17 (7/6 18:00)

少女は月明かりの下、ガムテープにそっと指をかけ、少しずつ、少しずつテープを外していった。
端がぷちぷちと音を立てて破き取られていく、ビニール製のガムテープ特有の音が、ポケモンの鳴き声一つ聞こえない、この空間にいつまでも木霊した。
それが彼女の「得体の知れない何か」を呼び起こすための儀式であったのだと、しかしこの時のゲンには察することができなかった。
ただ、その緩慢な、しかし緊張感のある音がこの夕闇の全てであるように、身動き一つせずにじっと息を殺して、耳を澄ませていることしかできなかったのだ。

そして長い時を経て、ガムテープの音が止んだ。
少女は両手で、まるで繊細なガラス細工を扱うかのような手つきで紫色のボールを包み、ゲンの方へと真っ直ぐに差し出した。

「……」

見たことのないポケモンだった。
その歪な身体は骨で構成されているようにも、闇で象られているようにも見えた。赤く丸い二つの月が、射るようにこちらを見上げていた。

このボールから放たれた時、このポケモンはどれ程の大きさとなって二人の前に立つのだろう。
このポケモンは我々を飲み込んでしまいやしないだろうか。我々はこの闇に食べられてしまうのではないか。
ボールの中の深淵から滲む恐怖がゲンの肩を強張らせた。けれどその恐怖に気付かない振りをして、少女の手からそっとボールを受け取った。
その瞬間の彼女の手はあまりにも冷え切っていた。それでいて小さく震えていた。
……だからこそ自分は、自分だけはこの未知の恐怖に屈するものかと、ボールを持つ手に力を込めて、大丈夫だと言い聞かせるように笑わなければならなかった。

おそらく彼の笑顔はこの空間に漂う闇に飲まれていたのだろう。少女の目に彼の笑顔は届かなかっただろう。それでもよかった。
今、彼女に最も伝えるべきものがあるとして、それは必ずしも笑顔の形をしていなくてもいいと解っていたからだ。
彼がここに、少女の隣にいるという、何があっても君を置いて逃げたりしないという、その揺るぎない事象が伝わればそれでよかったのだ。
故に「私の笑顔が君の目に届かずとも、私は君の傍に在り、君を守ってみせる」と、彼がそう誓うだけでよかったのだろう。
その誓いを音に出さずとも、その誓いを反映した僅かな空気の揺らぎを、少女が肌に拾い上げるだけで、それだけで。

少女はそんな彼からボールを受け取り、渦を巻く闇に向かって投げた。
その投げ方というのが、どうにも投げているというより「落としている」ような、重力に任せすぎたものであったため、彼はそのボールの軌道から目を逸らすことができなかった。

紫色のボールが開いたと思った瞬間、少女はぱっと踵を返してゲンのコートに縋った。指先が白くなる程に強く握り締め、固く目を閉じていた。
そのボールの中身を見ることが、自分にとって致命傷となることを解っているからこその行動であり、故に彼はそうした臆病な挙動を取る彼女を責めることなどできなかった。
彼女は聡い少女だった。自らの恐怖を熟知し、それに備えることのできる用心深い子だった。
勇敢さと慎重さを併せ持った彼女であることを解っていたからこそ、彼女のその行動は正しいのだろうと確信できたのだ。

そうした臆病な行動を取らなかった自分こそが、無謀にもそのポケモンを直視することを選んでしまった自分こそが、誰よりも恐怖していると気付いてしまった。
その瞬間、絶望の心地が彼を揺らした。無理だ、と思った。

現れたそのポケモンは、全長にして5m程であったのだろう。
洞窟でたまに見かけるイワークの方が大きかったのかもしれないが、そんな数字など無意味であると思わせる程にそのポケモンは大きく、恐ろしく見えた。
おそらくそれは、夜色をしたこの身体が、この空間の暗さをも飲み込んでいるからだと思った。
身体と暗闇との境界が見えないからこそ、この存在がどこまでも大きく広がっているように見えた。
この生き物は空間に救う闇さえ取り込んで、自分の体躯を構成しているのだと、この時の彼は本気で思っていたのだ。

無理だ、と彼は再び思った。
仮にこの化け物が彼女の声を奪ったのだとして、私にはその声を取り戻すことなどできやしない。
彼女と同じくらい、いや、この瞬間には彼女以上に恐怖しているかもしれない自分に、彼女の奪われた何もかもを奪い返すことなど、できる筈がない。

