おそらくは愛と呼ぶべき

2:本編「おそらくは愛と呼ぶべき」

 ギンガ団の本部から出てきた彼女に、ようと片手を上げて笑い掛ければ、彼女はそれだけで何かを察知したのだろう、くるりと踵を返して本部へ駆け戻ろうとした。その細腕をぐいと掴んで引き留めて、にいと笑い掛けてやる。華奢な肩が面白いくらいに大きく跳ね上がった。

「おいおい、逃げるこたぁねえじゃねえか」
「貴方がそんな顔をしているからですよ! よくないことが起きる予感がするんです。一体何を企んでいるんですか、セキさん!」

 時空の裂け目からこの過酷な大地へと放り出されておきながら、大きな怪我をすることなく調査隊としての功績を着実に積み上げてこられたのは、ひとえに彼女の持つこの優れた洞察力と、こちらがヒヤリとしてしまう程に鋭い勘の賜物である。この少女、危機察知能力と回避能力がとにかく高いのだ。
 好奇心は旺盛なように見えるが、無謀なことは決してしない。度胸があり強者に怯まぬ気概を持つが、基本的には石橋を叩いて渡りたがる質だ。調査においてだけでなく、対人においてもその慎重さは発揮されていた。一方的に向こうから難癖付けられ排斥され喧嘩を売られたことは数知れず。だが彼女の方からトラブルを起こしたことは一度もない。丁寧に他者へと向き合い、慎重に言葉を選び、滅多なことでは感情を荒ぶらせない。そうやって無害に徹し続けた彼女は、今やすっかりこのヒスイ地方に溶け込み、またこのコトブキムラに欠かせない存在となっていた。
 そんな彼女が今、「セキを見るなり逃げ出す」という、かなり角の立つ行為に出ている。それ程までに己の顔がワルっぽく見えたのだろう。ふむ実に優秀、その通り。ちゃんと悪い顔で笑い掛けたのだから、多少身構えてもらわなければ困るというもの。

「私はこれから畑でナバナさんからミントを受け取って、それからいつもの食堂で美味しいイモモチを食べるんです。お願いだから邪魔をしないで!」
「おう、いいことを聞いた。食堂のイモモチだな、今日はオレが奢ってやる。注文も済ませておくから、おまえは先に畑で用事を済ませて来な。待ってるぜ」

 ぱっと手を離してヒラヒラと振り、食堂の方へと足を向ける。彼女は「やられた」という顔でしばらく立ち尽くしていたものの、やがて眉をくたりと下げて諦めるように力なく微笑んでから、ムラの西側へと駆け出した。パタパタと軽快に鳴る下駄の音を楽しみつつ、セキは食堂のムベに二人分のイモモチを注文した。赤い空の異変が解決して以来、コトブキムラの人々はコンゴウ団やシンジュ団の訪問に、より寛容になった。これもまた、無害を貫き貢献を続けたあの少女が起こした変化のひとつに過ぎない。

 *

「おまえ、オレのこと大好きなんだってなあ」

 熱いお茶を一口だけ含んでから、彼女は一口目を大きく開けてイモモチを頬張った。目を伏せて噛み締めるようにして、それが白い喉を滑り落ちたと思しきタイミングで声を掛けたのだ。

「……」

 彼女はその指摘を受けても、喜劇よろしく派手に噎せ返るようなことはしなかった。ただ伏せていた顔を勢いよく上げ、目を大きく見開くのみだった。しばらくそうして固まっていた彼女は、はあと小さく溜め息らしきものを吐いてから、歯型の付いたイモモチをそっと小皿の上へと戻し、降参したかのように真っ直ぐセキへと向き直る。
 ああそうとも、おまえのそういう、慎重だが度胸があって潔いところがいっとう好ましいんだ。

「ど、どなたから聞いたのか知りませんが、そうですよ。貴方のこと大好きです」
「へえそうかい」
「でも私の気持ちをそんな風に笑いながら揶揄う人だと知って、今、少しだけ貴方のことが嫌いになりました」
「おいおい待ってくれ、そんなつもりじゃねえって! 今日は相談に来たんだ。実はオレもおまえが大好きでね、奇遇なこったと喜んでたところだったんだよ」

