おそらくは愛と呼ぶべき

3:後日談「天を割る愛しみ(かなしみ)と共に死のう」

 満月なので、と嬉しそうに手を引く彼女に連れられ、天冠の山麓にセキは来ていた。夜にはズバットやゴルバットがたむろする険しい山麓であるが、このフェアリーの泉付近では野生ポケモンも比較的静かで落ち着いたものだった。葵色の花畑の近く、生い茂った手頃な草むらに身を隠して息をひそめる。さて、目当てのピッピたちはいつ頃訪れるだろうかと考えていると、隣からそっと小ぶりの竹皮が差し出された。

「今日のおにぎりは俵型ですよ」
「へへっ、そいつはいいやあ。今食ってもいいのか?」
「そのつもりでした。ピクニックみたいでしょう?」
「よし、そんじゃあ頂こうかな。おまえの分もあるんだろう? 全部開けちまおうぜ」

 オツキアイを始めたばかりの頃、おにぎりの形について、球型派か三角型派かと喧嘩一歩手前の議論を交わしたことを思い出しながら、セキはにこやかに笑いつつ竹皮に包まれたそれを受け取る。
 球体派のセキと三角型派の彼女の間を取る形で、彼女はその後、いろんな形のおにぎりを考案してきた。サイコロ型、イモモチの形に似た平たい丸型、変わり種では星型なんてものもあった。器用なもんだとその都度感心しながら、大口を開けて頬張り、適度な湿気を含んだ海苔で指と歯を汚すのがセキは好きだった。咀嚼の間に何度も「美味い」と口にするのも、最早お決まりである。

 二つ目のおにぎりがセキの口に消え、六回目の美味いが零れ出たところで彼女が小さく咳払いをする。照れたように赤らむ顔を楽しみながら、セキは持参していたお茶をぐいとやった。

「もう、分かりましたってば! 大体それ、形が違うだけで味はいつもと同じですよ」
「そうかい。じゃあいつも美味いってことだな!」

 飲むかい、と竹製の水筒を差し出す。照れて益々赤くなった彼女は、くたりと下がった眉のままに笑いながら、躊躇うことなくセキの水筒を受け取り、頂きますと小さく呟きつつ口を付けた。間接キスなるものに浮かれたり恥ずかしがったりしていた頃が最早懐かしくさえ感じられる。あの日は確か、互いに真っ赤になった顔を揶揄い合い笑い合うことで、おにぎりの形への頑なな拘りを、双方上手い事押し流して忘れることに成功したのだっけ。

「そろそろピッピが来る頃ですね。今日は何匹、いるかなあ」

 ムラや集落の外に遠出する際には、彼女が軽食を、彼が水筒を用意する。そんなルールをどちらからともなしに作り上げ、セキと彼女はそれなりの頻度で二人きり、ヒスイの大地を駆け回った。彼等の遠出は「デート」とするには過酷で物騒な道のりであることの方が多かったが、たまに訪れる穏やかな時間の中には、それこそ恋人に相応しい空気が生まれることもあった。
 その貴重な時間を、セキは彼女の手を握って歩いたり、至近距離で頭を撫でて笑い掛けてみたり、雪原の寒さのせいにしてきゃあきゃあと騒ぎながら抱き締め合ったり、星空の美しさに乗じる形で唇をつつくだけのキスを交わしたりして、決して無駄にすることなく過ごした。彼女はそんなセキのあらゆる行動を、穏やかな笑みと共に握り返したり、もっと撫でてと甘えるように強請ったり、子供のようにはしゃいだり、顔を真っ赤にして泣きそうに笑ったりすることで受け止めてきた。
 彼等の恋人としての歩み、オツキアイの進展を概ね知る人々の中には、早すぎるのではと案じる者も随分のんびりしたものだと微笑ましく見守る者もいた。だが誰に何を言われようともセキは気にしなかった。時間を無駄にするべきでないのは勿論だが、雑に食い潰すというのもあってはならないことだ。少なくとも彼女に関することについて、セキは時間も言葉も行動も惜しむつもりはなかった。彼女が欲しがるだけ言葉も行動も与え、彼女が満足するまで時間を注いでやるのだと決めていた。彼女が無理なく喜べるのがこれくらいの距離で、これくらいの触れ合いであるのなら、それこそセキが最も喜ぶべきところであり、その幸福は誰にも否定されるべきものではない。

