不可視の星を集めて

2

「野垂れ死ぬなとの命令、よく守ったな」

 異変の調査を進め、無事に戻って来た彼女には、ケーシィの派遣がこちらの仕業であることなどお見通しであるようだったが、シマボシはいつもと変わらぬ表情で「ケーシィが勝手にやったこと」としらを切り通した。彼女は嬉しそうに笑いながらも、それ以上を追求することはせず、ただ自身の中で納得したように「ありがとうございます」と、よく通る高い声で二回、繰り返すのみだった。

「無事に帰還せよ!」

 お決まりの命令を添えて再び少女を送り出しながら、シマボシは改めて自らの「弱さ」を省みる。優秀な団員である彼女にしかできない任務はきっと今後も尽きることがなく、このヒスイ地方において、調査と名の付くものはすべからく死と隣り合わせだ。昨日まで無事であったという事実が今日の無事を保証してくれるはずもなく、シマボシは彼女に任務を命じる度に、祈りと不安、歓迎と安堵を繰り返していくに違いないのだ。
 どうか死んでくれるなと祈り、突拍子もない不運が彼女を襲ったりしないかと不安に駆られ、只今戻りましたと告げる明るい声をいつもの仏頂面で歓迎し、内心ではよくぞ無事でと心臓を撫で下ろし……。
 優秀な手放し難い部下である。大切なかけがえのない仲間である。頼られ慕われ尊敬された分だけ、身寄りのない彼女へと目をかけ続けることができればと考えている。

『私は私の意思で貴方を慕い、貴方を信じて、貴方がくれる言葉を喜んでいます』
 彼女のように真っ直ぐな言語化まではできずとも、こちらが彼女を憎からず想っていることくらいはせめて伝わっておいてくれと、シマボシは心の底からそう願っている。

*

 赤い空に星と月が戻り、祝いの花火が次々に打ち上がる賑やかな夜。少女もその賑やかさの例に漏れず、こちらの世界で出会った数多の知人に囲まれ、満面の笑顔ではしゃいでいた。一通り、全員に挨拶を終えたと思しき彼女は、迷うことなくこちらへと振り返り、大きく手を振ってパタパタと駆けてくる。下駄の立てる軽快な音を心地よく思ってシマボシは思わず目を細めた。
 いつか、調査の報酬で購入したのだと言って、鮮やかな承和色の下駄を見せてくれたことがあった。ただ履き慣れない代物だったのだろう、ひどい下駄ずれを起こして足指の隙間に痛々しい傷を付けていたことを覚えている。足への負担が少ない草履に履き替えてはと告げても、これを履きこなせるようになりたいのだと彼女は頑として譲らなかった。そうして長く懲りずに履き続けた結果、今ではもうすっかりこの世界の履物にも慣れたようだ。その承和色が下駄ずれにより赤く滲むことも、彼女が痛みに眉をひそめることも、きっともうないのだろう。それだけの時が長く長く流れ、それだけの空間を広く広く駆けたのだから。

「上品な色の着物、素敵です。イモモチはもう食べましたか?」
「世辞なら結構。無論、しっかり頂いた。キミこそ挨拶回りばかりでろくに食べていないのでは?」
「ふふ、そうなんです。だから此処で、貴方とお話をしながら食べようと思って」

 いいですか、と尋ねてきたので、許可する、といつものように短く返した。隣のケーシィがふわりと浮き上がり彼女に席を譲る。お礼を告げて木椅子へと座り、ムベからイモモチを受け取って、一口目をやや大きめに開いて満面の笑みで頬張った。

「キミの着物も良い柄だ。赤い帯、よく似合っている」
「えっ!? お……お世辞ですか?」
「そんな無駄をわたしは口にしない。似合っているから似合っていると言った。悪いか」

 その小さな手からイモモチが転がり落ちないだろうかと案じながらそう告げる。彼女はやや赤い顔で激しく首を振りながらも、一口だけ食べたそれを取り落とすようなことはしなかった。

「私だってお世辞は言いませんよ。素敵だと思ったから素敵だって言ったんです」

 同じように言い返して笑い、二口目を今度は小さめに開いた口で食べる。シマボシは「そうか」とだけ告げて、彼女のささやかな賛美を受け取ることにした。「ありがとう」を言える程、シマボシは喜びというものに素直な質ではなかったため、おそらくはこれが彼女の限界であり最大の誠意であったのだろう。それを理解しているかのように、少女はひどく嬉しそうに笑った。
 ケーシィは傍でそんな二人の一部始終を見ていたが、少女がイモモチを食べ終えたタイミングでそっと彼女の膝に下りた。彼女は勿論、嬉しそうに笑って歓迎の意を示し、その小さな訪問者を袖から伸びる細腕で抱きかかえるのだった。