 慌てて弁明の言葉を連ねたせいで、いとも容易くこちらの想いを開示する結果となってしまったことにセキは更に焦る。なんて滅茶苦茶な告白だろう、もう少し理知的に伝えるはずではなかったのか。
 ただ、結果的に彼女の鋭く細めていた目が再び驚きに丸くなり、今度はその白い頬がぱっと濃く染まりさえしたので、まあこれでいいか、とセキは照れたように笑いながら自分を納得させるに至ったのだった。

「あの、私の気持ちをおもちゃにしているのなら」
「さてねえ? オレが悪巧みをしているかどうかくらい、おまえならすぐ分かりそうなもんだがなあ」
「……」
「当ててみろよ。オレが本気でお前を好きなのか、それともただ揶揄っているだけか」

 自分の顔が、彼女のようにとまではいかずとも、この夕暮れの中でもはっきりと分かる程度には赤くなっていることを自覚した上でそう告げてみる。茹だった顔で真っ直ぐにこちらを見つめてくる少女を、同じだけの誠意をもって見つめ返す。僅かばかりの沈黙を挟んでから、彼女は安心したように肩の力を抜いてくたりと笑った。

「すぐに信じられなくて、ごめんなさい」
「いいや、構わねえさ。おまえだって、本気でオレを疑っていた訳じゃなかったろう」
「確かにそうですね。普段から目を掛けてもらっているという自覚はありましたから。急にこんなことを言い出したのだって、悪意あってのことではきっとないだろうと」
「おうおう、分かってんじゃねえか。その通りだ」

 安心したように微笑んでから、イモモチの続きへと手を伸ばす。今度は小さめに口を開けて味わい、お茶を挟んでまた一口、ぱくりといった。

「相談って、このことですか?」
「そうそう。折角、両想いってことが分かったんだ。オツキアイってやつをオレとおまえでやってみてもいいんじゃねえかと思って、提案に来たんだ」

 オツキアイ、と彼女の口がゆるく動いた。まだその単語が意味するところにピンと来ていない様子だった。無理もないことだろう。彼女がその手の類に堪能なようには見えないし、こちらの世界に落とされてからはそんなことにかまけている暇などなかったはずだ。セキ以上に、彼女には時間がなかった。とにかく生きるための時を回すのに必死で、誰かを慕ったり頼ったり、結べた絆に喜んだりすることこそあれど、そこから先を考えたことなどなかったに違いない。
 などと、自らもその手の経験や知識は彼女と似たようなものであることを棚に上げつつそのように考えたセキは「そうだよな、よく分かんねえよな」と柔らかく笑って、彼女の難しい顔に同意を示したのだった。

「変に身構えるこたあねえよ。ただ『二人きり』を楽しみやすくなるってだけの話だ」
「二人きり?」
「ああ、こうやって食事をしたり、調査に出掛けたり、賑やかになった町の通りを冷やかして回ったり……そういうことがもっと気軽に、頻繁にできるようになる」

 食事なら今まさにこうしてできているのだから、別に今のままで問題ないのでは? と、難しい顔のままの彼女が無言のうちにそう問うているような気がして、セキは「まあ待て、まだ続きがある」と宥めるように笑いながら付け足した。

「おまえとオツキアイをしているんだから、オレは当然、他の子を軽率に食事に誘ったりしなくなる。つまりおまえは焼きもちを焼かなくてよくなる」
「えっ? ふふ、そっか、焼きもちかぁ。あまり焼いたことはないけれど、でもその心配がオツキアイによってなくなるのは、確かに魅力的ですね」
「おっ、そう思ってくれるか。まだあるぜ。オレたちのオツキアイが周りに知られれば、オレたちが二人でいるところに周りは『配慮』をしようとする。今はお楽しみ中だから水を差すのはやめておこう、と大抵の奴は考えるだろうよ。要するに『二人きり』を長く楽しめるようになるワケだ」
「それも……そうですね、いいかもしれない。ちょっと恥ずかしいけれど」

