19 (7/6 18:00)

目の前の大岩が突如と消える。何もなかった筈のところに乾いた草が勢いよく生える。当然のように彼女はそれら全てを予測して、注意してとその虚ろな目でこちらに促すのだ。
もう十分だと思った。よく解った。解ってしまった。

地を蹴って次の地面へと飛び出そうとしていた彼女、その握られた手に力を込めれば、ぴたりとその挙動を止めてこちらへと向き直ってくれる。
どうしたの、と問うその表情に苦笑して、ゲンは彼女の鞄を指差した。それが何を指しているのかと解っているらしく、彼女は迷わずノートとペンを取り出して彼に手渡す。
しっかりと受け取った。手放すまいとペンを強く握った。
手が触れるもの全てに力を込めなければ、これらは自分の手を離れて、この歪な空間に飛んでいってしまいそうだったからだ。

『どうやって重力の変化を読んでいるんだい?』

それは彼女にとって当然の返答であることを理解していた。しかしその答えこそが、これまでの彼女の歪さを埋める決定的なパーツであることも解っていた。
だからこそ彼はその文字を彼女に見せつつ、真っ直ぐに彼女の虚ろな目を見つめて請うたのだ。お願いだからありのまま、正直に答えてくれ、と。
彼女は小さく頷いて、その氷のように冷え切った手でペンを受け取り、書いた。

『おぼえた。』

その瞬間、ゲンの手と彼女の手の温度は完全に一致した。
つまりはそういうことなのだと、避け続けていた恐ろしい真実が、目を逸らすことの叶わない文字という形で彼の手の中に現れたのだ。

この膨大な広い空間、そこに巣食う無限とも思える重力の変化、消えたり現れたりする岩や枯草、動いたり消えたりする島、その全てを彼女は「覚えている」のだ。
どうやって。
……いや、解っている筈だ。どんなものでも記憶するにはそれなりの時間が掛かるということ、無限とも思える反復と試行を経て、ようやく事実は知識になり得るのだということ。
そして、この広大な世界に生じた歪な何もかもを覚えるために、1日や2日では到底、足りる筈がないのだということ。

君は一体、どれくらいの時間、此処にいたんだい?
そう尋ねることがどうしても憚られた。それは彼女の心を慮ったものでもなんでもなく、ただ単に、自分が怖かっただけだったのだろう。

ふと時計を見れば、あの「戻りの洞窟」という場所に入ってから、既に3時間以上が経過していた。
その間、ずっと此処で歩き続けていたにもかかわらず、全く身体が疲れを訴えていなかったことにゲンは驚く。
疲れを自覚していないだけで、おそらく身体自体は長時間の歩行で疲弊している筈だと推測した彼は、再び少女を引き止めて「少し休憩しないか」と記した。
彼女は不思議そうに首を傾げたけれど、しばらくの間を置いて頷き、地面に腰掛け足を宙へと投げ出した。
恐ろしいことをすると思ったが、この空間の危険は彼女の方がよく知っているところであると解っていたから、ゲンは彼女を咎めることなく同じように膝から下を宙へと投げた。
彼女がそうした行動に出るのであるから、それは「危険」なことではないのだろうと、この世界のルールを知り尽くした彼女を信じているからこその行動であった。

耳を澄ましても、何も聞こえなかった。
隣で少女があまりにも静かに息をする、その気配が僅かに拾える程度で、この広い世界は相変わらず、沈黙を貫き続けている。
遠くで水が視界の右から左へと滝のように落ちているが、果たしてそれは本当に「落ちている」のか、それとも「昇っている」のか、よく解らなかった。
今、ゲンの足元に揺蕩う重力を基準にしてみれば、あの右から左へと落ちる滝はこの上なく不自然に思える。
けれど不自然だと思うことこそが間違っているのだと糾弾するように、左に落ちる滝はただ当然のように佇んでいる。

視線をこちらの地面に移せば、隣に、細い葉を持つ植物が生えていることに気付いた。
先に蕾のようなものを結んだそれに、この世界でも生きた植物を目にすることが叶うのだと、少しばかり彼は安堵する。
二人の間に広げて置かれたノートに、何気なく『あれはどんな花を咲かせるのだろうね。』と書き込んだ、その時だった。

『さかないよ。』

……咲かない?
純粋なその疑問に答えるかのように、少女は更に青い文字を続けた。
あまりにも長く綴られたそれは、しかしこの世界を表す全てであったのだろう。

『ここにはお日さまも雨もないから、花はさかない。でも、かれることもないんだよ。』

「……」

『風もふかない。草も木も花もかれないし、のびない。水はあるけれど、雨はふらない。
こうして歩いていてもつかれないし、おなかもすかない。ねむくもならない。時計はつかえるけれどいつでもけしきはかわらないし、どうせ向こうにもどればなかったことになる。
ここには時間がない。いつまでだっていられる。わたしもあなたも、ずっとここにいれば、なにもかわらない。』