「あの遠くで動いてる奴、そうじゃねえか?」
「えっ、……あ、ほんとだ。セキさん、もっと伏せて伏せて!」

 ピッピが四匹、いや五匹だろうか、花畑の向こうからとてとてと歩いてくる。ピクシーかと見紛う大きさの奴もいれば、随分と頼りない小ぶりな奴もいたりと、様々だ。ポケモンの体の個体差や能力差については、捕獲能力に長けた彼女が頻繁に調査へと繰り出すことで随分と明らかになってきた。以前ならピッピたちの体格差に目を瞠っていたであろうセキも、今やその差を彼等の個性として、のんびりと眺める余裕さえ出来ている。

 関わることは知ることであり、知ることは分かることでもある。彼女のおかげで、ヒスイの人間はポケモンについて以前よりずっと「分かる」ようになってきた。また、彼女がもたらしたポケモンへの理解は同時に、村人からポケモンへの恐れを引き取ることにも貢献していた。今やコトブキムラのあらゆる場所に、あらゆるポケモンが住み着いている。彼女が連れて来たポケモン、自然に迷い込んでしまったポケモン、特定の住民に懐いているポケモン、様々だ。ムラのあちこちで人々がポケモンと絆を結んでゆく姿はセキの目にも随分と眩しく映った。彼女がこの土地にもたらしたものは計り知れない。その貢献を、変革を、たとえ忘れっぽい人間が歴史の中に置いてきてしまったとしても、ポケモンたちは絶対に忘れないだろう。

 彼女への感謝と崇敬は、この不思議な生き物たちの魂の中、未来永劫、脈々と語り継がれていくに違いないと、セキは彼女と過ごす時間の中で、そんなことを繰り返し考える。
 今だって、満月の夜にこれ程までに美しいピッピのダンスを見られているのも、彼等ポケモンが、彼等を理解するために尽くした彼女のため、何らかの便宜なるものをはかっているように思われてならないのだ。邪魔をしないようにと草むらで息をひそめてこそいるものの、険しい野生を生きるピッピたちにはセキや彼女が隠れていることなどとっくにお見通しで、彼等もまたヒスイに生きるポケモンの例に漏れず彼女に恩義を感じていて、「あなたのためなら張り切って踊ってみせよう」と考えていて……。そうした気持ちがピッピたちをここまで美しく踊らしめているのだと、そんな風にセキは考えたくなってしまうのだ。自分は、そんな彼女に向けられた感謝と祝福の形の一部を、おこぼれとも呼べる形で享受しているに過ぎないのではないかと、そんな風にも思われてしまうのだ。

「綺麗……。お月様が丸いのが本当に嬉しいんですね、ピッピたち」
「ピッピやピクシーは宇宙から来たポケモンとも言われているらしいからなあ。故郷がはっきり見えるのが嬉しいんじゃねえか、きっと」

 宇宙から、と彼女はセキの言葉の一部を受け取り繰り返す。一頻り踊って月の光を体いっぱいに満たしたと思しきピッピたちは、光を浴びて一回り大きくなったように見える体でふわふわと飛ぶように去っていった。彼等の通った場所には薄く光る足跡が残っていて、折角月から受け取った光の一部を早速取り落としている、その少々間抜けな様に、思わず笑いたくなってしまった。

「帰りたいのかな」

 彼女が隣でぽつりと、そんなことを言わなければ、セキはそのままピッピたちの足跡を指差して笑っていたはずだったのだ。
 分かっている。ピッピの話だ。故郷である宇宙を恋しく思っているから満月の夜に踊るのだろうかと、そうした趣旨の呟きであり、そこに他意を含めて考えるだけの時間的猶予はほとんどなかったはずだ。

