800歩先で逢いましょう(第二章)

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 格別空腹である、という訳ではなかったのだけれど、彼等は「お腹が空いているだろう?」との気遣いで、私の分の食事を用意してくれた。道場の人数には及ばないけれど、それでも子供二人と大人二人に私を加えた五人で、食器の音も会話の重なりも笑い声もそれなりに賑やかなものになった。
 ミルクスープと甘いパンを詰め込むように平らげた子供二人、リタとフィルは、博士と呼ばれる男性からマシュマロの入った袋を受け取り、もうすっかり暗くなった外へと勢いよく飛び出していった。広場の隅にある焚火を再び起こして、そこでマシュマロを焼くらしい。ビスケットに挟んだら美味しそうだなと想像して思わず頬が綻んだ。

「さて、こちらの自己紹介がまだだったね。こっちはカメラマンのトオル。僕はカガミ。このフロレオ島でポケモンや自然環境について研究しているんだ」
「研究……此処はもしかして研究所なの?」

 珍しい機械やパソコンが置かれている一角に視線を走らせながらそう尋ねる。二人は目を見合わせてからこちらへと向き直り、カガミ博士は少しだけ恥ずかしそうに、トオルさんは楽しそうに笑った。

「まあ、そうなるかな。レンティルポケモン自然科学研究所という名前が一応付いてはいるけれど、まだ開拓途中でね。ルイやリタたちの力を借りてポケモンの研究やこの土地の調査を進めながら、少しずつ大きくしていく予定なんだ」
「まだ、ちょっとハイテクな機械があるだけの別荘、キャンプ地って感じでしかないもんね。研究所っぽくなるのはこれからってこと」

 今のままでも十分に素敵な雰囲気の場所だ、とは思ったけれど、研究が捗るにつれて研究所の規模が拡大していく様を想像すると、それはそれでとてもわくわくした。此処にいたという女の子、ルイは、きっとこの場所で素晴らしい調査ライフを満喫していたに違いない、とも思った。そして、その素晴らしい日々の続きに唐突へ私が割り込んでしまったことに対する申し訳なさもまた、同時に湧き上がってくるのだった。

「それにしても、人が別の土地からテレポートしてくるなんて話は聞いたことがないな」
「この土地特有の超常現象でないのだとしたら、原因は私の側にあるのかもしれないね」

 あまり認めたくないことではあったけれど、一度その可能性に行きついてしまえばもうそうとしか考えられなかった。とにかく「かの存在」は強かった。それに生命離れしていた。人を操り意識を乗っ取ったり氷点下の雪原に植物を生やしたり道具を使って同じポケモンを従えたり……そんな超自然的な存在に目を付けられてしまったのだ。これくらいの「悪戯」は想定しておくべきことだったのだろう。甘かったのだ、私が。

「元の場所で少し、その、神様に似たポケモンの機嫌を損ねたんだ。きっと怒りに触れてしまったのだろうね。そのせいで、私とルイさんが取り違えられたのかも」
「そんなことが……いや、在り得るだろうね。僕等の想像を超えた力を何とはなしに発揮してくるようなすごいポケモンは、このレンティルにだってごまんといる」

 災難だったね、と労ってくれる博士に救われる心地がした。今何処にいるとも知れないルイという女の子のことが心配で堪らないだろうに、そんな彼女と交代でやって来てしまった初対面の私を、責めることなく気遣ってくれている。どうやって戻るつもりだ、ルイはちゃんと帰って来られるのか、などと問い詰められても仕方のない立場だという自覚があっただけに、この三人の間に流れる空気が思った以上に穏やかで優しいものであることは、私をひどく驚かせ、そして安心させた。
 早くどうにかしてくれとせがまれることもない。きっと上手くやってくれるに違いない、などという軽い期待を次々に浴びせられることもない。勝手に落胆されることも、失望されることもない。私の役割は此処にはなく、何の義務も今の私にはない。
 ああどうしよう、居心地が良すぎる。おそろしい程に。

