10 「私の神様への思いがどうであれ、かの存在の思惑なんてやっぱり私には分からないままだったと思うよ。この話は保留にして、貴方のお誘いの返事を先にしてしまおう」 「オーケー。色よい返事が聞けるかな?」 どうだろう? とこちらに期待を寄せるような言い方である。私の返事を心待ちにしているような弾んだ声音である。にもかかわらずその目……どんなに高性能なカメラのレンズでも敵わないであろうその慧眼は、私が「色よい返事」をできないことをもうすっかり分かっているようで、相変わらずの鋭さにひどく安心させられる。 「貴方が私を手放したくないと、仲間だと思ってくださっているように、私にもまた、手放せないものがあったみたいでね」 「はは、傍からいなくなって初めて分かった、というヤツかい?」 にっと笑いながら揶揄うように尋ねてくる。元の世界での大事なもの全て、大事であることを忘れたことはなかったはずだけれど、ただ目の前の苦痛と混乱に気が動転して、大事なものを上手く大事にできなくなっていた節は、確かにあった。 「そうかもしれない。向こうに置いてきてしまったものが沢山、本当に沢山あるんだ。一緒に戦いたい相棒がいる。強くなるための手助けをしてくれた素敵な人が大勢いる。『ただいま』って言いたい人がいる」 「なあんだ、とってもいいところじゃないか」 「そうだね、此処で思い切り楽しんで、幸せな時間を過ごしたからこそ改めて認識できたことだ。何も、誰も捨て置けない。でも今はまだ戻れないな」 「方法が見つからないから、という訳じゃないんだよね。戻れないと感じる理由はキミの中にあるんだろう。聞かせて?」 責められている訳ではないと安心できるからだろうか、あまり話したくないことであったはずのその「事情」は、スルスルと私の喉から滑り出てくる。 「私、向こうではそれなりに有名なポケモントレーナーで、多くの人が私のバトルに期待してくださっているのだけどね」 「ええっ、凄いじゃないか! そんなにすごい人だなんて知らなかったよ。ちぇっ、キミの才能は調査や撮影だけに咲いたものじゃなかったってことかあ」 「でも私、人を楽しませるためのバトルには向いていないみたいで、皆さんを退屈させているようだと知ってね、あの場所で戦うことが苦しくなったんだ。そのせいで、モンスターボールを投げることができなくなった」 「投げられない?」 「腕が動かないんだ。ボールを持つところまではいくんだけどね。ふわりんごやイルミナオーブは投げられるのに、厄介なことだよ」 右手を構えて投げる真似をしてみる。こうしていれば何の不自由もなく動くのに、ポケモンを繰り出す場になると腕に鉛を注がれたようになってしまう。あのスタジアムで戦うことを拒む気持ちがこうさせたのか、あるいは神様を捕らえたくない気持ち故か。それとも私は、ポケモントレーナーとして戦い続けることさえ嫌になってしまったのか。 そんなはずはない、インテレオンたちと一緒に戦うのはとても楽しかった。認識を間違えてはいけない。私の本当の苦しみが何処にあるのかを見誤ってはいけない。 「キミの、傷を癒すための場所として、神様がこのレンティル地方を選んでくれたことを誇りに思うよ」 「私も、此処に来られて本当に良かったと思っているよ」 「でも忘れないでほしい。傷付きにくいところを選んで生きたって誰もキミを責めないよ。キミはもう十分頑張ったんだし、キミが苦しいのはキミのせいじゃないんだから」 これは彼の甘言である。ひどく優しい悪魔の囁きである。極端な話だがそれくらいに認識しておかないと、今の私は飲まれてしまいそうになる。 帰らなければならない。帰って、私のこうした「好ましくないところ」も、「やっぱりあなた、ワタクシとお揃いではありませんか!」と喜んでくれる、そんな彼の隣に立たなければならない。彼の夢の一部になりたい。一緒に成し遂げたい。そのためにはやはりボールを投げられるようにならなければ。でも、どうやって? 「私からも尋ねていいかな。その、服の下で光っているものについて」 ぐるぐると思考の渦に嵌まりかけたため、藻掻くようにしてころりと話題を転じてみる。半ば苦し紛れな私の指摘だったけれど、トオルさんは訝しむことなく「ああ」と笑って首元の細い鎖をスルスルと引っ張り出してくれた。中から現れたのは蛍光塗料が塗られていると思しき、小さな指輪だった。ハートの装飾が施されたそれが、彼の趣味であるとは考えにくい。おそらくは誰かからのプレゼントだろう。案の定、彼はその鎖に通した指輪をこちらにゆらゆらと振って見せながら「ルイがくれたんだ」と、今は此処にいない少女の話をしてくれる。 「もっと大きくなって本物を買うから、それまでの『予約』だって言って、さ」 「予約……予約だって? ふふ、なんて可愛いことをするんだろう!」 慕われているんだね、と告げれば、彼は笑いながら頭をかいた。暗闇だったため頬や耳が赤くなっているかどうかは分からなかったけれど「だろう? 流石にびっくりしちゃったよ」と返すその声はいつもより少々上擦っていて、動揺と照れと喜びとその他様々な感情が入り交じり、彼を平静ではいられなくさせていることだけは読み取れた。 「あと八、いや十年かな? そんなに先の予約なんてされて、もしあの子がコロッと心変わりしてしまったら僕はどうすればいいんだろうね? まったく、大人はつらいよ」 「でも嬉しそうだ、とても」 「慕われるのは勿論嬉しいさ。それが同じ写真の道を志す可愛い後輩であるのなら尚のこと、手放し難い。でも僕から『行かないで』とはまだ言えないな」 「おや意外だ。私のことは『此処にいてほしい』として引き留めてくれたのに?」 