30 (D, E)

D:二人の夕暮れ時
「ねえ、ジェラートを食べない?お金ならあたしが奢るから」

「……そんなものは要らない。用が済んだなら返してくれないか」

「あら駄目よ。あたし、貴方が危ないことをしないように、ヒカリの代わりに見張っていなければいけないんだもの」

腕は離さなかった。少しでも油断すればこの人はあたしの腕をすり抜けて、……いや、誰の手からもすり抜けて、遠くへ遠くへと逃げていってしまいそうだったからだ。
そしてそのまま、二度と現れることがないように思われたからだ。だからあたしは強く、強く彼の腕を掴んでいた。

「いつまでこうしているつもりだ」

吐き捨てるように彼は尋ねる。大きく彫られた隈の上、鋭い三白眼があたしを見下ろす。
けれどあたしはそんなもの、怖くない。あたしはもっと怖いものを知っている。
妹のように可愛がっていた、強くて優しい女の子が、たった数時間で抜け殻のようになってしまったあの瞬間に比べれば、
虚ろな目をこちらに向けてくれさえしなかった、あの時の心臓が止まりそうな戦慄に比べれば、……ねえ、貴方の目なんてちっとも怖くないわ。

「貴方があたしと一緒に何かを食べてくれるまで、この手を離すつもりはないわ」

蒼白な彼の顔、その眉間にしわが寄る。この世の終わりであるかのような絶望を湛えるその表情がおかしくてあたしは笑う。
早くここから逃げ出したくて堪らない、という空気を彼は放っているけれど、あたしはまだ離さない。

「何が目的だ、まさか共にジェラートを食べる仲間が欲しかったわけではないだろう」

「あらそうよ。あたしね、寂しがり屋なの。だから貴方がいてくれてよかったわ」

益々苦い顔をした彼の腕を引き、近くのカフェへと入っていく。
「二人、テーブル席で」と告げてぐいぐいと引っ張っていけば、彼は諦めたように椅子をそっと引いて静かに座った。
もっと自棄になったような、乱暴な座り方をするものだと思っていただけに、あたしは少しだけ驚いた。
その不機嫌の裏に隠れている感情の正体を、あたしは幸いにも読むことができた。それはきっと、緊張だ。彼はこの時間が恐ろしいのだ。
あたしがこの慣れ慣れしい口調の裏に恐怖を隠しているのと同じように、彼も表に出すべき感情と押し留めるべき感情とを使い分けているのだ。

その共通項にひどく安心したけれど、まだだ、と思った。
まだ、貴方を失うことが怖いのだとは言わない。
知っている人があたしの手をすり抜けて、手の届かないところへ行ってしまって、悉く変わり果ててしまうことこそが恐ろしいのだと、
あたしはもうあんな思いはしたくないのだと、けれどまだそんなこと、言ってあげない。

「美味しいものを食べましょう、アカギさん。その後で、貴方の話を聞かせて頂戴」

それを口にして泣きそうに笑える日が来るならば、それはきっと、この人があたしに全てを話してくれた後のことだ。
今はあたしが話す時ではない。

「貴方が自身のことを、こんなところで収まる器じゃないと思うなら、あたしはいくらでも力を貸すわ。だから貴方が、貴方のことをどう思っているのか聞かせて。
でも、今度貴方が道を違えたら、貴方を止めに向かうのはもうあの子じゃないわ。あたしよ。あたしが、貴方を止める」

「……」

「貴方が嫌だと言っても、あたしはずっと貴方を見ているわ」

だから安心してね、とは告げずにあたしは微笑む。微笑んでいる振りでもいいからと目を細める。
このプライドの高い寂しがり屋さんを、あたしは絶対に手放してはいけないのだ。その孤独が招いた狂気に、もう怯んではいけないのだ。
あたしはもう間違えない。あの子にはできなかったことを、代わりに彼がやってくれた。だから今度はあの子の代わりに、あたしがこの役目を負う。大丈夫、きっとうまく笑える。

「あたしと貴方の好きなものが似ていると嬉しいわね。違っていたら、それはそれで楽しいわ。……さあ、貴方の好きな味を教えて?」

呆れたように長く溜め息を吐いてから、彼はメニューに視線を落とした。
「適当に頼んでくれ」とか、「同じものでいい」とか、そうした言葉が飛んでくると思って頂けに、注文を考えるためのその沈黙にまたしてもあたしは驚く。
もしかしたらこの人は、ただ本当に寂しかっただけなのかもしれないと、あたしのこの馴れ馴れしさは彼の孤独を埋められたのではないかと、そんな風に思い上がって息を飲む。

黙ってメニューに落とされた指の先、それを視線で追ってあたしは声を上げて笑い始めた。彼は怪訝そうに不安そうに眉をひそめたけれど、止まらなかった。
だって、それは正にあたしが頼もうとしていたものだったのよ?