「キミの言う神様とはまた違うだろうけれど、レンティルにもテレポートを繰り返したり、時を超えた移動を行ったりするポケモンがいるよ。別の地方では彼等を『生命の祖』とか『森の神様』とか呼んだりもしているみたいだ」
「そんな存在が……」

 この世界で発見され、各地のポケモン図鑑に登録されているポケモンの数は八百を超えるという。八百もいれば、人知を超えた振る舞いをする存在が十や二十、それ以上にいたっておかしくないのかもしれない。
 ああ、いや? 違ったのだっけ。そもそもポケモン自体が、私達のような非力な人間の手には余り過ぎるおそろしい生き物なのだったっけ。

 分からない。色々と自信がなくなっていく。インテレオンと分かり合えていた、分かり合えていたと頑なに信じていた数時間前が遠い遠い昔のことのようにさえ思える。

「そしてちょっと困ったことに、ルイはそういう珍しいポケモンを撮影するのが大好きでね。うっかり近付き過ぎて彼等の『遊び』に巻き込まれそうになったことも一度や二度じゃない」
「だから今回のことが、君への『悪戯』だけを原因として起こったものだとは、僕も博士も考えていないんだよ。ルイは優秀な調査員だけど、同時に研究所一番のトラブルメーカーでもあったからね。えっと、だからその、あまり自分を責めちゃいけないよ」
「もしキミたちが入れ替えられただけなら、きっとルイもその場所で元気にやっているはずだ。帰るための手段はこれからゆっくり探せばいい。焦らなくていいからね」

 自らを冷静に査定してくれるはずの私の頭は今や使い物にならない。だから私は目の前の優しい人たちの言葉を鵜呑みにしてみることにした。今私が此処にいるのは私のせいではなく、私が罪悪感を抱く必要は何処にもなく、元に戻らなければと焦る必要もなく、すなわち私は何の憂いもなくこの場所での暮らしに甘んじていてもいいのだと。
 そんな都合の良いことがあっていいのだろうか?

「……」

 そこまで考えて私は急に恐ろしくなった。この状況を「都合が良い」と捉えてしまうことこそが、あの神様の計らいであり策略であるように思われてしまったからだ。
 もしこれが、あの神様の「慈悲」なのだとしたら。「しばらく別の場所でゆっくりしてきてはどうかね」という、おぞましい「配慮」の形なのだとしたら。
 もし、もしそうなら、そんな神様の誂えた状況に甘んじる訳にはいかない。私は戻らなければならない。一刻も早く戻って、あの雪原に向かって、文句を言わなければ。こんな馬鹿げた慈悲も配慮も不必要だと。とんだ的外れだと。余計なことをしてくれるなと。頼むからもう放っておいてくれと。そう思うのに。……思うのに。

「ありがとう」

 それなのに、どうしてこんなにも嬉しいのだろう、どうしてこんなにも嬉しいと、幸せだと、ずっと此処にいられたらどんなにか、などとおぞましい仮定さえ抱いてしまいそうになるのだろう!

「暮らしの心配は何もしなくていいからね。ただ、服のサイズがルイのじゃちょっと小さいな。うーん……トオルの服の裾を折って渡そうか?」
「いやいや博士、流石にそれはよくない。彼女は年頃の女の子だよ? 外から何着か手頃なものを取り寄せてしまおう」

 嬉しくなってしまっている。穏やかな気持ちになってしまっている。ここでは私がチャンピオンであったことも、そこでの役目から逃げ出してきたことも、私がポケモントレーナーであったことさえなかったことにしてしまえるのではないかとさえ思えてしまう。生まれ変わったような気持ちになってしまう。
 甘い甘い毒を飲み下している気分だ。こんなことを続けていては私の大事な部分が死んでしまう。

