『だいじょうぶ?』
新たなページに彼女はそう記す。記してから窺うようにゲンを見上げ、答えを促すように、その大きな瞳に彼の姿を映し続ける。
大丈夫だと答えれば嘘になったのだろう。
代わりに「君は平気なのかい?」と尋ねたが、それが間違いであったことをすぐさま知ることとなった。
彼の声はやはり容赦なく、この歪な空間で奇妙な反響を続けたのだ。音の叱責が音となって返ってくる様に、彼は耐えられなくなって額を抑え、俯いた。
少女はやはり不思議そうな沈黙を貫き、真っ直ぐに彼を見上げるのみであった。
まるで、「何故そんなに苦しんでいるのかを理解できていない」かのように、彼女は至極まっとうに呼吸を重ね、至極当然のように沈黙を貫きながら、
呼吸も沈黙も使いこなすことのできない彼を、不安そうに、しかし悉く訝しむように、見ていたのだ。
「何故、私達はこの場所に来たんだい?私達はあのポケモンに飲み込まれてしまったのか?」
三度目の音も、やはり長く遠く響いて彼を責め立てた。そこでようやくゲンは諦めがついた。
此処は「音の許されない世界」なのだと、いよいよ確信したからこそ、そのルールを悉く順守するかのように静かにペンを構える彼女がただ、眩しかった。
『ここはギラティナのせかいだから。ギラティナはここに帰ろうとして、わたしたちをいっしょにつれてきたの。』
「……」
『だいじょうぶだよ、もどりたくなったら、ギラティナをよべばいいから。もどりたくなくても、追い出されてしまうかもしれないけれど。』
上空を何者かが飛ぶ気配がして、はっと顔を上げれば、藍色の空をギラティナが悠々と、まるで海を泳いでいるかのように通り過ぎていくところだった。
ただ、その恐ろしさに圧倒されていた彼は、そのギラティナが先程見た姿とは僅かに異なっていたことに気付かなかったのだけれど。
彼はノートを閉じようとした少女の手を、自らの手を重ねることでやわらかく制した。どうしたの、と目で訴える少女に、彼は苦笑しながらそのノートを取り上げる。
ペンを貸してくれないかと視線で促せば、彼女は躊躇うことなく青いインクのペンをこちらへと向けてくれた。右手で受け取り、左手でノートを支えて書き始める。
『案内してくれないか。この世界のことをもう少し知りたい。』
少女は彼の字を見て驚いたように目を見開いた。その目が共に暮らし始めた頃のような虚ろの様相を呈しているのは、しかし彼女のせいではなかったのだろう。
おそらくはこの空間のせいだ。光の類を見つけることができないにもかかわらず、遥か遠くまで見渡すことの叶ってしまう、この、不思議な薄闇の揺蕩う世界のせいだ。
光のない場所で、彼女の目は輝きようがなかったのだ。おそらく鏡を取り出してゲンを映しても、その目は色のない、虚ろな様相をしていたに違いない。
「案内してくれないか」という懇願に対し、彼女は首を縦に振るか横に振るかで意思表示をすれば済むことだと思っていたのだが、
意外なことに彼女はゲンの手からノートとペンを取り上げ、慌てたように濃い筆圧で書き付けた。
『あなたも声が出なくなったの?』
ゲンは静かに苦笑した。息を吐く音すらここでは禁忌であるように思われたのだ。
ペンを取ろうと彼女の手に触れれば、先程は気付かなかった恐ろしいことに気付いた。彼女の手は驚く程に冷え切っていたのだ。
命の鼓動を手放したような温度がそこに在り、しかし「そう在る」ことが当然であるかのような確固たるその温度は、まだその常識に馴染み切れていないゲンを酷く責め立てる。
けれどその叱責の冷たさを持った手で、彼女はゲンが再びペンを取ることを、許す。
『そうではないよ、ただ、』
ここでは声を出すことが酷く恐ろしいことのように思えてしまって。
そう続けようとした手がぴたりと止まる。少女は「どうしたの」と尋ねるように彼を見上げる
もしかして、と思う。背筋を冷たいものが、彼女の手よりもずっと冷たい何かが走る。
『わたしは、上におちる水のせかいを知っているよ。』
彼女のあの言葉が脳裏でチカチカと点滅する。
最悪の事態を考え続ける余裕などなかったが、目の前の彼女の様子と、この異常な空間が、その「最悪の事態」こそが正しいのだと訴えてくる。
何度でも言おう。この世界は不気味だ。しかしこのおかしな世界に順応し過ぎた彼女の呼吸は、肌は、静けさは、もっとずっと不気味だ。
「なんでもないよ」と告げるように首を振り、笑顔の形を作った。勿論、笑い声など立てられる筈がなかった。
少女にノートとペンを返せば、彼女はそれらを一度畳んで鞄に仕舞い、空いた手で再びゲンの手を引いた。
