800歩先で逢いましょう(第一章)

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 ユウリを知らないか、とミセスおかみに声を掛けられた。もう夕食の時刻まで五分もないというのに、あの妹弟子はまだ道場に戻っていないらしい。セイボリーのことをユウリ探知機か何かだと思っているのか、こういう場合、ミセスおかみを筆頭に、道場の中で構成されるこの「家族」は口を揃えてセイボリーの名を呼ぶ。君なら知っているんじゃないか、ちょっと連れ戻してきてくれよ。そういった具合だ。ついでに少しばかり二人の時間を楽しんでくるといい、といった余計な気遣いさえ、年長者の眼差しからは読み取れてしまう。
 この道場内に彼女、ユウリを案じる空気はほとんどない。今年のジムチャレンジの覇者でありその後のトーナメント戦でも最強の名を欲しいままにし続けている彼女が、ちょっと目の届かないところへ行ってしまったところで、誰も心配などしないのだ。

 ここで「ほとんどない」としたのは、ユウリの不在を気楽なものとして捉えている家族の中に、セイボリーだけが含まれていないからである。ほんの少しの不在、ほんの少しの別離、そうしたものに彼は最近特に敏感であった。以前の彼であれば、誰よりも彼女の強さに信頼を置き、どんなことがあっても彼女なら大丈夫だとしていただろう。いつか帰る場所を揃えることを条件に、喜んで彼女をこの島より送り出しさえしたのだから、その信頼は並々ならぬものである。ほどなくしてセイボリーも、一度は諦めていたジムリーダーになるという夢の実現のため、一切の妥協を許さずヨロイ島での鍛錬に一層熱を上げていた。それだって、彼女への、彼女から貰った言葉への信頼があったからだ。

『君が夢を叶えられる人であるという証人になろう』
 かつての言葉を思い出しながらセイボリーは頷く。
 ええその通り。あなたに夢の達成を見届けていただけるなら、それはもう、ワタクシにとってこれ以上ない幸福に違いない。

「セイボリー? どうしたのさ、早く行っといで」
「あっ、ええはい勿論ですとも! すぐに連れ戻してきましょう」

 シルクハットの位置を指先でくいと直し、外へ出る。庭で遊んでいたポケモンたちはセイボリーを見つけるや否やわっと駆け寄ってきたものの、彼がこれこれと笑いながら嗜めて、行かねばならぬところがあるのだと説明すれば、実に聞き分けよく彼の傍から離れていった。半年前であれば在り得なかった光景、彼自身の努力によって造り上げたその光景は、今日も宝石のような煌めきの思い出を伴い、彼の視界を彩るばかりだ。

 マスタード師匠に言いつけられた、道場内のポケモンの世話。それはセイボリーがかつて、ユウリとの対戦の折に罠を仕込んだことに対する、ささやかな罰であった。設けられた半年という期間は、当時のセイボリーにとって少々長いものに感じられた。勿論、それで己の罪が清算されるのであれば安すぎるくらいだと思いはしたが。
 だが、ジムリーダーを目指すための特訓をこの場で続けるにあたり、その「半年」の「ポケモンの世話」というのはまた違った意味を持ってきた。ある程度の実力を身に着けたトレーナーは、ユウリのように早々にこの道場を出て行って別の場所を舞台に奮闘すべきであり、セイボリーは彼女にこそ及ばないものの、同じ道を辿れるだけの実力はもう十分に備えていたといってもいい。にもかかわらずこの場に留まるための理由など、マスタード師匠の元で学び続けたいという小さな我が儘を置いて他にない。その我が儘を正当化するための立場として「半年間、ポケモンの世話をする係」であるという事実はこれ以上ないほどに都合よく機能した。すなわち罪を犯した彼への「懲役」だったはずのものが、彼がこの道場で学び続けるための「猶予」として、半年間ずっと彼の立場を守り続けたのである。

 懲役期間とするなら少々長く感じられる半年も、ジムリーダーへ就任できるだけの力を身に着けるための猶予期間とするならばあまりにも短い。そう、短かった。けれどもその半年間、彼は懸命に努力した。夢を叶えたい一心で……とするには、彼がそこを目指す理由は少々入り組んでいると言わざるを得なかったのかもしれない。それでも成し遂げねば、という思いが常にあった。迷いや躊躇いを置き捨てるのは、彼が思っていたよりずっと簡単であった。誰のおかげであったかなど分かりきっている。彼はどんなに多忙で苦しい時でさえ、忘れたことなど一度もなかった。