だからこそ彼は、それならせめてこれ以上何もお前に奪わせるまいと、恐怖に嘘を吐いてでも、彼女を守らなければならなかったのだ。
その得体の知れない怪物を睨み上げ、同時に少女を強く抱きかかえた。
ゲンのそうしたささやかな挑発に応えるように、怪物は大きく口を開けた。殺されると本気で思った。彼は少女を遠くへ突き飛ばそうとして、

その瞬間、彼は先程までの常識が一切通用しない世界にいた。

「……」

死を覚悟した先程の瞬間よりもずっと速く、恐ろしい速度で心臓が乱暴に踊っていた。息が止まってしまいそうだった。
息を、してもいいのか?ここで私は呼吸をすることができるのか?そんな奇妙なことを考えてしまう程の「異世界」が目の前に広がっていた。
先程まで二人がいた洞窟も、歪んだ闇の渦も、どこにもない。あの怪物もいつの間にかいなくなっている。
あるのは、乾いた地面と空に浮かぶ島、そして、あまりにも静かに落ちていく、水。


水が、上に落ちている。


『でもわたしは、上におちる水のせかいを知っているよ。』
少女の言葉がまるでナイフのように彼の奥深くを抉る。痛みに顔を歪ませながら、彼は呼吸を整えようと努めたけれど、意識すればする程に心臓は煩く、呼吸は覚束なくなった。

彼の眼下に見える滝は、下から上へとゆっくり「落ちて」いる。
上には雲や星の代わりに、大地を切り取ったかのような島が、何故かこちらを向いて佇んでいる。こちらを向いた地面に生える乾いた草は、雨のように下へと茎を伸ばしている。
その島へと落ちた水は、静かに空へと広がり、より高いところへと向かっていく。
地面の位置も、水の流れる方向も留まる場所も、草の生える方向も、全てが狂ってしまっている。正しいものなどどこにもない。

水のある宇宙というものに身を投げたなら、きっとこうした姿をしているのではないかと思えた。
しかし水を有し、酸素を有し、生き物が住めるような環境にある星が、我々が普段住む居場所以外にないことをゲンは知っている。
であるならばここは彼のよく知るいつもの居場所である筈なのに、その居場所での常識からあまりにも離れすぎたところにこの空間は在る。

この場所は、ゲンの知る、彼のよく知る居場所の形をしていない。
……いや、この空間の一部を切り取ればそれは確かに、彼の見知った空間の様相を呈していた。土があり、島があり、水は流れ、草は生えていた。
けれどその方向や配置があまりにも歪であるために、全てが狂っているように見えるのだ。

世界が、無秩序に破かれている。

一つ一つの破れた空間に目を移し、その度に強い眩暈を覚えた。
彼にとって、……いや、それは彼に限ったことではなかったのだろうけれど、
地はどこまでも続くもので、水は下に落ちるもので、上を見上げれば広がっているのは青や白、そして藍色の空のみであるものだった。
彼は、いや、誰もがそうした世界で生きてきたのだ。
確かな質量を持つ地面が、千切れて雲のようにふわふわと浮かんでいたり、滝の水が下から上に落ちたりすることなど、あり得ない。

あり得なかった筈のことが起こっている。この空間を最早「異常」と呼ぶ他になかったのだろう。

その世界の中心に佇む彼女は、しかしそこに在ることこそが正しいのだというように、あまりにもこの場所に馴染んだ目をしていた。
微動だにしない彼女の目を覗き込むように屈めば、忘れかけていた虚ろな目に見上げられ、彼の鼓動は再び乱暴な速度で彼自身を掻き乱した。
彼のように驚くことも怯えることもせず、この、音のない空間に相応しい沈黙を彼女は保っていた。この世界に敷かれたルールを守るように、静かに、小さく呼吸を続けていた。

「……ヒカリ

ゲンが一言、彼女の名を呼べば、その声は悉く「異質」なものであるかのように、周りの、何もない場所に反響して長く、あまりにも長く残り続けた。
ここは洞窟ではない。音の反響など起こる筈がない。
にもかかわらず、そのたった一人の名を紡ぐための音は、ここでそれを奏でることが罪であるかのように、その「声」を禁じるかのように、どこまでも、どこまでも響き続ける。
「お前はこの、閉じた世界に敷かれたルールを破ったのだ」と、彼は彼自身の声によって責められ続けている。
頭が、おかしくなりそうだと思った。

そうして彼女は彼の呼び掛けに応えるべく、この世界におけるルールを順守するかの如く、抱きかかえていたノートを手に構えて開く。ページを捲る音すら、聞こえない。


2016.8.14

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