22

朝食を詰め込むように食べ、熱い紅茶を一気に口へと流し込んだ。
トウコさんが驚いたように私を見ていたけれど、今日ばかりは皆が用意してくれたこの美味しい朝食を、ゆっくりと味わって食べる余裕が完全に失われていた。
ようやく名案を思い付いたのだ。忘れてしまう前に、早く彼女に会って確認しなければならなかった。

部屋を飛び出し、廊下を駆けた。外套掛けのダークさんが、挨拶もせずに通り過ぎる私に驚いたような表情をしていた気がする。
私は1階への階段を駆け下りた。玄関ホールで階段のスロープを掃除している羽箒のヘレナさんを見つけ、私は大声で彼女の名前を呼んだ。
おおらかで笑顔を絶やさない彼女は、10年間、ずっと城の奥に閉じこもっていた主が昼間に自ら出てくるくらいのことが起きないと驚かないらしく、
物凄いスピードで階段を駆け下りてくる私を見ても特に動じず、いつもの笑顔で迎えてくれた。

「ヘレナさん、このお城の窓は誰が掃除しているんですか?」

「窓……?」

私の質問に彼女は羽をふわりと波打たせ、その一枚を口元に当てて考え込むような素振りをする。
何度見ても、彼等の仕草は人間のそれに似過ぎている。
私はたまに、彼等は人間の心を与えられた「もの」ではなく、ものに変えられてしまった「人間」なのではないかと思う時がある。
けれどそんな魔法、あっていい筈がない。そんな悲しい魔法があるのだとすれば、それは魔法ではなくもっと別の、呪いと呼べるような代物だ。
彼等がそんな残酷な魔法を掛けられているとは思いたくなかった。

シアも知っていると思うけれど、私達は箒だから、掃き掃除以外のことはできないの。だから私達に窓は拭けないわ。
外套掛けのダークがいるでしょう?彼がたまに雑巾を持って目立つ汚れを拭いているくらいで、他に窓を掃除できる程に器用なものはいないんじゃないかしら」

その言葉を待っていたのだ。私は、私がこのお城のためにできることをようやく見つけたのだ。
私はずいと身を乗り出して、ヘレナさんに笑ってみせた。

「それじゃあ、私に窓を拭かせてください!」

ヘレナさんは呆気に取られたような表情で私を見上げたけれど、暫くしてクスクスと笑ってみせた。
窓を拭きたいなんて、変わった子ね。そう零す彼女に、しかし悪意は感じなかった。
村の人に「変わり者」扱いされるのとはまた別の感情が、その言葉には込められていたのだ。私は彼等と過ごした時間の中で、その思いを汲み取れるようになっていた。

「いいわ、ダークに梯子と雑巾を用意してもらうから、少し待っていてね」

私がお礼を告げるより先に、彼女は大声でダークの名前を呼びながら2階へと駆け上がっていった。
ああ、よかった。これで私もこのお城の役に立てる。そのことが素直に嬉しかった。
いつまでも「お客様」のままではいられない。私は、彼等と共に生きたかった。そのためには、彼等のような役割が必要だと感じていたのだ。

城の天井はとても高く、故に窓も大きい。
背伸びをしたくらいでは到底届かなさそうな高いところを掃除するために、私は外套掛けのダークさんが用意してくれた梯子をかけて登り、窓を拭いていた。
3m程はあるのではないかと思われるその窓からは、深い森の木々がよく見える。
私がこの森を抜けた時には、深い霧がかかり、雨が降り注いでいたけれど、今日は透き通る青空が、森を明るく照らしていた。
村は残念ながら見えない。……いや、見えなくてよかったのかもしれない。
折角、このお城を好きになっているのに、またシェリーに会えない悲しさを思い出して泣きたくはなかった。

歌詞のない歌を口ずさみながら、窓の枠に積もった埃を払っていると、突然、遠くから声を掛けられた。
そのバリトンに窓から手を放し、顔を下に向ければ、彼が速足で廊下を歩いてくるところだった。

「何を勝手なことをしている!」

厨房でパンを焼いていた私を咎めることはしなかったのに、どうして窓を拭くことにそこまで過剰な反応をされなければいけないのか解せなかった。
彼の手が届かない高所にいることをいいことに、私は少しだけ意地悪な笑みを浮かべてみせる。