『わたしが、あなたの手を引くんだよ。』
あの言葉が本当のことになってしまった。不甲斐ない、情けないと思ったが、それ以上に何もかもが不気味で恐ろしくて、自らの矮小さを恥じるどころではなくなっていたのだ。
*
月の上を歩くなら、きっとこのようになるのだろうと思った。ふわふわと足元が覚束ない。思いっきり地を蹴れば、どこまでも飛んで行けそうだった。
しかしずっとそうした身体の軽さが続いた訳ではなかった。この世界では至るところに重力の変化点があるらしく、
しっかりと地面を踏みしめられない程に身体が軽くなる場所もあれば、鉛のように身体が重くなり、前を向くことすら苦しくなるような場所もあった。
螺旋階段のように地面が渦を巻いており、二人はそれをのぼるように地を歩いた。重力も当然のように、螺旋を渡る二人に付いて回り、ぐるぐると変化した。
そうした非日常的な空間に自分が放り投げられているという状況、それも確かに恐ろしかった。
しかしそれ以上に彼を恐怖させたのは、やはり彼の手を引いて一歩先を歩く少女の存在だった。
彼女は数歩進む度に振り返り、口だけを動かして「気を付けて」と注意を促してくれた。彼女がそう告げた3歩後に、必ず重力の変化が訪れたのだ。
彼女は空いた手の人差し指を上に向けたり下に向けたりした。それが次に訪れる重力の方向を示しているのだと、彼はしばらく後に気付くこととなった。
手を広げて動かす時は、重力の強弱を示していた。彼女はそうして、次に重力が強くなるのか弱くなるのか、また重力がどちらに向いて働いているのかを、必ず示してくれた。
彼女のサインなしに重力が変わったことは一度もなかった。また、彼女のサインがあったにもかかわらず、重力が変わらなかったこともなかった。
最初はその手の意味が分からずに、目まぐるしく変わる重力に振り回され、酔ったように気持ちが悪くなることが多々あった。
彼女はその度に足を止めて、ゲンの眩暈と吐き気が収まるのを待ってくれたが、その彼女自身は顔色一つ変えなかった。
かかる重力の大きさや向きが彼女の小さな頭には全て入っているのだから、気持ちが悪くなることなどあり得ないのだ。そう気付いた瞬間、恐ろしくて堪らなくなった。
この異常な空間の中で、どこまでも正常な反応を貫く彼女は、やはり異常であったと言わざるを得なかったのだろう。
彼女は時折、何の躊躇いもなく宙に身を投げた。その度に心臓が止まるほど驚かされることとなったが、
その身を投げた先で、重力が下から「横」に変化することを理解しているらしく、その虚ろな目に恐れの色は微塵も滲んでなどいなかった。
あまりにも不思議な光景だった。
底の見えない暗い空の下に落ちてくかと思われたその身体は、しかし2m程落下したところでふわりと浮き上がり、
そのままくるりと向きを変えて、中に浮かぶ島の一つに音もなくそっと足を着けたのだ。
中途半端に壁へと打ち付けられた釘のように、その身体は真横に伸びていた。彼女はねじれた方向からこちらに視線を移し、こっちに来てと乞うように手招きした。
躊躇っていては恐怖が蓄積するばかりだと思い、考える間を与えず地を蹴って飛び出せば、その身体も同じようにくるりと向きを変え、ふわりと横へ落ちていった。
くらくらと眩暈のする頭を押さえてしばらく俯く。やがて収まったと思った頃に顔を上げれば、やはり少女は当然のように自分を見上げている。
差し出された手を握れば、再びこの破れた土地の探索が始まる。
この世界に敷かれたルールを理解し、それに悉く従い正常で在り続ける彼女が、彼女こそが「ルール」であるように思えた。
彼女が世界に従っているのではなく、世界が彼女に従っているのではないかとさえ思われた。
そんな歪なことを考えてしまう程に、この広く空虚な世界は静かすぎた。誰も、何もいない。この世界はいつまでも沈黙している。
ゲンが世界のルールを理解しつつある今、おそらくこの沈黙のルールを破るものは、これからもずっと現れないのだろう。
このようなことを何度も繰り返している内に、ゲンはどちらが「下」であったのか、そもそもこの歪な世界では何をもって「下」とするのかが、完全に解らなくなってしまった。
ふわふわと彼の一歩前を歩く少女が、仄暗い奈落へと身を投げる彼女が、重力の変化に備えるように体を傾ける彼女が、
海に身を投げて真っ逆さまに落ちていくあの子に、階段の最上階から転がり落ちるあの子に、段差も何もないリビングでぱたりと倒れるあの子に、重なった。
恐ろしい結論はすぐそこまで来ていた。
2016.8.16