 慎重派の彼女がこれだけの好印象をセキの提案に抱いてくれている。嬉しい驚きにセキの心臓は高鳴った。これは今日中に同意を得られるかもしれない、と、お決まりの「時間」に絡めてそんな期待さえしてしまう。

「何より、おまえがオレの恋人になってくれると、オレが嬉しい」
「ふっ、あはは! そうですね。私も多分……貴方の恋人になれると嬉しい、かな」

 全く言葉を濁さない告白にだって、ほら、同じだけの想いがこんなにも真っ直ぐ返って来るのだ。セキの心地で言うならばもうこれだけで十分すぎる程ではあったのだが、初志として「オツキアイを持ちかける」というものを掲げて来た以上、達成して帰らねば漢が廃るというものである。
 故にセキは彼女の返事を待った。示し得る利点はもう既に出し尽くし、手札は全て切っている。あとは彼女に委ねるだけだ。彼のそうした潔い沈黙を汲み取ったかのように、彼女は二つ目のイモモチをこくりと飲み込んでから、真っ直ぐにこちらを見て頷いた。

「一つだけ、お願いしたいことがあるんです。守ってくれますか?」
「お願い? 内容にも依るが……まあ言ってみな」

「私を神様みたいにしないで」

 真剣な表情から飛び出した、セキの想像の斜め上を行く「お願い」に、思わず「あん?」と怪訝な声を上げてしまう。彼女は困ったように笑いながら「最後まで聞いて」とセキを宥めつつ、そのお願いの続きを実に丁寧に、言語化してみせた。

「貴方が、大事な相手をこの上なく丁寧に想う人だってこと、分かっているつもりです。貴方が神様と崇めるディアルガだけじゃなくて、パートナーとして連れているリーフィアたちにも貴方はとても丁寧に想いを向けている。その、ヒトとは異なる生き物に向けられた、貴方の丁寧な信仰のかたちを見ているのが、私はとても、好き」
「へえ……そりゃ初耳だ。そんな風にオレのことを見てくれていたのかい」
「そうですよ。ずっと尊敬していたんです。ただ……私はポケモンでも神様でもありません。生きてきた世界は確かに違うけれど、貴方と同じ人なんです。だから私に信仰は要らない。神様みたいに崇めたり、丁重に扱ったりしないで」

 生まれてこの方、シンオウ様一筋で過ごしてきたセキの在り方、ポケモンに対する敬意を好ましいものとして認めつつも、自分をその括りに入れてほしくはないのだと彼女は言う。信仰も敬意も欲しくはない、ただの女の子として自分を見てくれればそれでいい。彼女が言いたいのはおそらくそういうことだ。実に彼女らしい「お願い」だとセキは思って、すこぶる嬉しくなってしまった。だって、なんともまあ、健気で愛らしいことじゃないか。
 ならばこちらからも、示しておかなければならないことがある。

「そんじゃあ、オレからも一つ言っておこうかな」
「は、はい、どうぞ!」
「オレもおまえを尊敬している。ボールに収めたポケモンたち、一匹一匹と確かな信頼関係を結ぶお前をな。ディアルガさまとさえ絆を結んでみせたその手腕を今更疑ったりしねえよ。ただ……それと同じようにして、オレに接してくれるな」

 セキにも彼女にも「信じる力」がある。セキのそれはシンオウ様に裏付けされた強い「信仰」の賜物であり、彼女のそれはポケモンとの交流を通して地道に積み上げてきた「信頼」の形をしている。その信じる力をもってすれば、互いのこうした、ちょっと捻くれた、けれども大事な願いを正しく汲み取ることだって造作もない。
 互いに互いのことを知っている。互いが誠実な人であることを知っている。互いへと抱いている好意に一点の曇りもないことだって、もうとっくに分かっている。分かった上で彼女はセキに、彼の得意な誠意の示し方、その信仰を捨ててほしいと乞うている。セキもまた同じように、彼女の得意とする信頼の結び方を手放して、ただ自分と向き合ってくれと願っている。
 互いに為した願いの開示。これもきっと、同じだけの重みをもって互いの胸に届いているはずだ。

