800歩先で逢いましょう(第二章)

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 先程まで「夕日が眩しい」と思っていたはずなのに、パシャリ、という音が聞こえた瞬間、私は太陽の光ではなくカメラのフラッシュから逃れるために手で目元を押さえていた。写真を撮られることはあまり得意ではない。自らの意図しない瞬間を切り取られ、何万人もの人の目に留まることを考えると本当にうんざりする。それにしても、ヨロイ島にまでやってくるのは勘弁願いたいものだ。こちらは決死の思いで全てを置き捨て、ようやく帰るべき場所に落ち着きかけたところだというのに。人も神様も執拗さという面では大差ないみたいだ。

「ねえ、流石に挨拶もなしにシャッターを切るのはお控えになった方がいいと思うよ」

 声を平らに沈ませ、半ば拗ねたようにそう零してみる。返ってこない返事に苛立ちかけて、目元の手を下ろして相手を睨み上げるために顔を上げて……そして気付いた。

「えっと、ごめんね? ポケモンかと思ったんだ」

 この人は誰だろう? というよりも此処は何処だろう?

「……」

 深めに息を吸い込んでみる。集中の森の夕暮れに満ちる濃い緑の匂いではなく、少し乾いた心地良い風と共に、スープの甘い気配が喉奥へと取り込まれていく。冷たい水でウッウが水浴びをする音は幾ら耳を澄ませても聞こえず、代わりに遠くで火がぱちぱちと弾ける音が鼓膜をくすぐった。夕焼けで淡い赤に染まった視界の大半を埋め尽くすのは、派手な黄色い屋根の建物。傍には小さなコテージが幾つも並んでいる。広場らしき開けた場所ではイーブイとムーランドが楽しそうに駆け回っていた。

「キミ、どうやってこの島に来たんだい? 博士に呼ばれた訳じゃないんだよね?」

 此処は集中の森ではない。島、と彼は言ったけれど間違いなくヨロイ島でもない。目の前で頭をかきながら尋ねてくるこの男性は、執拗な記者でも狡い神様でもない。知らない人のいる知らない場所に突如として私はいる。さて、困った。
 逃げ出そうにも、鞄もモンスターボールも全て置いて道場を出てしまったから、ピッピ人形に頼ることもインテレオンを繰り出すこともできない。唯一、ポケットの中にハンカチが一枚入っているけれど、今は使い時では断じてない。彼から貰った水色のハンカチは紛うことなき私の宝物だけれど、現状、私の心以外の何をも救ってくれはしない。

「その……」

 包み隠さず事情を……「私にも何が起こっているのか分からない」という事情を話してしまうか。あるいは忘失の振りに徹して無害な人間を演出し、一旦この人に保護してもらうか。それとも自身の脚力を信じて此処から全速力で逃げ出し、自力で元の場所に戻る手段を探すか。幾つか候補は浮かんだけれど、どれも良い選択とは言い難く、それぞれにリスクが伴うように思われた。
 次の行動を選びあぐねている私の顔色が余程悪かったのだろう、彼はこちらへと歩み寄り、大丈夫だよとやわらかく笑いながら肩を軽く叩いた。

「なんだか混乱しているみたいだね。ボクも同じだよ。庭で遊んでいるはずのルイを呼びに来たのにあの子は見つからないし、新種のポケモンよろしくキミが木の陰から飛び出してくるし……」
「あ……そ、そうだね。少し混乱しているみたいだ。ごめんなさい」
「えっと、念のために訊くけれど、密猟目当ての人じゃないよね? あ、いや、気分を悪くしないでくれよ。たまにこのレンティル地方へ、ポケモンを捕まえようとこっそり上陸してくる輩がいるみたいだからさ」

 悪人の容疑を掛けられようとしていることに冷や汗をかきかけたけれど、次の言葉で更に驚いてしまった。ポケモンを捕獲する人をそう呼ぶのなら、私は間違いなく密猟者だ。今まで何匹ポケモンを捕まえてきたか知れない。
 慌ててぶんぶんと首を振りながら……どうやらこの島では、ポケモンを捕まえることが「悪事」になるらしいと推測する。特別な保護区なのか、それとも此処には「ポケモントレーナー」という概念自体が存在しないのか。詳しい事情は分からないけれど、普段の調子でポケモントレーナーとしての振る舞いを続けていると痛い目を見そうだ。ただポケモントレーナーとして振る舞おうにも、インテレオンも空のモンスターボールもない以上、彼の言う「密猟」は到底できそうにないのだけれど。

「此処はレンティル地方というんだね」
「うん? そうだよ。君はレンティルを知らないの? まあそこまで有名な土地じゃないから、無理もないかな」

 悪人ではないと思ってもらえたらしく、彼は穏やかに笑いながら私の無知を許してくれた。この人にならどのような振る舞いをしたとしても無下に扱われるようなことにはならないだろう。そうした期待をある程度得られた私は、意を決し、できるだけ「なんてことのないように」さらりと尋ねてみることにした。

「レンティル地方ではこういう、テレポートみたいな超常現象がよく起きるの?」
「えっ、テレポート? 超常現象?」
「だっておかしいんだ。私はついさっきまでガラルのヨロイ島というところにいたはずなのに、気が付いたら此処にいて、貴方に写真を撮られているんだもの」

 数秒の沈黙を挟んでから、彼は「えええ!?」と驚きの悲鳴を豪快に上げた。騒ぎを聞きつけて黄色い屋根の建物から男の子と女の子が飛び出してくる。彼等も私の姿を認めて驚きの声を上げた。建物から更にもう一人現れた白衣の男性が、私を見て「おや」と暢気に笑う。

「どうしたんだい、ルイ。この一時間足らずで髪と背が随分伸びたようだけれど?」

 気の良さそうな皆さんによる事情聴取はきっと長く続くだろう。新しく巻き込まれた事件の「とんでもなさ」に思わず笑った。危険がないと一旦分かってしまえばほら、こんなトラブルだって、何もかもを忘れて夢中になれそうな、夢のような夢物語のようにさえ思えてしまう。
 ああ、久しぶりに面白くなってきたじゃないか。

2021.10.19

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