29 (A, B, C)

A:ミオシティに住む男性の言葉
春は寒いものさ、このシンオウ地方では特に。
4月でも吐く息はたまに白い。5月でも朝晩は凍えるような寒さだ。やっと7月になって温かくなってきたと思ったら、8月半ばにはもう冷え始める。忙しないだろう?

特に海の上を走る、この船の寒さは堪えるなあ。
海の温度ってのは気温よりも2か月くらい遅れて上がったり下がったりするんだ。4月の海は2月の冷たさで、5月の海だってまだ3月程度の温度しかないってことになる。
だから春の海は冷たいって、よく言われるのさ。
……え、なんで海の温度は2か月遅れて動くのかって?さあ、そんな難しいことは知らねえよ。もっと偉い人に聞いてくれ。

とにかく、シンオウの人間は総じて厚着だ。殊にこのミオシティ近辺じゃあ、海の風が春になっても冷たいままだから、誰も防寒具を手放さない。
……確かあの子も、白いマフラーを首に巻いていたな。風の強い5月の頃だった。珍しいお客だったからな、今でもよく覚えている。

その子か?確か5日くらい連続で船に乗ったよ。年は……10歳くらいじゃなかったかな。
鋼鉄島には面白いものなんか何もないぞって言ってやったんだが、どうしても行きたいと言って聞かなくてな。
海を渡っている時に、空を鳥ポケモンの群れが通ったんだが、何やら赤い機械をぴょんぴょんとジャンプしてポケモンにかざそうとしていたな。
聞けば「ポケモン図鑑」というものらしい。その図鑑を埋めながら、ポケモンジムを巡ってバトルをしているんだと。鋼鉄島にはまあ、探索の一環として来たんだろう。

あんなところ、1日もいれば飽きるだろうと思ったんだが、何を思ったのかその子は次の日も船着き場にやって来た。
なんでもあの島であいつと意気投合したらしい。喋りが苦手そうなあいつと話すのが楽しい、なんて言うもんだから、感心したよ。
帰り際に、あの子はあいつから貰ったらしいポケモンのタマゴを腕に抱えていたな。何度もあいつの名前を呼んで手を振っていた。なかなか大物じゃねえかと思ったさ。

それからあの子を見ることはなかったな。……いや、見ていなかったと思っていたんだ。なにせ1か月後に現れたその子が、変わり過ぎていたからな。
身に着けているものは特に変わっていなかったんだが、何というか、その、顔が違ったんだよ。表情の類がごっそり抜け落ちたような、と言えばいいのか……。
笑いもしないし、喋らない。ふわふわした歩き方をしていて、今にも倒れそうだった。恐ろしい程に物静かな女の子になっていた。
ただ、それくらいしか覚えていないんだよ。何せ俺はその女の子じゃなくて、あいつの方に驚いていたからな。

あいつ、野菜を買っていたんだよ。いつもはカップラーメンだとか冷凍食品だとか、そうした、レンジとお湯さえあれば何とかなりそうなものしか買わない奴が、野菜を、大量に。
何が起きたのかと、俺は寧ろそっちの方に焦っていたんだ。珍しいじゃないか、とからかってみたんだが、疲れたような顔で相槌を打つだけだった。

あいつと、あの死にそうな女の子との間に何があったのかは知らないが、二人はしばらく、ジムリーダーの別荘で暮らしていたみたいだ。
何度か二人は船に乗って、ミオシティへ買い物に出掛けていったな。
カーペットやカーテンを抱えて帰りの船に乗り込んできたから、ああ、もしかしたら遠い親戚の子をあいつが引き取ったのかな、なんて邪推もしてみたが、どうやら、違ったようだ。

あの子が5月の女の子と同一人物だと解ったのは、7月の半ばの頃だ。
「船頭さん!」なんて大声で駆け寄ってくるもんだから、驚いたぜ。まさかあの死にそうな子が、あの、元気に鋼鉄島へと駆け出していった女の子と同一人物だったなんてな。
その次の日に、あの子は大きな荷物を持ってあの家を出ていったぜ。もういいのかってあいつに聞こうとしたんだが、……まあ、声を掛けるのは野暮ってもんだったな。