 かくして彼の夢は叶った。彼はジムリーダーとなり、ユウリの隣へと並び立つ権利を手にした。彼に世話を焼かれたポケモンたちも、彼を懸命に指導した師匠も、ミセスおかみや道場の仲間も、誰もが彼の成功を祝福した。彼は名実共に、胸を張れる存在となったのだ。
 にもかかわらず彼は、久方ぶりにヨロイ島へと帰還した彼女へと、その報告をすることができずにいる。誰よりも喜んでほしかった相手に、彼は未だ胸を張れずにいる。

『ただいま。少しの間だけ此処にいてもいいかな。島の外はとても寒かったから』
 理由など分かりきっている。久方ぶりに見た彼女の顔色が、白すぎたせいだ。

 *

 清涼湿原を抜けて、森の方へと進んだ。探し人の後ろ姿は存外すぐに見つかり、セイボリーはほっとしつつ彼女の名前を呼ぶ。

「ユウリ、もうすぐ夕食ですよ! ミセスおかみが呼んでいます、一緒に」

 声が届いたのだろう、ユウリはすぐに振り返った。けれどもセイボリーを見るなりひどく驚いたような表情になった。紅茶色の目が零れんばかりに見開かれたかと思うと、次の瞬間、彼女は踵を返し、全速力で彼から遠ざかり始めたのだ。

「ええっ、ちょっとユウリ! ホワイ!? どうしたというのです!」

 彼女は答えず、セイボリーから逃げるように走り続けている。セイボリーは慌てて後を追う。距離を徐々に縮めながら、もう少しだ、と思いながら、彼ははて、と疑問に思った。彼女の逃げ足は、その切実な驚きや恐怖の垣間見える表情とは裏腹に、セイボリーの記憶する彼女のそれよりずっと遅く、覚束ないものであったからだ。

 砂浜でのじゃれ合いならともかく、本気を出した彼女との「追いかけっこ」でこのように、セイボリーの方から距離を詰められたことなど、未だかつてあっただろうか?

「お待ちなさい、ってば!」

 最後に右手を伸ばしてくいと一指し、彼女の左足をふっと浮かせた。バランスを崩し、ぐらりと揺れたところを抱き留めるようにして捕らえる。セイボリーに腕と肩を掴まれながら、それでも彼女は必死に首を振り、身体を捩りつつ逃れようと必死だった。

「ユウリ、落ち着きなさい、ワタクシです!」
「やめて、離してください!」

 喉を潰さんばかりの大声で繰り出された言葉に、セイボリーは硬直した。その隙に彼の腕からするりと抜け出した彼女は、目に厚い警戒の色と薄い涙の膜を宿しつつ、二歩ほど距離を取ったところから怯えるように彼を睨み上げてくる。

「ね、ねえユウリ、どうしました」
「貴方の」
「……あなた?」

 何故ユウリはセイボリーから逃げようとするのだろう。何故ユウリはここまで怯えた目でセイボリーを見るのだろう。何故ユウリはセイボリーに丁寧な言葉など使うのだろう。何故ユウリはセイボリーのことを、いつもの調子で「君」と呼んでくれないのだろう。
 嫌な予感がはっきりと形を取り始める。ひどく不気味だ。ひどく不可思議で、恐ろしくもある。しかしまたこれは、冒険と神秘に愛された彼女にひどく相応しいトラブルであるようにも思える。ただ。

「貴方のこと、私、知りません。どうしてそんな風に私を呼ぶんですか?」
「え……ええっ! ホワイ!? 何故! どうしたというんですユウリ」
「何故って、そんなの私が聞きたい! 何なんですか貴方は、そんな風に呼ばないでください。まるで」

 ただ……そのトラブルを「面白くなってきたじゃないか」と楽しむように笑ってくれるはずのあなたは今、そう笑うための何もかもを何処かに、置き忘れて来てしまったようで。

「まるで、ずっと前から私のことを分かってくれていたみたいに」

2021.10.2

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