まだ戻れない。まだ「行かないで」とは言えない。同じような保留を抱えているという共通点に少しばかり愉快な心地になってしまう。けれどもトオルさんは少し真面目な顔になって、あのおそろしく素晴らしい目を私に向けて、ピントを合わせるようにきゅっと細めて、そして。 「そりゃそうだ。だって僕、キミを愛してはいないんだもの」 そんな、とても的確でおそろしく残酷な言葉を、でも私が帰りやすくするために絶妙な調整が施された優しい言葉を、口にして。 「キミに此処へいてほしいと望むのは僕の利己的な欲望のためだよ。優秀な仲間を研究所に引き入れて此処での調査を益々発展させたいと思う、僕の、僕だけの我が儘。キミの弱みに付け込んで、此処でできるだけ長く……叶うならずっと活躍してもらいたいと思っている。それだけだ。ルイにはそんなこと、口が裂けても言えないよ」 「……」 「あの子が別の道を進みたいと言い出したなら、僕は笑って、応援の言葉と共に送り出すだけだ。そうしなきゃいけないんだよ、その裏で僕がどう思っていたとしても、ね」 血が、沸き立つような焦りを覚えた。先程まで夜風は涼しく心地の良いものだったはずなのに、今はひどく物足りない。胸の辺りが熱いのだ、とても。 恥ずかしいような気もする。悲しいような気もする。申し訳ないという気持ちにもなる。あの神様が私をこちらへ飛ばした理由について、改めて考え直したくなる。 「どうしたんだい、そんなに顔を真っ赤にして」 「だって、今の、まるで貴方が」 「僕が?」 だってそんな言い方、まるで貴方が、今此処にいないルイのことを心から愛していると言っているみたいだ。 いや、みたい、ではなく本当にそうなのではなかろうか。私はたった今、彼の告白を……彼からルイに告げることが今はまだ許されていない告白を、聞いてしまったのではなかろうか。 彼の口にした「今はまだ言えない」とは、「行かないで」ではなくて「僕のキミのことが大好きだよ」という、そちらだったのではなかろうか。 彼は今、それほどまでに大切な人を遠くに見失っているのではなかろうか。 「ねえ、キミも、愛すれば愛するほどいろんなことが恐ろしくなってしまうみたいだ。キミをこっちへ飛ばして遠ざけたその神様と同じだね」 「そんなことは、ないと思うけれど」 「そうかな? 愛したものたち、愛したかったものたちから一時的に世界さえ隔てられて、その実とっても安心しているように見えるけれど?」 やや挑発めいたその物言いに、不機嫌になることさえできやしない。だって何も間違っていないからだ。先程から彼の慧眼には一分の狂いもない。彼の隣に立つ資格のない私のまま、その、何処よりも愛した隣席へ着くことは何よりも恐ろしいのだ。きっと、落胆と批判を浴びながら一人戦い続けることよりもずっと、そちらの方がひどく私の心を削るだろう。世界を取り違えられたことによる本当の恩恵は、シュートスタジアムに立つ苦しみから一時的に逃れることによる平穏ではなく、みっともない私のまま彼の隣に立つことを一時的に免除されるという猶予の方にあったのかもしれない。 そう、何も間違っていない。そしてそれは貴方だって同じだ、トオルさん。 いじらしい健気な約束を反故にしても許されてしまうような彼女の幼さに、傷付けられることを恐れている。いつか彼女が手放してしまうかもしれない愛の予約を大事にしながらも、いざとなった時に潔く手放せるようにと、苦しみながらも強くきつく自身を律している。だから彼女が「離れていってしまうことを恐れる必要がない」という現状、彼女がそもそもこの世界にいないという現状にひどく救われてしまっている。 安心しているのは私も彼も同じだ。どうにかしなければいけないと考え始めているのもきっと、同じだ。 「貴方の宝物なんだね。彼女を恐れて、遠ざかったことに安心しても尚、それだけは手元に置いておきたいと願ってしまえる程度には」 「これくらいの思い出の品なら、キミにだってあるだろう? って、あ、ごめん。キミは鞄さえ持たずにこっちに来ちゃったんだよね」 「それが、運良く大事なものをポケットに入れたままにしていたようでね」 自慢するように水色のハンカチを広げてみせる。布の先が夜風を受け上品にたなびくのを見て、トオルさんは目を細めながら「いい生地だね」と褒めてくれた。 「ルイが水色に光るリングを選んだのは、これがレンティル地方のイルミナオーラによく似ているからだったみたいだ。キミのこの水色にも意味があるのかい?」 「そうだね、私の……兄弟子からのプレゼントなんだけど、水色は私ではなくて彼に縁のある色なんだ。『君の色だから好きだ』と公言していたから、この色のハンカチを選んでくれたんだろうね」 「うわっ、すごい惚気だ!」 「ええ? 貴方の話だって負けていなかったと思うけれど?」 同じ色を愛している。異なる所以で愛している。異なる人を重ねて愛着を覚えている。同じように再び会いたいと切に願っている。でも会えないことに安心してしまってもいる。それでも互いに「その人でなければいけない」とかたく信じる理由がある。 「僕等きっと臆病者だ、同じくらいにね」 「そうだね、その通りだ。この覚悟ではとても足りそうにない」 「合わせてみようか?」 合わせる? 不思議なことを言い出した彼に更なる説明を乞うべく眉をひそめて首を捻る。彼はにっと笑いながら慣れた手付きで私の頭を撫でる。きっとこれは、今まで何度も「彼女」にしていたことだ。 「空元気さえ振り絞って、覚悟のかさ増しをしてみようじゃないか、お互いにさ」 2021.10.28
800歩先で逢いましょう(第二章)