「いいか、オレたちは神様と人でもなく、人とポケモンでもなく、ただの人同士として想い合う、そんなオツキアイをするんだ。きっとオレにとってもおまえにとっても難しいことになる。大好きだと思っているだけじゃ、どうにもならねえことだってきっと起きる」
「……はい」
「それでも、オレはおまえとそうなりたいと思ったから今日、此処に来たんだよ。おまえがオレと同じ気持ちを持ってるって知って、いてもたってもいられなくなった。明日まで待てそうになくて、慌ててすっ飛んできたってワケだ」
「ふふ、こんな夕暮れ時に?」
「ああその通り、時間を無駄にはできねえからな!」

 いつもの言葉を楽しむように彼女は目を細めて柔らかく笑う。その笑顔を眩しがるようにセキの目もまた細くなる。
 神様でもポケモンでもない、同じ人間の女の子。異なる生き物に向け続けてきた信仰でも、異なる生き物を理解するために積み上げてきた信頼でもない、もっと別の何かを彼女に向けて、もっと別の何かを彼女と結べたなら。

「改めて訊くぜ。オレの恋人になってくれるか?」

 そうした決意と共に差し出した手を、彼女は躊躇うことなく笑顔で握ってくれた。

「よろしくお願いします。オツキアイ、きっと楽しいものにしましょうね」
「……ああ、勿論だ!」

 いつかのように叫び出したくなる。喜びのままに咆哮したくなる。それらの子供っぽい衝動を何とか堪えて、大声で返事をして、握った手に力を込めるだけに留めておく。彼女は痛い痛いと苦笑しながら、けれどもしばらくセキのしたいようにさせてくれた。
 きっと前途は多難だろう。互いにろくな経験がない以上、承知の上だ。探り探り恋人をやっていこう、相応しい形を探していこう。喧嘩だってしてやるさ、それが互いの理解に必要なことなら、全力で、何度だって。

「私、貴方の信仰の形を見ているのが好きだって言いましたけど、勿論、他にも好きなところはあるんですよ。例えば、時間を無駄にしないようにって心掛けている、その厳格で几帳面な生き方とか」

 握り合った手をそっと離しながら、彼女はそんなことを口にする。褒められること、好きだと言ってもらえることは嬉しいものだ。それがたった今、恋人になったばかりの彼女の口から出てきた言葉であるならば、尚のこと。
 だが。

「でも、たまには無駄なこともしてみませんか?」
「無駄なこと? 例えば?」
「今からこのムラの南にある、始まりの浜へ一緒に行くんです。日がゆっくり沈んで、海が夜色に変わっていって、そこに星の光が落ちていって……。そんな景色を眺めながら、他愛もないお話を二人きりでするんです。好きな食べ物のこと、新しく買った着物のこと、黒曜の原野に大量発生したポケモンのこと、他にも沢山」

 セキはどうにかなってしまいそうだった。歓喜、混乱、焦燥、衝動、そんなもの全てが一気に押し寄せてきて、パニックになりかけさえしていた。
 だってそれは。それは……あまりにも、楽しいことではないか? 二人きりを満喫し、彼女のことを知り、念願叶って恋人になれた喜びを噛み締めるのに、それ以上に相応しい「時間」など最早在り得ないのではないか?

「……」

 それを「時間の無駄」に分類するようないけ好かない奴だと、この恋人に思われているのなら、そんな間違った認識は正してしまわなければならない。そう、今すぐに!

「舐められたもんだ。そんな最高にイケてる時間を無駄だと思われて堪るかよ!」

 離したばかりの彼女の手を強く掴み直し、勢いよく立ち上がった。ご馳走さん、と食堂の奥にいるムベへと声を掛けてから、セキは彼女の手を引き、ミオ通りを全速力で駆けた。彼女はそんなセキの初動にこそ声を上げて驚いたものの、すぐにクスクスと笑いながら同じように立ち上がり、セキの俊足にもしっかりと付いてきた。小柄な少女の歩幅に合わせて駆けることを失念していたと気付き、しまった、と反省しながらも、チラと横目に見た彼女がとろけるように笑っていたので、ああもういいか、と同じように笑みを溶かしてみることにしたのだった。

2022.2.8

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