「帰りたいのか?」

 それでもセキはいてもたってもいられなくなって、駆け引きも何もなく、ただ反射的にそう尋ねてしまった。え、とこちらに顔を向けた彼女は、けれどもセキの表情から「このデートを切り上げて帰宅したいのか」と問うていると考えてくれたらしく、朗らかに笑いながら首を振る。

「いいえ、折角ですからもう少し遊んで帰りましょう! ピッピが踊った後の花畑は、月の光を集めて宝石みたいに光ることがあって、……あ、ほら! あの辺とか!」

 するりと彼女の手がセキから離れる。草むらから飛び出して葵色の花畑へと向かい、月の光が残るその場所でくるくると回ってみせる。恋人であるという贔屓目を差し引いても、その姿はあまりにも完璧すぎた。彼女が「この世界の人間ではない」ことをセキに改めて思い出させるには十分すぎる程に、幻想的だった。この世のものとは思えない程の美しさを孕んだ、かなしいほどに綺麗な光景だった。

「セキさん!」
「!」
「どうしたの? こっちですよ!」

 花畑の中心に立ち、小さな手で手招きをして笑うセキの恋人。ヒスイの時間を大きく加速させ、赤い空を青く美しいものに戻した歴史の功労者。ポケモンとの絆を結び、彼等にすべからく愛され、神様の加護さえ受けた人。

「はいはい! ちょっと待ってろ、今行くからよ」

 ポケモンという不思議で神秘的な存在に招かれるようにして彼女は空から落ちてきた。今、月の光の残滓を身に纏って楽しそうに花畑を駆け回る彼女に、果たしてこちらの世界への永住は保証されているのだろうか。ヒスイ全ての時間と空間を愛し尽くした彼女を、役目が終わったと判断した神様が迎えに来やしないか? 今は星空に飲まれて薄くしか見えないあの時空の裂け目が、いつか彼女を呼び戻しに来たりはしないか? 愛や加護に恵まれ過ぎているとはいえ、所詮は人間でしかない彼女に、そうした神様の采配に抗う力などないのではないか? 誰もそんな日が来ることを、彼女の喪失を、止めることなどできないのではないか? コトブキムラの住民たちも、デンボクも、セキも、おそらくは彼女自身にさえ。
 神様の采配の前にはきっと等しく無力だ。彼女が望んでもいないのにこの世界へと落とされてきたのと同じように、きっとその時が来れば彼女の望みなど関係なしに、この世界から彼女はまた取り上げられてしまうに違いないのだ。

「……」

 などと、そのようなこと、もうセキは飽きる程に何度も何度も思考し尽くしている。
 いつか訪れるかもしれない別れを思って悲憤し、運命を恨みたくなった一人の夜とて一度や二度では決してない。どうにもならない大きな力によって、ここまで愛した者がいなくなるというのは何度考えても耐え難いことだ。きっと気が狂いそうになる。正気を飛ばさねばやっていかれないかもしれない。それでも。

「わっ! せ、セキさん!」

 呼ばれるがままに駆け寄ったセキは、こちらへと手を伸べた彼女の脇へと両手を差し込み、えいと抱き上げてくるくる回してやった。月の光の残滓がキラキラと二人の間に散る様を、どんな光景よりも美しいその彼女の有様を、一秒たりとも見逃すまいと大きく見開いた目に焼き付けて笑った。

「ね、セキさん、私じゃなくて花畑を見ましょうよ! 本当に綺麗なんですから!」
「ああ知ってるさ。綺麗だよなあ。だが今のオレには、このどれよりもでかくて眩しい花しか見えなくてねえ」

 この美しい花が神の手により摘まれる日を否定することはセキにはできない。その手を振り払うだけの力もない。神様への信仰を強く強く持ち続けてきたセキには、その手を恨みその采配を憎むことなどやはり到底できやしない。

