800歩先で逢いましょう(第二章)

9(flashback)

 サクッと軽く雪を踏む音がする。きっと神様が愛馬の背から降りたのだ。いつものように超存在の如く浮かんだりはせず、そうした威厳を示すことさえ忘れているのか、神様は雪の上をトコトコと走ってきて、私の服の裾をくいと引っ張った。
 視線を落とす。神様が不安そうにこちらを見上げて、何かを訴えようとしている。言いたいことは……何となく分かる。どうして戦いを挑んでこないのかと、この力が欲しくないのかと、ヨはすっかりそのつもりだったのに、まさか置いていかれるとは思っていなかった、どうか挑んできてほしい、そうしたことを言いたげである。分かっている。分かっているけれど、分かっていないフリをするため、私は困ったように笑いながら首を捻るというひどく意地の悪い行動に出た。
 神様はきょろきょろと辺りを見渡し、自らの意思を伝えるための手段を探しているようだった。けれど先程まで体を乗っ取っていたピオニーさんは念能力であの村へと送り返されたばかりで、此処には神様の思う手頃な人間などもういやしないのだ。

「私とインテレオンは言葉がなくても通じ合っているよ」
「!」
「私の信じるポケモンと人との絆ってそういうものなんだ。最初から人の言葉ありきで私に語り掛けてきた貴方には、理解し難い文化かもしれないけれど」

 だから貴方をポケモンとして見ることができない。そんな貴方をボールに収めるつもりは更々ない。暗にそう伝えれば神様は目を丸くした。そんなつもりじゃなかった、と顔に書いてある。表情豊かで愛嬌のある素敵な神様、大地を潤し心を癒す力を取り戻した、高慢だけれど優しい豊穣の王。きっと頼み事をしたのが私でなければ幸せになれただろう。私でさえなければ、人とも昔のように正しく絆を結べただろう。
 やはりここでも私は同じだ。シュートスタジアムにいる時と何も変わっていない。言葉を使って私に期待を寄せてくる存在はすべからく、誰もが落胆するように出来ているのだ。私に何かを願ってくれたところで、誰も幸せになんかなれないのだ。

「言葉を、軽んじている訳じゃないんだよ。話をするのは好き。そうやって言葉で通じ合えている相手は他にちゃんといる。私はインテレオンたちと一緒にその人のところへ帰ろうと思う。此処は、寒すぎるから」
「……」
「こんな私のパートナーなんて、貴方には役不足が過ぎるよ。もう諦めてほしい」

 神様の小さな手を掴んで服から引き剥がした。雪原に足を取られそうになりながらも必死で駆けた。それでも、カムカムと鳴きながらこちらを追いかけて来る神様に対して、私は言うべきではなかった言葉を口にしてしまう。

「どうして分かってくれないの? 一緒にいたくないんだよ、貴方とは!」

 ああ、拒んでしまった。私の仲間になりたいと言ってくれているポケモンを、おことわり、の範疇を超えて手酷く突き放してしまった。
 こんな酷い仕打ちをしてしまったのは初めてのことで、自らの愚かさに体の芯から冷え切ってしまう。ただでさえとても寒いのに。

 でもこの神様はポケモンなんてものではなかった。それまでの交流が人のそれに酷似しすぎていた。人を乗っ取り人の言葉を操り人を使役するおそろしい存在を、インテレオンと同じようには絶対に扱えない。ボールの中から指示や期待……それこそ、シュートスタジアムで皆さんが私に向けるようなものを常に寄せられることを思うだけで、気が狂いそうになる。私にはどうしても耐えられそうにない。
 言葉は要らない。期待も要らない。ただポケモンたちと一緒にいられるだけで、一緒に楽しく戦っていられるだけでいい。ポケモンたちだってそう思ってくれていると確信できた。非言語で結んだ絆は私にとってかけがえのない神聖なものだった。そこへ言葉と期待を持ち込まれたくはない。人の文化と混ぜこぜにされて苦しむのはもう沢山だ。

 そんな、臆病で身勝手な私の保身による大声で、神様は完全に諦めてくれたと思った。でも私の予想は外れ、神様は私がポケモンバトルをせざるを得ないようにするため、少し離れたところから生身の私へと攻撃を仕掛けてきたのだ。

「っ、インテレオン!」

 相棒の入ったボールを手に取り、投げようとした。けれど手に馴染んでいるはずのモンスターボールは宙を飛ぶことなく、そのまま雪の上にポスンと落ちる。何が起きたのか分からず、一瞬、頭が真っ白になった。ポケモントレーナーになったばかりの頃でさえ、ボールを投げ損じるなんてこと、一度もなかったのに。
 ポケモンを繰り出せないこの状況は流石の神様も想定外だったようで、真っ直ぐに飛んできた「エナジーボール」が、長く伸ばした私の髪を一房だけ、スパッと勢いよく、まるで小麦を刈るかのような軽さで吹き飛ばしていった。