「よくぞ無事で帰還した」

 その横顔にそっと告げる。彼女は弾かれたように顔を上げ、元気よく返事をする。

「はい。只今……戻りました!」
「ああ」
「貴方から頂いたお守りのおかげで、私、頑張れたんですよ」

 お守り? シマボシは僅かに眉をひそめつつ「はて、覚えがない」と告げる。彼女が着物の袂から取り出したのは、小さく折り畳まれた紙だった。シマボシがいつも執務に使っているものと同じ材質。まさか、という心地と共にその正体へと思い至るのと、彼女がその紙を広げてこちらに見せるのとが同時だった。
 異変の容疑者としてコトブキムラを追われた彼女に便宜をはかるべく、ケーシィへと持たせた一枚の紙。慌てて書いたが故にその文字はひどく雑で、メモ書きの方がまだ読みやすい程であった。こんなものを、と呆れてやろうとして、シマボシはふと気付く。

『この異常事態の調査をいちはやく終えることを信じている』

「……」

 読み返すのが恥ずかしく思われる程に乱雑な己の字、その最後の言葉「信じている」の文字だけ妙に薄くなっている。更には強く握られたからか、もしくは水に落としでもしたのか、その部分だけ紙面が異様に歪んでいるのだ。彼女がどんな心地でこれを読んでいたか、どんな想いでこれを「お守り」としていたか、もう手に取るように分かってしまう。その消えかかったくしゃくしゃの「信じている」があまりにも雄弁に示している。大きすぎる衝撃に、時がほんの一瞬、止まりさえした気がした。

「そんなものが……役に立ったのなら」

 人前では一度も泣き姿を見せなかった彼女の、色濃い涙の痕跡にやや動揺しつつも、その感情の揺らぎに自分の文字が寄り添えたこと、その涙を自分の手紙が引き取れていたことを、シマボシは誇りに思いたくなった。
 そして、次はもう少しマシなものを進呈しよう、と思った。そんな走り書きの言葉ではなく、もっと整った、お守りらしいものを。彼女が今後、また苦難に苛まれ泣くことがあった時に、歪まず薄れず消えることなく、確かな形と輝きで彼女を支え続けてくれるようなものを。

「キミでも泣くことがあるんだな」

 え、と上擦った声を上げる彼女にやや悪戯っぽく口角を上げてみせたところ、彼女はその手紙を盾にするかのように掲げて己の顔を隠した。真っ赤な耳と、くしゃりと潰れた手紙の音を、シマボシは当分忘れることができないだろうなと思った。

*

 シマボシの考える「もう少しマシなもの」を贈与する機会は思いのほか、早くに訪れた。ポケモン図鑑を完成させ、団員ランクをマンテンボシにまで上げるという偉業を為した彼女へ、追加の報酬と称してそのお守りを渡すことに何の不自然さもなかった。
 十のホシを集めた彼女にシマボシが追加でもう一つ贈ったそれを、案の定、彼女は肌身離さず持ち歩いた。このお守りを貰ってから、調査先でもよく「星」に出会うようになったのだと嬉しそうに報告する彼女の話に、シマボシは静かに相槌を打った。世界の危機を乗り越え、ひとつに団結したヒスイ地方で住民たちが流したのは、そうした、ただただ穏やかで歓迎すべき時間だったのだ。

「この世界におけるキミの地位、および居場所はこれで確固たるものとなった。もうキミは何処ででも生きていかれるだろう」

 彼女が十のホシを集めた日、シマボシはそう告げた。彼女は褒められたことをいつものように大はしゃぎで喜びながらも、その後でやや不安そうに眉を下げつつ、こう言ってくれたのだった。

「私に選ぶ権利があるのなら、世界の許してくれる限り、此処にいたい」
「歓迎する」

 食い気味な返事になってしまったことを後悔しながらも、そのたった一言を受けて彼女は本当に嬉しそうに笑った。シマボシも僅かながらに微笑みかけようとして、けれども上手くいかないような気がしたため思い直した。慣れないことはいつ何時たりともするものではない。それに笑顔を作らずとも、その「歓迎する」が本心であることくらい、きっとこの少女にはちゃんと伝わっている。