それに、俺が心配するまでもなかったさ。あの子は3日と開けずに手紙を書いて寄越すんだ。勿論、それを届けるのは俺の役目だ。あいつには感謝してもらいたいもんだね。
使える漢字が増えてきたようだ、とか、昨日はそう言って笑っていたな。あいつは今も頻繁に買い物に出掛けているよ。野菜も変わらず買っている。
あの子は一体何者なんだと聞いたら、あいつ、笑いながら「私にトーストの焼き方を教えてくれた先生だよ」とか言っていたが、さて、どうなんだろうな。

さあ、もうそろそろいいか?今日は特別なお客が船に乗るんだ、綺麗にしておかねえと。
またしばらく二人分の野菜を調達することになりそうだ、とか嬉しそうに言っていたから、今度は激辛のカレールーなんか買うなよって、忘れずに冷やかしてやらねえとな。


B:フタバタウンに住む女性の手紙
こんにちは。シンオウ地方の夏は本当に一瞬ですね。もう朝晩は涼しくなってまいりましたが、如何お過ごしでしょうか。

先ずは、あの子を3週間もの間、貴方のご自宅に置いてくださったことに対する感謝とお詫びをもう一度申し上げます。
稀有な体験を経てこちらでの常識と良識を忘れ、声まで失くしてしまったあの子を傍に置くことは、相当な気力を要したかと思います。申し訳ありません。
あの子がこの家に戻れなかった理由、貴方のあの子に対する誠意を、先日、こちらにお越し頂いた折に話してくださったこと、とても嬉しく思っております。ありがとうございます。

親の私がこのようなことを貴方に告げるのもおかしな話かもしれませんが、あの子は幼いながらも貴方を純粋に、そして真摯に慕っております。
しかしまだ10歳のあの子は、貴方を困らせることがこれからも多々あるかと思います。
貴方にも貴方の生活があることは重々承知しているのですが、どうか、その生活の片隅にあの子を置いてくださること、心よりお願い申し上げます。

昨日、あの子が帰ってきて、「貴方へ近況を報告するための便箋がなくなった」と困ったように言うものですから、つい、私の便箋を与えてしまいました。
次に貴方の元に届く手紙は、この便箋と同じ色をしていることと思います。
手紙を書いているあの子の手元を覗き込んだのですが、いつの間にかあの子の字は、少し前に比べてとても上手になっておりました。
親として、子の成長を嬉しく、誇らしく思うと同時に、おそらくはその文字の成長に関わってくださった貴方にも、感謝を申し上げます。

次は是非、10月の半ばにお越しください。庭先のリンゴが程良く熟れているでしょうから。


C:ある少女の言葉
面白そうな女の子を見つけたの。10歳の、藍色の髪がとても綺麗な女の子よ。
その子、バトルがとても強いの。特にエンペルトとレントラーの強さには目を見張るものがあったわ。
やっぱりバトルの強さって、生まれ持った才能で決まるのかしら。少なくともあの子にはバトルのセンスがあったわ。とてもスマートでかっこいい指示だった。

ただ、少し好奇心が旺盛すぎるわね。大人しくただ町を巡っていたら、ギンガ団とかいう面倒な連中に目を付けられることもなかったのに。
神話のポケモンが苦しむ姿を見て、「悲しい」と心を痛めることもなかったのに。
怪物みたいなポケモンに食べられる男を見ることも、自らがあの、裏側の世界に飛び込むこともなかったのに。

あのポケモンと対峙して、勿論、あの子は逃げたわ。恐ろしかったのでしょうね。やっぱりどんなにバトルが強くても、心は10歳の女の子の域を出なかったのよ。
そうしたら、男が自棄になって浮いた島から身を投げたものだから、その子、びっくりしちゃって。
一度は外の世界に戻ったんだけど、何を思ったのか、しばらくして戻って来たの。それでこの裏側の世界から出ていくことをしないまま、ぐるぐると閉じた空間を回り続けたのよ。