次の一行に視線が縫い止められた。恐ろしさに震えることすらできなかった。


『だってここではすべてがやぶれているから。』


違う、違う、そんな筈がないと、頑なに眼前の真実を否定しようと首を振っても、息の音さえ鐘のように幾度も幾度も木霊して、まるで警告のようにガンガンと響き続けた。
……壊れたポケッチ、電源の入らないポケモン図鑑、針の動かない時計、破れない世界を忘れていた少女……。
違う筈がないのだと、これが真実だと、否定しようとしたつい先程の自分を責めるように、彼は乱暴な言葉で静かに言い聞かせ、ペンを取った。
これが自分の知りたかった真実だろう、今更何を恐れているのだと、戒めるようにノートに青いペン先をぐっと強く押し当てた。

『君はずっとここにいたんだね。この広い世界の何もかもを覚えてしまうまで、重力が変化したり地面が千切れて宙に浮かんだりすることが、当たり前だと思えてしまうまで。』

「……」

『ポケモン図鑑やポケッチの電源が切れてしまうまで、お気に入りだと言っていたキーホルダーウォッチが壊れてしまうまで、
元の世界の重力や、食事や睡眠が必要なこと、水が下に落ちることも、全部、全部忘れてしまうまで、君はずっと、』

彼女の声はこの世界に奪われたのではない。彼女は何も奪われてなどいない。
彼女自身が声の出し方を忘れたのだ。そうなってしまうまで、ずっとこの子はこの世界で、真に一人だったのだ。

彼女は小さく頷いた。カラン、とペンの落ちた音はいつまでも反響を続けていた。彼女の息を飲む音も同様に、彼の鼓膜にいつまでも残っていた。
抱き締めたその身体はしかしもう冷たくなかった。彼女が温かくなったのではなく、彼が同じ温度になったから冷たいと感じなくなったのだと、心得ていた。
こうして彼女は今の姿になっていったのだと、痛い程に解ったから痛い程に抱き締めた。

こんなところにずっといたら気が狂ってしまうと思った。そして事実、彼女は異常だった。
しかし、それは確かに異常ではあったけれど、なにもおかしなことではなかったのだろう。
異常なところに身を置きながらも、この静かすぎる空間で生き続けるためにあらゆるものを手放し、何もかもを忘れざるを得なかった彼女の、
あまりにも小さくささやかな狂気は、しかし、何も間違ってなどいなかったのだろう。
彼女のそうした全ては、此処で生きていくために必要なことだったのだ。そうするしかなかったのだ。だから彼女は全てを手放し忘れた。この静寂を生きるために。

私がこの子と一緒にいてあげることができたなら、何か変わったのだろうか、と思う。
けれど同時に、私もこの子と同じように、この異常な世界の歪さに飲まれて終わっていたかもしれない、とも思う。
それでも、二人いればと思わずにはいられないのだ。何かできたのではないかと、今まで彼女に何も与えられたことなどなかったのに、そんな風に思い上がらずにはいられないのだ。

一人の狂気も、二人の狂気も、虚しいだけだ。けれど孤独なら紛らわせることができたのではないだろうか。
一人の孤独よりも二人の孤独の方が、ずっと救われたのではないだろうか。それは今からでも間に合うだろうか。私は彼女の孤独を引き取れるだろうか。
彼女はこれが「孤独」であることさえ、忘れてしまっているかもしれないけれど。

その推測が正しいことを証明するかのように、彼女はするりとゲンの腕から抜け出して、地面に落ちたペンを拾おうとするのだ。
彼女のペン先が「だいじょうぶだよ」と綴るような気がして、それがどうしようもなく恐ろしいことのように思えて、ゲンはさっとペンを奪い取り、書き付ける。

『何のために?』

彼女の声は奪われてなどいなかった。彼女自身が手放したに過ぎなかったのだ。
けれどその事実は、彼女の失われた声を諦める理由にはなり得ない。彼はまだ少女の真実を聞かねばならない。

『ギラティナに閉じ込められていた訳ではないのだろう?出ようと思えばいつだってこの世界から抜け出せた筈だ。
何故、そうしなかったんだ。君はこの世界で何を為そうとしていたんだ。こんな、ギラティナと君しかいないような場所で、何を、』

すると少女はゲンの手からペンを奪い取った。
呆気に取られる彼の、その驚きさえ許さないとでも言うかのように、少女は乱暴に、大きくノートに書き付ける。

『いるよ。このせかいにはもう一人いる。あなたには見えないの?』


2016.8.16

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