認めよう、怒っていた。
原因など分かりきっている。銀色の頑丈な装甲を持つ鳥ポケモン、エアームドによる「エアカッター」の余波を受け、ニットベレーの影に隠していた小さな三つ編みがほどけてしまったのだ。砂嵐の吹き荒ぶ危険な場所でポケモンの調査をしている今、そのようなことを気にしている場合ではないし、そもそも髪を切られた訳でもないのだから、そこまで激昂すべきところではきっとない。分かっている。それでも腹の奥でぐるぐると唸る憤りはどうしようもなかった。なんてことを、と叫び出したい心地でさえあったのだ。
インテレオンに「ねらいうち」を指示してそのポケモンを容赦なく撃退してから、私は大きな溜め息と共に自転車を取り出し、小石混じりの坂を猛スピードで駆け下りた。ポケモンの捕獲に失敗し、三つ編みは木っ端微塵。全身にまとわりつく砂もひどく不快で気持ち悪い。舌打ちというものをしてみれば少し気が紛れるだろうかとも思ったけれど、もうすっかり脳内に住み着いてしまったあの先輩が「なんて品のない!」などと説教の構えを取りかけたので、やめた。
砂嵐の吹き荒ぶチャレンジロードの急な坂を下り終え、ファイトケイブを抜け、湿原を渡れば、「家族」の待つ大きな家屋はすぐそこであった。砂嵐でざらついた手を木の扉に掛け、勢いよく押し開いて中へと転がり込めば、丁度、台所の方向から件の「先輩」がやってくるところだった。
「……あっ」
長いブロンドを頭の高い位置で束ねたポニーテールスタイル、オレンジ色のジャージ姿、踵の低い白のスニーカー。タオルを額に押し当てて汗を拭いつつ、疲労の滲む目を細めながらややふらついた様子で歩く彼は、「今まさにトレーニングを終えたところです」といった有様に違いなかった。人知れずトレーニングをしていることは何となく察していたけれど、その現場に出くわしたのはこれが初めてだった。
彼はふうと息を吐きつつ、水色の目でこちらを見遣り、……次の瞬間、アイドルも顔負けの甲高い声で「ヒャア!」と叫んだ。鼓膜に受けた僅かなダメージに顔をひそめていると、彼は私の予想とは全く逆の行動を取った。すなわち、いつもの「エレガントな装い」ではない姿を私などに見られたことによる羞恥から慌てて立ち去るのではなく、髪をぼさぼさに乱した私のもとへ、いつもの軽快なダッシュで詰め寄って来たのだ。
「ど、どうなさったのですユウリ、その姿は!」
「エアームドというポケモンに苦戦させられてね。折角、君が編んでくれたのにこのザマだ。せめて今日はずっと、解かず大事にしておきたかったのだけれど」
「そう・では・なく! 砂まみれじゃありませんか! 頭のてっぺんから足の先までびっしりと……」
獲物を逃し途方に暮れる、憐れなマッギョのごとし……などとお得意の比喩が飛び出すことを期待したのだけれど、どうやら今の彼は「それどころではない」ようだった。
トレーニングをしていたからだろう、いつもよりほんの僅かばかり血色の良い指先でくいと宙を撫でるようにする。台所の方から大きな白いタオルが二枚ふわふわとやってきて、私の腕の中へとタックルするかのような勢いで飛び込んでくる。彼の十八番、テレキネシスのお出ましに私の頬は僅かに綻ぶ。頬を動かせば砂の感触をより強く感じたけれど、不快感はもうほとんどないに等しかった。
「特にその帽子、お気に入りだと言っていたのに砂まみれにして……早くミセスおかみにクリーニングを依頼しておいでなさい。それから、顔を洗うことをオススメしますよ。目にも入ったのでしょう、ひどい充血です」
ミツバさんが毎日丁寧に洗濯してくれているそのタオルは、ワタシラガの頭部よりもずっと柔らかく滑らかで、いつでもお日さまの匂いを味わえる極上品だ。いつもより汚れているとはいえ、それを二枚も一人で使ってしまっていいのだろうか、と若干の躊躇いを覚えたけれど、彼の細められた目が「受け取りなさい」と雄弁に語っていたので、苦笑しつつ今日は贅沢に甘んじることにした。