「あら、此処を掃除して、貴方に迷惑が掛かるの?」

そうして、窓から手を放したのがよくなかったのだろう。
手を腰に当てて彼を見下ろしていた私は、梯子がバランスを崩して窓から離れていることに気付かなかったのだ。
ぐらりと横に倒れた梯子から、私の足はふわりと離れた。そのまま廊下へと落ち、身体を強く打ち付けるものだとばかり思っていた。
反射的に目をつぶり、衝撃に耐える準備をする。けれどいつまで経っても痛みは身体を襲わなかった。
床に落ちた音は確かにした筈だ。私はその違和感を確かめようと目を開き、そして絶句した。

「!」

「……だから、こういうことが迷惑だと言っているんだ!」

彼は落下した私を受け止め、その衝撃のあまり床にひっくり返っていたのだ。
私は彼の上から慌てて飛び退き、上擦った声で言葉を引きずり出す。

「ごめんなさい!大丈夫?怪我はしていない?」

「……あ、ああ。背中が少し痛いくらいで、他は何とも……」

起き上がった彼は、呆気に取られたような表情で私の質問に答えてくれた。
よかった、と安堵の溜め息を吐く私を見て、しかしはっと我に返ったように大声でまくし立てる。

「こんな危険なことをしてくれるな!自分がどれ程高い場所に登っていたのか解っているのか!」

その剣幕は私に、出会った頃の彼の荒げられた声を思い出させる筈だった。
『黙れ!私に逆らうのなら、お前も牢屋に入れるぞ!』
そうしてあの時の恐怖を思い出して戦慄し、さっと顔を青ざめさせるはずだった。
けれど、私はもう怯えることはなかった。物凄い剣幕で発せられたその怒声は、しかし私を憎悪してのものではないことを理解していたからだ。
そして、彼との時間を重ねてきた私は、その剣幕に静かな声音で言い返す勇気さえ持ち合わせていたのだ。

「……あの、言いにくいことだけれど、貴方が梯子に登った私を怒鳴りつけなければ、こんなことにはならなかったと思うの」

「な……!」

ああ、また彼を怒らせてしまったかもしれない。私はそう思いながら、けれどどうしても止められなかった。
彼が躊躇なく私に鋭い言葉を投げるのと同じように、私も彼に言いたいことをはっきりと告げてみせるのだと誓っていたからだ。
彼の赤い隻眼がすっと鋭くなり、またしても大きなバリトンで私を怒鳴りつける。

「お前がこんな危険なことをしなければ、私も怒鳴りつけることなどしなかった!」

……それは、そうだ。彼は私のすることを、頭ごなしに否定しているのでは決してなかったのだ。
3mを超える高い窓を掃除している私に、ある種の危なっかしさを感じて止めるようにと声を掛けたのだ。
ただ少しタイミングが悪かっただけで、彼に非はない。小さく「ごめんなさい」と紡げば、彼は少しだけ怯んだように眉をひそめた。

「でも、私も何かお城のためにしたかったの。だって私が住んでいる場所なんだもの。綺麗にした方が、居心地がいいでしょう?」

少し前の私なら、こんなことを彼に決して伝えはしなかっただろう。
けれど今は違う。私の思いを、彼に知ってほしかった。私は彼を知りたいと思っていたけれど、同時に、私のことも知ってほしいと思い始めていたのだ。
彼はそんな私を暫く見つめ、やがて私の手を強く引いた。

「どうしたの?」

そう尋ねる私に、彼は答えない。私は少しだけ不安な気持ちになりながら、その手に従い彼の後を付いて歩いた。
廊下ですれ違う箒たちが、私と彼を不安そうに見つめている。私は彼等に心配を掛けさせまいとして笑顔で頷いて見せたけれど、それは私の得意な嘘の一つだった。
私に背を向けて先を歩く彼が、何を考えているのか全く読めないのだ。
どうしたの?何処へ行くの?そんな私の質問に、彼は一切答えることをしなかった。私はいよいよ怖くなって、震える声で彼の名前を呼ぶ。

「ゲーチスさん……」

彼はぴたりと足を止めた。
ようやく振り返った彼は、私の表情にひどく驚いたような顔をして、その後で大きく溜め息を吐いた。
その手には古びた鍵が握られていて、彼はその鍵を、3階の廊下の突き当たりにある、大きな扉の鍵穴に差し込んだ。
そして、彼の口から紡がれたバリトンは、私の思ってもみなかった音を奏でる。

「お前に相応しい仕事がある」


2015.5.18

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