「もしかしてセキさん、恥ずかしい言葉をわざと選んでいません?」
「へへっ。生憎、言葉も時間もおまえに向けるものは欠片も惜しんでやらねえと決めてるんでね、想いのまま口にれば多少恥ずかしくもなるだろうさ。嫌かい?」

 顔を真っ赤にした彼女は、セキに抱き上げられたままふるふると首を振った。キラキラと輝く光の残滓が、長い髪の波打ちと共に夜を小さく舞っていた。
 俵型や星型のおにぎり、使い古された竹皮、山麓の隙間で過ごす夜のピクニック、ピッピたちの光る足跡、涼しい風に揺れる葵色の花畑、月の光を浴びて屈託なく笑う少女、海苔で汚れた歯を隠しもせず満面の笑みで彼女を抱き上げる恋人。彼女が好みセキが愛した全てが此処に揃っていた。足りないものなどあるはずもなかった。

「いいえ。貴方に見てもらえているんだもの、嬉しくない訳ないじゃないですか!」

 笑い合う。時が流れる。夜が更けていく。満月の位置が高い。そろそろ本当に帰らなければいけない頃だろう。やや乱暴に彼女をぎゅうと抱き締めてから花畑の上にそっと下ろし、にっと笑ってベースキャンプの方を指差した。彼女の方からそっと伸ばしてきた手を力強く取り、そのまま歩幅を僅かに小さくして二人は山麓を歩いた。どちらからともなく振り返れば、先程まで遊んでいた花畑に一匹のピクシーが佇んでおり、短い手でぴょこぴょことこちらに手を振っているのを見つけることができた。繋いでいない方の手でそれぞれ振り返せば、ピクシーの喜びを代弁するかのように、月の光を浴びた花畑、その全体がふわっと淡く光った気がした。
 今日のデートはこれでおしまい。次にセキの予定が空くのは九日後のこと。今度は海に繰り出してみようか、と考えながら握った手に力を込める。九日後ならまだ「迎え」は来ないだろうという、楽観的な予測と共に彼女との未来を当然のものとして喜ぶ準備を、する。

「ふふ、楽しかった! 一緒に来てくれてありがとうございます」
「こっちこそありがとうな。珍しいものも見られたし、おにぎりも美味かった。いい夜だな、今日も」
「そうですね。今日も……とってもいい日でした!」

 時間が、もっと早く進んでくれやしないかと、こんな時、セキは考える。その過ぎ行く時間の中に山程の、うんざりされてしまうくらいに多くの思い出を詰め込んでしまいたいと思うのだ。今日、この夜、今こそが何にも替え難い時間であるのだと、彼女に確信せしめたい。そんな時間を何度も何度も繰り返していたい。楽しく幸福な記憶、此処に来られてよかったと思えるような思い出、そうしたもので彼女の時間をいっぱいに埋め尽くしたい。
 そうしていつか、神様の御心で彼女を存在ごと取り上げられるようなことが起きたとしても、その時彼女が感じるのが「やっと元の世界に帰れるんだ」という歓喜や安堵ではなく「帰りたくない、ずっと此処で生きていきたいのにどうして」という憤りや悲しみや寂しさであるようにしたい。そう思ってもらえるような時間をもっともっと重ねていきたい。セキが一人で数えきれない程に抱き続けた悲憤や孤独と同じものを、もしその時が来たならば、彼女にもどうか、どうか、抱いてほしい。

 いつかのその時には二人、時空さえ飛び越えてかなしみ合っていたい。

「満月、綺麗だったなあ」
「! ……ええ、本当に。死んでもいいと思えるくらい!」
「はぁ!?」

 とんでもないことを言い出した彼女に、驚きのあまり声をひっくり返す。いきなり何を言い出すんだと焦るセキに、彼女はお腹を抱えて笑いながら「今のは古い文学の言葉で『貴方のことが大好き』って意味なんですよ」と、セキの不安を引き取りつつセキよりもずっと恥ずかしい言葉を歌ってみせた。

2022.2.11

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