「……ふふ、ありがとう。ところで一つ交渉を持ち掛けたいのだけれど、聞いてくれるかな」
「このワタクシに? なんです?」
「もし顔だけでなく髪も洗ってそれなりに整えてきたら、君はまた今朝と同じことをしてくれる?」
その奇跡は今朝、起きた。彼がご自慢のエスパーパワーを使い、そこまで長くない私の無造作なボブヘアーを、小さな三つ編みのおさげ姿に整えてくれたのだ。私には指一本触れることなく、彼はいつものように人差し指だけで私の髪を楽しそうに操り、あっという間に私の首元を彩ってしまった。彼は「エレガントな出来」だとして非常に満足そうにしていたし、私も私で幼い子供のようにはしゃぎ、喜んだ。
ものを動かすタイプの超能力「テレキネシス」は、彼を支えていた唯一の矜持であり、彼を構成する要素の中で最も気高いものであると言っても過言ではない。それを惜しむことなく私に使ってくれることは、私にとっては最早至福に等しく、彼が編んでくれたそれを、私は一日の終わりにお風呂へ入るまで、絶対に解くまいと決意していた。にもかかわらず、エアームドとかいうあの鋭利な銀色によって私の奇跡は瓦解してしまった。夢の時間は、私が想定していたよりもずっと早く終わりを迎えてしまったのだ。
奇跡の味を知った者がその至福をあっさりと忘れることは、どうしても難しい。故に私は、みっともないことであると分かっていながら「もう一度」を乞うた。一回だけ願って、それで聞き届けられなければ、潔くあれを奇跡だとして諦めておこう。そうした意図をもって私は図々しくも「交渉」した。
「……ああ、三つ編みのことですね。ハイハイ、気に入ったのならいつでもして差し上げますから、早くシャワーを浴びて着替えておいでなさいな」
そしてその交渉は、私が思っていたよりもずっと軽い形で成立した。
奇跡は二度、続けて起きたりはしない。つまりあれは奇跡ではなかったのだ! じゃあ「何」であるのかと問われても、浮かれた私の今の頭では結論を出せるはずもなかったけれど、とにかく私は「いつでもする」という言質を取ったことに浮かれ、スキップするようにシャワーブースのある休憩室へと駆け込んでいった。
『いつでもして差し上げます』
ああ、軽率極まりない。あの人はなんてことを。……なんてことを!
私にとってそれは、これからの一生を保証することと同義であると、きっと彼は知らない。知っていたなら、そのような致命的なこと、決定的なことを、口にするはずがないのだから。
*
シャワーを浴び、着替えを済ませ、大急ぎで髪を乾かし、ニットベレーのクリーニングをミツバさんに依頼してから駆け足で外へ出る。フシギバナ程度の大きさをした岩の影に彼はいた。その長身を折り、膝を抱え、俯いているのだろう。自らの「失態」を反省するとき、彼は高確率でこの岩の影に隠れることを、私はこれまでの道場生活の中で学んでいた。
ただ、彼はしっかりと隠れているつもりなのかもしれないが、残念ながらシルクハットの周りを飛ぶボールが道場の入り口からは丸見えである。私よりもずっと立派であるはずの彼は、けれどもこういう面において「子供になる」のがとても上手だ。それは紳士的な彼が持つ最強の愛嬌であり、そんな彼を慕う私にとっては魅力の一部にしか見えない。
彼の間抜けな一面に口元を綻ばせつつ、できるだけ足音を立てないようにしてそっと歩み寄る。ジャージを脱ぎ、彼の言うところの「エレガントなコーディネート」に戻った彼が、膝を抱えて反省しているのであろう「失態」の中身など、私には手に取るように分かってしまう。
「そこにいるのでしょう、ユウリ」
「ふふ、流石だね」
