23

扉を開けた先は、外の渡り廊下へと続いていた。
強い風が頬を吹き付けて、私の一つに束ねた髪をふわりと舞い上げた。
鳥ポケモンのさえずりが遠くで聞こえて、さわさわと木々の擦れる音がとても心地よくて、私は思わず歓声を上げる。
そう言えば、長らく外に出ていなかった。城の中が広すぎて、外に出ることを忘れていたのだ。

彼は足を止めて、渡り廊下の手すりから軽く身を乗り出して風を受ける私を待っていてくれた。
暫くして歩みを進めた彼に、私も付いていく。渡り廊下は意外にも短く、角を曲がってすぐに扉が現れた。
どうやら、この城には渡り廊下で繋がった、別の塔があるらしい。存在すら知らなかったその塔の中に、私は好奇心に満ちた目で足を踏み入れた。

塔の中の窓には全てカーテンが引かれていて、天気のいい昼間でも驚く程に薄暗い。
そのことに少し恐ろしくなったけれど、私は黙って彼の後を付いて歩いた。
階段を降り、1階の大きな扉の前で立ち止まった彼は、私の方を振り返った。

「!」

そして彼は、今まで見たことのないような表情を浮かべる。きっとそれは、笑顔だ。彼は得意気に笑っていたのだ。

「目を閉じろ」

「え……」

突然の命令に困惑したが、私は少しの躊躇いの後でそっと目を閉じた。
彼は私が目を閉じたことを確認しているのか、暫く時間を置いた後で私の手を取り、そっと引く。
重い扉が鈍い音を立ててゆっくりと開く。私は彼に手を引かれるまま、その部屋へと足を踏み入れた。

まだ、目を開けてはいけないのかしら。
彼が何をしようとしているのかが全く読めなかった。けれど、もう怖くはなかった。目を開いたその先に、恐ろしいものは待ち受けていないと確信していたからだ。
私の胸の中で、恐怖や不安ではなく、期待が渦を巻いていた。心臓が不思議な音を立てて揺れていた。
やがて彼は足を止め、私にそっと囁いた。

「さあ、開けてみろ」

私は目を開いた。そして次の瞬間、堪え切れずに歓声を上げることとなる。
私の二つの目では一度に収まりきらない程の本が、壁一面に並べられていたのだ。

円を描くように作られた本棚は、部屋中を取り囲むようにそびえ立っていた。本棚に収まりきらなかった本は、部屋の隅にうず高く積まれている。
長らく誰もこの部屋には足を踏み入れていなかったらしく、窓からの日が、部屋の中に舞う埃を反射してキラキラと輝いていた。
吹き抜けになっている部屋の中央から上を見上げれば、螺旋階段が2階、さらに3階へと続いていた。おそらくその先にも、1階と同じように大量の本が並んでいるのだろう。

「……」

私は飽きることなく部屋を見渡し続けた。一生をかけても読み切ることのできなさそうなその数に幸福な眩暈を覚えた。
私にとっての楽園を、ひとしきりこの目に焼き付けて、深く息を吸い込み、ようやく私の完成は言葉の形を取る。

「こんな素敵な場所があったなんて!」

彼は何も言わなかったけれど、私を見て得意気に微笑んでみせた。
ああ、彼はそんな顔もできるのだと、私はその、少しぎこちなさの残る彼の笑みを噛み締めていた。
『本が、好きなのか?』
以前、彼にそう尋ねられ、『大好き!』と返した私のたった一言を、彼は覚えていてくれたのだ。だからこそ、私に相応しい仕事をする場として、此処へ連れて来たのだ。
あの時、彼を呼び止めてしまったその気まずさから、咄嗟に紡いだ「本」という単語が、私にこんな幸せを授けてくれるとは思ってもみなかった。

「私は、此処で何をすればいいの?」

「掃除だ。後は本の整理と片付けをしていればいい。昼の3時から6時まで、この部屋を開けておく」

夢のようなその仕事内容に私の目は輝いた。
本当?本当に毎日、此処に来てもいいの?彼に縋るように近付き、急くようにそう尋ねる。
彼は呆れたように肩を竦めた。その沈黙が肯定を示しているのだと気付いたその瞬間、私は彼の両手を取って強く握り締めた。

