうすることしかできなかった理由も、今なら少しだけ解る気がする」

彼は事あるごとに、自らの姿を醜いと卑下し、この姿を見て逃げ出した人間のことを引き合いに出してその顔に影を落とす。
逃げ出す人間と話をするためには、呼び止めるしかない。それでも拒まれたなら、閉じ込めてしまうしかない。
そんな極端な発想に陥ってしまう程に、彼の心は荒みきっていたのだ。私は今更、そのことに気付く。
彼はただ、自分の姿を恐れずに、話をしてくれる相手が欲しかっただけなのだ。

ふいと私に背を向けた彼は、元来た廊下を歩き去っていった。
僅かに聞こえたその一言が空耳ではないのだと悟ったその瞬間、私は彼を追い掛けていた。


「悪かった」


その大きな手を掴み、引き止める。
驚いた顔で振り返った、その赤い目を至近距離で見上げる。
傲慢で身勝手であった筈の彼が、私の自由を奪い、私の権利と尊厳を悉く踏みにじった筈の彼が、私に対してそんな一言を紡いだ。
彼の口から初めて聞いた謝罪の言葉が、私の耳元でぐるぐると回っていた。やはり彼の中には人の心が存在するのだと、私はいよいよ確信するに至ったのだ。

「……」

しかし私はその状態で硬直し、この行いを悔いることになってしまった。
勢いで引き止めてしまったのはいいが、そこから先のことを何も考えていなかったのだ。自分の軽率さに眩暈がしそうになったけれど、何とか持ち直して次の言葉を考える。
やがて絞り出したその質問は、この空気に合わない突拍子もないもので、けれど私の願望がこれ以上ない程に詰め込まれたものだった。

「このお城に、本はないの?」

彼は面食らったように沈黙した。
それもそうだ。先程までの会話とまるで話題が噛み合っていない。こんなことをいきなり聞かれて驚かない方がおかしい。
私は即座にその言葉をなかったことにしようとして口を開きかけたけれど、それより先に彼が言葉を紡いだ。

「探しておく」

「え……」

「本が、好きなのか?」

その言葉に、私は先程までの後悔と焦りを忘れて大声で返事をした。
それは、村で暮らしていた頃なら決して大声で口にすることのできなかった言葉で、けれど私の思いの全てだった。

「大好き!」

すると、彼は慌てたように私の手を振り払い、廊下を走り出してしまった。
私はそんな彼を追い掛けようとしたけれど、できなかった。心臓が壊れてしまいそうな程に大きな音を立てて揺れていたからだ。
本を読むことが好きだなんて、おかしな女性だと思われたかしら。そんな懸念はぱちんと軽快な音を立てて弾け飛んでしまっていた。

好きなものを好きだと口にすることって、こんなにも素敵なことだったんだ。

私は左手を胸に押し当てた。心臓は煩い程に大きく揺れていた。
この高揚があれば、本など要らないとさえ思えた。どんな素敵な物語を読んでいる時よりも、その胸の高鳴りは私の心に甘美な響きを届けていたからだ。


2015.5.17

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