E:声を思い出したあの子の手紙
元気にしていますか?
わたしは今、博士に直してもらったポケモン図鑑を持って、シンオウ地方のあちこちを走り回っています。
毎日、新しいポケモンと出会います。いろんな人がいろんなポケモンを連れていて、トレーナーと会う度にバトルをしています。いつものことだけれど、それがとても楽しいです。

エンペルトやレントラーは相変わらず頑張ってくれています。強くて頼りになる、私の自慢のパートナーです。
ギラティナは静かに、それでいてとても速く空を飛ぶので、家まであっという間に着いてしまいます。
夜の風は冷たくてとても気持ちいいので、用事がない時でも毎日、ギラティナと空を飛ぶようになりました。
あと、野生のポケモンとバトルをしていたら、リオルがルカリオに進化しました。
より強くなったルカリオはかっこよくて、でも笑った顔はリオルの時と変わらなくて、可愛いです。

わたしがあなたの家を出て、もう一度旅を始めてから1か月以上経ちました。これまで送った手紙は11通。これで、12通目です。
あの家で書いていたノートと合わせると、3冊と12通です。あなたに話したいことは次から次に増えて、毎日たくさん書いているのに、毎日とても、もどかしいです。

……それから、あなたが最後に言ってくれた言葉を、わたしは今でも覚えています。

「わたしは大人で君は子供だから、わたしと君は違うから。わたしは大人で、もう何も変わりようがないけれど、君はこれからずっと変わっていくから。
好きな食べ物だって大切な人だって、その順位だって、変わるんだよ。
君がわたしを忘れたとして、わたしのことを嫌いになったとして、それは悲しいことじゃないんだ、当然のことなんだよ。君は何も悪くないんだよ」

でも、わたし、どうしてもそう思うことができないんです。
あなたはわたしと違うことをとても悲しそうに口にしたけれど、でもわたしは、あなたと違うことを見つける度に、とても楽しい気持ちになったんです。

お箸の持ち方も、カレーを食べる一口の大きさも、あなたとわたしは違いました。
あなたはお箸をとても上手に持つんだなあって、スプーンにカレーを山盛りのせても口の中に入るんだなあって、びっくりしました。
あなたとわたしは当然のように違います。それが、わたしは嬉しかった。
わたしは子供であなたは大人で、わたしは女の子であなたは男の人です。分かっています。だからこそ、たまに見つける同じことがとても、とても嬉しかった。
びっくりするほど辛いカレーを食べられなかったこと、ボーマンダの背中からとても楽しそうにシンオウ地方の町を見下ろして笑うこと、
食事はサラダから食べて、好きなものは最後に残すこと、ほんの少しだけ泣き虫なこと、あのやぶれた世界の秘密を守ってくれること、全部、全部覚えています。

同じことも違うこともわたしの宝物です。わたしはそのどちらも嬉しいことだと思っています。
わたしは貴方のことを考えて、悲しい気持ちになったことなんか一度もありません。

あと、わたしはあなたの言うように、あなたを忘れてしまうのかなって、あなたを嫌いになるのかなって、変わってしまうのかなって少しだけ不安になったので、
わたしはこの1か月くらい、いろんな人に会って、いろんな人と話をしていました。あなたの言っていたことが本当なのか、確かめてきました。
大人の人も子供の人もいました。男の人も女の人もいました。強い人、優しい人、本当にいろんな人がいて、とても楽しい時間を過ごしました。

でも、どれだけ多くの人と出会っても、どれだけ長い時間をかけて会話をしても、やっぱり、あなたです。一番はやっぱりあなたなんです。
あなた以上に多くの言葉を使ってくれた人は、あなた以上に真っ直ぐわたしを見てくれた人は、あなた以上に眩しかった人は、誰も、何処にもいませんでした。
あなただけでした。

8月25日に、皆を連れてあなたの家に遊びに行きます。その時に、ここには書き切れなかった沢山のことを、聞いてください。


2016.8.25

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