「ありがとう!必ず綺麗にしてみせるから、貴方もたまに此処へ来てくれる?」

私の手で、この埃を被った図書室が綺麗に生まれ変わった姿を見てほしい。
そんな小さな懇願を彼に告げれば、彼は自嘲気味に笑って肩を竦めた。

「どのみち、私にすることなどないからな。お前が此処の本を勝手に持ち出さないよう、私がその時間は此処で監視することにしよう」

「か、勝手に持ち出すなんて、そんなことしないわ」

少しだけ顔を赤らめてそう訂正する。
いくら私が本を好きだと言っても、そんな無礼を働いてまで読みたがる程ではない。
それに、此処の本を片っ端から読んでいきたい気持ちはあったけれど、そんなことをすれば掃除や片付けが手に付かなくなってしまいそうだった。
だから今は、この本が並んでいる空間の持つ、紙の匂いと色鮮やかな背表紙を見ているだけで十分だと、そう思っていた。
けれど彼はそんな私に、とても素敵な提案をしてくれたのだ。

「……一冊だ。一日に一冊だけなら貸してやる」

「本当?」

「嘘を言ってどうする」

呆れたようにそう紡ぐ彼に、私はまたしてもお礼を言った。何度「ありがとう」を紡いでも足りないような気がしたのだ。
それ程にこの空間は素晴らしく、私は今日から此処にいられることの幸せを噛み締めていた。
このお城に住むようになってから、本を読むことをすっかり諦めていた。
此処にはそうした、知識を蓄え空想を膨らませる媒体となるものはないのだと、認めざるを得なかったのだ。
けれどこの不思議なお城は、こんなにも素敵な空間を隠し持っていたのだ。

「貴方が羨ましい。こんな素敵なお城に住んでいるなんて」

「……お前は、この城をそんな風に思うのか」

「貴方はそうは思わないの?」

彼はその問いに答えることなく沈黙した。
『お前にこの城の孤独が解るか?』
夕食の席で彼が告げたその言葉が脳裏を掠めた。彼はきっと、自らを外の世界から断絶するこの大きな城を、檻のように思っているのかもしれなかった。

そこまで考えて、私ははっと息を飲む。
彼が、ただこの城に迷い込んだだけのシェリーを捕え、牢屋に閉じ込めてしまったその真意が、今なら少しだけ理解できるような気がしたのだ。
彼はきっと、シェリーに強烈な羨望と嫉妬を抱いていたのだろう。
顔も声も仕草も、何もかもが美しいあの少女が、自らこの檻の中に飛び込んできた。自分にない何もかもを持ち合わせていた彼女を、彼は妬み、憎んだのではないか。
そんな彼女が自分の姿を見て怯えたことに、彼は屈辱を感じたのではないか。
彼女を牢屋に閉じ込めたその行動は、自らをこの城に閉じ込めたのと同じように、ただ淡々と、しかしこの上ない絶望を伴ってなされたことだったのではないか。

けれど、と私は思う。
本当に彼は、彼自身が自嘲する程に醜い姿をしているのだろうか。10年間もこの城の中に閉じこもらなければならない程に?
私は彼がこの城に閉じこもるその様が、自らに罰を課しているように思えてならなかった。

そうして私は再び、彼の中に一人の少年の姿を見る。

彼は罪を犯したのだろうか。その罰として、彼はこの城に留まり続けているのだろうか。
解らない。聞くことはできなかった。おそらくはこれも、燭台のダークさんが語った「我々にかけられた魔法のルール」に属しているのではないかと思ったからだ。

何も聞けない。私は彼等の秘密を紐解けない。
それでも、歩み寄ることくらいは許される筈だ。

「……私、本の中でも特に物語が好きなの。物語を読んでいる間は、夢を見られるから。
私がどんな人間か、何処にいるのか、そんなことを本は忘れさせて、私を素敵な場所へ連れて行ってくれる」

「……」

「外の世界にだって、簡単に行けるのよ」

私は部屋の隅に積み上げられた本の中から、一冊を徐に取り上げ、微笑む。
その埃を被った本の背表紙には「約束の魔法」と書かれていた。


2015.5.18

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