「エレガントでないワタクシの姿を軽蔑したいならいくらでもどうぞ。あなたにだけは見せないつもりだったのですが……油断しました」
果たして彼は、先程のトレーニング姿を見られたことに対する羞恥を今更ながらに感じていた。気にしなくていいのに、と思うし、それだけ伝えられれば私としては十分ではないかと思う。けれどもこうなってしまった彼の気分を浮上させるためには、簡素な言葉ではあまりにも足りない。だから私は彼の隣に腰掛けて、その、少しばかり拗ねたような横顔に向けて言葉を尽くすことを躊躇わない。
「私は、君がエレガントであるから慕っているのではないよ。君は君の拘りであるエレガントを一時的に放棄してまで、鍛錬に励んでいたんだろう。尊敬しこそすれ、軽蔑したり嫌ったりする理由なんて何処にもないよね」
「本当に? その場凌ぎの発言ではないでしょうね?」
「本当だよ。だから、無理に見栄を張って隠そうとしないでほしい。君のいろんなところをもっと見てみたい」
躊躇わない……つもりだったのだが、どうやら出過ぎた発言が混ざっていたらしい。彼は「ええっ!?」といつものように動揺の悲鳴を落とし、水色の目をかっと見開いて慌てふためく。彼が演技で慌てているのではないことは、その頭上を飛ぶボール達の挙動があからさまに激しくなっていることからも一目瞭然である。
「ま、またあなたはそうやって卑劣にも、そのような口説きめいた文句を会話の中に平然とブレンドして! いくらエレガントであるとはいえ、ワタクシはれっきとした男性ですよ?」
「えっ、あ、ごめんなさい。ちょっとして気分を害した?」
「いいえ! モチロン嬉しかったのですが! でもワタクシが言いたいのはそういうことではなく!」
彼の白い肌が僅かばかり赤くなる。勿論、先程のトレーニングによるものではなく、照れによるものだろう。この人の表情がコロコロと鮮やかに変わる様は、眩しい。
しばらく頭上のボールを激しく回しつつ、膝へと頭を埋めて軽く唸っていた彼であったけれど、やがてふっと顔を上げ、真剣な表情で私を見た。どうしたんだいと尋ねようとしたけれど、その前に私の、乾かしたばかりの髪がふわりと持ち上げられる。ああそうだった、編んでもらいに来たのだった。編んでくれるのだった。その事実を噛み締めて私は溶けるように笑う。随分とだらしのない笑顔であるという自覚はあったけれど、奇跡だとばかり思っていた「これ」の再訪を、平然とした表情で受け入れられる程、私は大人ではなかった。
彼のテレキネシスの対象に選ばれたものは、淡い青の光を纏う。そのせいだろう、彼の繰り出すボール達は、私が持っているのと同じ、ごく普通のモンスターボールであるはずなのに、もっと特別で上品な、宝石のようにさえ見える。
今、三つに分けられた髪の房が、彼の人差し指の指揮に従うようにしてくるくると踊っているその様だって、彼の瞳と同じ、水色の光を湛えているに違いないのだ。もう少し髪が長ければじっくりとこの目で楽しむことができるのだろう。その点に関しては少し残念だと感じる。でもそうした僅かな口惜しさも、「ほら、どうぞ」と完成を告げる彼の声により、ぱちんと弾けて、消えてしまう。
「ありがとう!」
そっと、今朝したように両手で髪に触れてみる。相変わらず綺麗な仕上がりだ。かたい結び目を作っている細いヘアゴムは、先程のトレーニングの時に、彼が髪を束ねていたあれと同じものなのだろうか。そうであったならどんなにか、などと思ったけれど、流石にそれを確認する勇気はなかった。
だらしのない笑顔のまま、三つ編みに触れて楽しんでいる私。その隣で沈黙していた彼は、やがて小さく息を吐いてから、このようなことを切り出してきた。
「ワタクシとて、あなたがただ優秀であるからという理由で、あなたに固執しているのではないんですよ」