あの子にはきっと、下に落ちていった男の幻覚が見えていたのでしょうね。
自分のせいであの男が死んでしまったと、この世界の底に飲まれてしまったと、だから自分が何とかして下に辿り着いて、助けなければいけないと、そう思ったんじゃないかしら。

けれどこの広い世界は閉じていたのよ。辿り付ける筈がない。あの子の行きたいところに道を空けてくれる程、この世界は部外者に優しくないの。
この世界を自由に泳げるのはあのポケモンだけ。部外者であるあの子は閉じた順路から抜け出せない。あの子もそれを解っていた筈なのに、それでもぐるぐる回ったわ。
おかしな話よね。立方体のサイコロは6の目までしか出ないのよ。7なんて出る筈がない。仮に7の目を造り出したとして、その7の向こうにある筈の男はただの幻覚なのに。
どう足掻いても、あの子の無限とも思える試行が報われることなんかないのに。

そんな彼女をポケモンが憐れに思ったのでしょうね、その子を元の世界に戻してあげたの。
でもその子にしてみれば、あのポケモンは恐怖の対象でしょう?すぐにマスターボールを投げて、その上からガムテープでぐるぐる巻きにしちゃったのよ。
やっぱり、おかしな話よね。あの子の不毛な無限の試行からあの子を救ったのは、その恐ろしい姿をしたポケモンなのに。
あの子はこのポケモンがいなければ、あの世界で時を忘れているしかなかったのに。

それで、その子は元の世界、……地名としては「送りの泉」というところに戻されたんだけど、少しおかしなことが起きたの。
その子、歩くことができなかったのよ。あのポケモンを捕まえた途端、力尽きたみたいに倒れてしまったの。
きっとあまりにも長い時間、向こうに居過ぎたものだから、身体が、頭が、元の世界のことを忘れていたのね。

掟破りのおかしな世界に馴染み過ぎたあの子を、あの子の知り合いの綺麗な女性が見つけて保護したけれど、かなりあの子の扱いに苦労しているようだったわ。
声も出ない、上手く歩けない、ご飯は食べないし眠ろうともしない。そんな調子だから、彼女も困惑して、疲れ果ててしまったみたい。
これ以上は一人では無理だと思ったところで、次の矛先はミオの鋼鉄島に住む、不器用なあの男に向けられたの。そこから先は、……うん、きっと言わなくてもいいわよね。

あと、面白いものを見たから少しだけ紹介しておくわ。
あの子、鋼鉄島の家であの男と3週間くらい、一緒に暮らしていたのだけれど、1週間くらい経った頃から、一人の時に声を出そうと何度も練習をしていたのよ。
喉に手を当てて、そこを震わせようと奮闘していたけれど、なかなか難しいのね。息の音しか零れない日が何日も続いた。それでもあの子は喉に手を当てるのを止めなかった。

あの子はノートに書く文字以外にも、短い言葉や挨拶なら、その口を動かすことであの男に伝えようとしていたけれど、本当はあれだって、喉を震わせるための練習だったのよ。
今度こそ声が出るかもしれないって、ずっと、ずっと繰り返していたの。
それでやっとあの日、あの子の喉が震えたの。「おはよう」って、ようやく声にすることができたのよ。

数え切れない程に繰り返して、ようやくあの子のサイコロは7の目を弾き出したわ。
無限に続くかと思われたあの試行は、でも無駄じゃなかったのね。7の目を隠し持ったサイコロも、確かにあるのね。

だから、声を出すことの叶ったあの子と、生クリームを泡立て器で立派なメレンゲ状にすることの叶ったあの男が、その後も言葉を尽くして語り合ったとして、想い合ったとして、
それはある意味、似通った二人が惹かれ合っただけの、当然のことだったのかもしれないわね。
心配しないで。あの子もあの男も相変わらず、互いのことがずっと大好きよ。

貴方のサイコロに7の目はあるかしら?


2016.8.24

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