「これからも変わらぬ働きを期待する。団長の呼びかけには即座に応じること。そして何処へ調査に行くのも自由だが……必ず、無事で帰ってくるように」

 はい、と力強い星の瞳で彼女は返事をする。鞄に吊るされたお守り、シマボシが贈与した十一番目の星が大きく揺れて煌めく。こちらからも力強く頷き返してゆるく目を細めてみる。これで少しは、柔らかい表情になっているだろうか。

「でも、具体的に目指すものがなくなってしまうのは少し寂しいし、怖いですね」
「怖い? 何故だ」
「だって、此処で増やせる『ホシ』はもうないんでしょう? 目に見える形で貢献し続けていなければ、役に立っているっていう証がなければ、貴方や皆さんからの信頼も、いつか揺らいで、消えてしまうんじゃないかって」

 その言葉を受けて、シマボシの意識が一気にあの日へと引き戻された。彼女が見事な捕獲術により入隊試験へと一発合格したあの日。多くの人は分かりやすいものを好むものだと告げたシマボシの言葉に、彼女がひどく悲しそうに笑って同意を示した、あの日。

『見えないものはまやかしでしたね。信頼も、絆も、いつかは揺らいで、消えてしまうものなんですよね』
 その通り。見えないものはまやかしである。分かりやすい、目に見える分かりやすい功績や評価こそ好まれる。信頼も絆も目に見えない。故に揺らぎやすく、容易に消える。

「いや」

 だが。

「今のわたしは見えないものでも信じるさ。キミがそうした」
「……」
「キミが積み上げた功績、続けた献身、賭した想い。それらがわたしを含め、ムラの人間に見えないものを見る力を養わせた。信頼、や、絆、とでも呼ぶべきものだ。キミが本当に成し遂げたのは『そういうこと』なのかもしれないな」

 ある意味、ポケモン図鑑を完成させることよりも、十のホシを集めることよりも、ずっと難しくずっと尊いことだ。その偉業こそ、今後ずっとこのヒスイ地方において輝き続ける大きな星となるに違いないのだ。

「キミならこれからも、そうした類の、見えない『星』を増やしていけるだろう。わたしはそう信じている」

 信じている、の音を受けて、彼女は堪え切れなくなったようにくしゃりと表情を崩した。あの手紙が潰れた時のような感覚に似ているな、などとほんやり思っていると、その目からいきなり大粒の涙が溢れ出てきたので、シマボシは思わず書類の束を机に取り落とし、立ち上がってしまう。彼女へと駆け寄ってその肩を掴もうとした瞬間、その細い喉が涙声でこんな音を返してきた。

「貴方に」
「!」
「貴方に、そんなことを言ってもらえるなんて」

 見えないものはまやかしである。いつかは揺らいで消えてしまうものである。その節理を踏み越えて、彼女は見えない星をこのヒスイへと散りばめるに至った。我々は彼女のおかげで、見えないものを見る力を養うことができたのだ。

 だが、彼女は違う。

「……」

 彼女にはもうずっと前から「我々には見ることの叶わない何か」を見る力がある。

 今もまた、シマボシには決して見えない何かを見ているに違いないのだ。彼女にしか見えないものが与えてくる「懐かしさ」が、彼女を泣かしめているに過ぎないのだ。
 彼女はシマボシを通して、シマボシの向こうに何かを、あるいは誰かを見ている。彼女のそうした不思議な目はおそらくシマボシにのみ向けられているものではない。その視線の先の懐かしさには、テルや団長、他にもきっと大勢、含まれているのだろう。

 誰を重ねているのか? 何を探しているのか? いつか話してくれるのだろうか? 理解できる時が来るのだろうか? 彼女が何処から来た人間で、何を自分に重ねて見ていたのか。何を懐かしみ、何を恐れ、何を不安に思い、何を喜んでくれていたのか。
 きっと、恐れ慄きたくなるような内容だろう。時空の裂け目から落ちて来ることよりもずっと、突拍子もなくおぞましい真実が、この小さな体の中、大きな魂の奥深くに隠されているに違いないのだ。

 だが信じてみせよう。どんな告白であったとしても受け止めてみせよう。それだけの力をシマボシはこの子に貰った。今更、疑い直すことなどできやしない。
 星は消えない。

「信じている」

 もう一度そう繰り返して、肩を掴もうと伸ばした手を今度は頭上へと持っていった。夜色の髪に浅く指を通すようにして撫でれば、嬉しそうに彼女の目が細められた。両目からコロコロと滑り落ちた透明な二粒、その煌めきも、さて、彼女の増やした星として勘定すべきだろうか。

2022.2.7

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