「……え、そうなのかい?」
不思議なことを念押しする彼に首を捻る。そもそも、彼は私に固執などしていただろうか。毎日、トレーニングの一環としてバトルに付き合ってくれる、所謂「都合の良い相手」くらいにしか思われていないのでは、と思っていた。そして私は、それだけで十分だと思っていた。この人の不思議で神秘的で美しい世界の中に、その程度の位置へ置いてもらえる。それ以上のことを望むつもりは、なかったのだ。
「それで、三つ編みだけですか? あなたがこのワタクシにしてほしいことというのは」
「そうだよ。本当に嬉しかったんだ。今朝の一回きりだと思っていたけれど、またこうして編んでくれるなんて夢みたいだ。他にはもう何も思い付かないよ」
今日、思いもかけず髪を編んでもらえたことに喜びすぎてしまって、強欲にもアンコールを求めたけれど、もうそれだって叶ってしまったのだから他に何を望むべくもないのだ。本当に、そうだったのだ。
「成る程、では言い方を変えましょう。ワタクシがあなたに何かして差し上げたいと願う場合、あなたは何なら許可してくださるのですか?」
……随分と奇妙なことが起こっている。奇跡などという言葉では片付けきれない程の不可思議が二人の間を満たしている。でも視線を彷徨わせ、困惑を露わにしているのは私だけだ。すっかりいつもの調子を取り戻した彼は、面白い者を見るかのようにその水色を細めている。彼はこの不可思議を、この奇跡紛いの「何か」を、受け入れている。私は受け入れるどころか、まだ信じることさえできていない。
私は、彼に髪を結んでもらえるという奇跡を、毎日の幸福に、ひいては日々を過ごす糧に置き換えることができさえすれば、本当にそれだけでよかったのだ。それさえあればもう一生、私は何もかも大丈夫であるような気さえしていたのだ。
でも、これは。それ以上を私に明け渡そうとしてくるこの人の、この言葉は。
「ユウリ」
「……思い付かない」
「ねえ、お願いです。許可を」
「無理だよ! 何も思い付かない、何も分からない。だって、こんな」
私は、取り乱した。その行動がこの状況の決定打になると知っていながら、どうしても平静を保つことができなかった。
彼はそんな私の混乱を眺めながら、笑った。ひどく嬉しそうな顔だ。ひどく意地悪な顔でもあった。すなわちそれだって、私がこの上なく慕った彼の一部に違いなかったので、私にはもう、顔を赤らめて沈黙する以外の選択肢が残されていなかったのだ。
「ふふっ、あなたまさか、あれだけのことをワタクシに言っておきながら、同じ想いを被る可能性をこれっぽっちも考えていなかったのですか?」
その通りだ。これは悔しい。とても悔しい。彼に図星を突かれたことも、私の未熟さをからかわれたことも、悔しすぎる。互いが互いを憎からず想っていたのだという、夢のような事実に舞い上がっている場合ではなかった。私は敗北を喫したのだ。この人に。今までポケモンバトルでは完璧に無敗を貫いてきたはずのこの人に!
自らの顔が火照っていることを自覚しながら、私は彼を睨み上げた。そんな私の、まるでいつもの彼が為すような挙動を受けて、彼はお腹を抱え、声を上げて笑った。いつものエレガントな微笑み方とは随分と違うそれは、彼をほんの少しばかり幼く見せた。まるで、彼が後輩である私と同じところへ降りてきてくれているかのようで、ひどく嬉しかった。嬉しい、と感じてしまうことがひどく悔しかった。
「あの、もし。ちょっとよろしいか。憐れな迷える、可愛らしいウールーさん?」
僅かに頬を染めた彼が柔らかく微笑む。そのひどく優しい勝利宣言に一矢報いる術など、ウールーを模した三つ編みにされてしまった、憐れな私にあるはずもない。
だからそのまま、聞き入れるしかない。
2020.6.21