「私はユウリというんだ。できるだけ迷惑を掛けないように努めようと思うので、これからどうぞ、よろしくお願いするよ」
「ああ、こちらこそ!」
「よろしくね、ユウリ」

 私の、大事な部分? そんなもの何処にあるのだろう。何処にあったというのだろう。

「そうと決まればあの子たちにも改めて挨拶をしておいで。ついでにマシュマロも貰ってくるといいよ」
「いいのかい? 美味しそうだなって思っていたんだ。是非ご馳走になるよ」

 だって此処にはポケモン図鑑もジムチャレンジの証も、インテレオンの入ったモンスターボールさえ、ないのに。それらがなくたって私は今、こうして笑えているのに。
 本当に大事なものなんか、失って困るものなんか、私は本当は、ただの一つも持っていなかったのではないか?

「ああ待って、服を身繕う参考にしたいから、ユウリの好きな色を教えてくれないかな」

 立ち上がり、広場に灯る火へと足を向けた私をトオルさんが呼び止める。私は振り返り、ハンカチを取り出して、この色が好きなんだと示してみせようとして。

「……」

 服のポケットに伸ばした手が、凍り付いた。

「ユウリ?」
「あ、えっと、色に拘りはないんだ。強いて言うなら水色が好きだけれど、ピンクだって緑だって綺麗だと思うし、本当に、着られさえすれば何だって」

 このポケットの中に入っている色を思った途端、頭を殴られるような心地がした。一気に冷や水を流し込まれたような目の覚め方だった。私はなんてことを。……なんてことを!
 もし今の私の手元にこれがなかったなら。彼のくれたハンカチではなく別のものがポケットに入っていたなら、それでも私は同じように今を嬉しいと思えただろうか。それでも私は「本当に大事なものなんか、自分はただの一つも持っていなかったのかもしれない」と、思えただろうか。
 そんなはずがない。彼との記憶がそんな風に捨て置けるものであっていいはずがない。

 都合の良い心の拠り所をしっかりと持参しておいて、それで都合の良い場所に放り込まれた途端「失って困るものなど何もなかったのでは」だなんて、驕りもいいところだ。馬鹿げている。私はこれがないと、彼の水色がないと、とうに生きていかれなくなっているくせに。彼の水色だけではなくて、大事にしているものはインテレオンを含めて他にも沢山、沢山、あったくせに。
 ああ、でも。

「あ、お姉ちゃん! もう博士とのお話は終わったの?」
「そうだよ。彼等と相談して、私もしばらく此処でお世話になることにしたんだ。ユウリと呼んでほしい。よろしくね」
「おっ、新入りだな! オレの方が先輩なんだから、言うことちゃんと聞けよ!」
「ふふ、そうだね。知らないことばかりだから沢山教えてくれると嬉しいな」

 神様を恨みたい。馬鹿げた慈悲を寄越してくれるなと憤りたい。でも心はひどく穏やかで、此処で始まりゆくまっさらな暮らしを楽しみにしている自分がいて、そんな自分にうんざりしながらも楽しい心地や嬉しい感情は消えてはくれない。
 罰なのか慈悲なのか、配慮なのか刑の執行なのか未だに判断しかねるけれど、ただそうした、神様の悪戯によるトラブルの果て、飛ばされてきたこの見知らぬ土地が私の理想郷となってくれる可能性を、そんなめでたい夢物語をどうしても捨てきれずにいる。

「……」

 火の傍、三つのマシュマロが柔らかくふやけていく。砂糖の香りに鼻先をくすぐられながら、まるでこの夢のような夢物語のような甘さだと思いながら、私はポケットから今度こそ水色のハンカチを取り出して、膝の上に乗せて、強く、強く握り締めた。

 理想郷が手に入る。素晴らしい世界で素晴らしい時間を過ごせる。
「彼」を諦めさえすれば、私は此処で一からやり直せる。

2021.10.20

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