「……どうして」

 腕が、動かない。雪上のボールを拾い上げるところまではできるのに、そこから構えることができない。手に力が入らず、右肩から下が鉛のようだ。ボールの中からインテレオンが心配そうに私を見上げている。表面の鈍い光沢に反射する私の顔が不安と絶望に大きく歪み、泣きそうになっていて、居た堪れなくなる。

「私に何をしたの」
「……」
「答えて! 貴方の仕業なんだろう!?」

 神様は目を見開いて沈黙していた。動揺、あるいは困惑の表情だとすぐに分かった。自分の意図しないところで私の腕が上がらなくなったことに驚いているといった様子だった。訳が分からなくなって、私は益々、困惑する。
 これは目の前の神様の仕業ではない。にもかかわらず私の腕は私のものではなくなったかのように、何かおぞましいものに乗っ取られてしまったかのように、ぴくりとも動かない。
 であるならばこれは、罰だろうか。神様の慈悲を拒んだ私への罰、豊穣の王を愛するこの冷たく白い雪原が私に与えた罰。まるで、神様の入ることが叶わないボールなどお前はもう金輪際投げる必要がない、と言われているみたいだ。そう捉えればしっくりときた。神様を悲しませるとはそういうことなのだ。
 因果応報、きっと此処が私の地獄に違いない。

「……」

 ただ、この失敗がなくとも、遅かれ早かれ私の腕は動かなくなっていたような気がする。私を脅したり我が儘で振り回したりせず、困りごとを解決するために人の言葉を使って助けを求めてきただけの善良なる神様に対して、このような曲がった心地ばかり抱いて、勝手に恐れて、憤って、拒んで、逃げ出そうとした、そんな私の性根の方がどうかしていたのだ。
 分かっている。この神様が優しいことも、この雪原が私に敵意など向けていないことも、本当は全て分かっている。最悪のタイミングで発生した私の、心因性の不自由、右腕の運動障害。それがこのトラブルの正体だ。私にボールを投げさせなくした憎き犯人のことは、誰よりもよく分かっている。
 因果応報、全て私の、せいだった。

「貴方の期待に応えられない私のことは、早く忘れてほしい。本当にごめんなさい」

 左手でボールを取り上げてポケットに仕舞い、歩き出した。神様の音はもう聞こえなかった。歩幅を大きくして坂道を駆け、モスノウの飛び交う林を滑り降りるようにして走った。トンネルの手前でようやく立ち止まり、冷え切った肩を抱いて、喉を潰すように泣いた。溢れた分はすぐに凍り付いて頬をチクチクと針のように刺した。

「セイボリー」

 縋るようにその音を嗚咽の合間に絞り出しながら、ただ彼に会いたい、とだけ思った。質の悪さを揃いのものとして喜び合った彼となら、安心して言葉を交わせるはずだと考えたのだ。言葉で受けた傷は言葉で癒せるはず。あの家族の元で過ごしていればきっと立ち直れるはず。何でもいい、話がしたい。いやもういっそ会話なんてなくたって構わない。ただあの道場で、いつもの得意気な顔で私を迎えてくれるだけで、笑って「おかえり」と言ってくれるだけで。

「……」

 ああ、でも今、私はボールを投げることができないのだ。こんな私では、彼の隣に立つことさえできやしないのだった!
 彼は私の隣に立つことを夢のひとつとして据えて、あんなにも熱心に特訓を続けているというのに、それより先に私がこんなところまで落ちぶれてしまっている。これでは勝てない。戦えない。彼が夢を叶えた先、そこに私はいられない。私が神様を拒んだせいで。私が、あの存在に優しくできなかったせいで!
 これこそが私への本当の罰なのだと諭すように、愚かな振る舞いで最愛の拠り所を失いかけている私を嗤うように、雪原の風は高く、低く、びゅうびゅうと鳴っていた。

*

 ガラルスタートーナメント開催の報せをダンデさんから受け取ったのはこの直後のことだ。すぐに雪原を飛び出してシュートシティのバトルタワーへと向かい、腕の事情を説明した上でお休みの延長申請を口頭で済ませた。逃げるように街を飛び出し、真っ直ぐヨロイ島へと向かって道場へと転がり込んだ。事前連絡も入れていない、急すぎる帰省であったにもかかわらず、家族は喜んで私を迎え入れてくれた。

 以前よりも少しだけ大人びたと思しき彼は、すっかり伸びてしまった私の長い髪に驚きながらも「梳き甲斐があってたいへんよろしい」と笑いながら、セルロイド製の櫛で以前のように髪を整えてくれた。
 久しぶりの再会で、彼の側にも話したいことが沢山あっただろうに、彼は顔色の悪い私に気を遣ったのか、敢えて沢山沈黙を作ってくれた。そんな気遣いなんて君らしくない、と揶揄う余裕は残念ながらなかったので、その沈黙に甘える形で贅沢な時間を一日、二日と過ごした。ただ顔色の悪さと悪寒は、なかなか引いてはくれなかった。

 さて。
 あの日、ミツバさんが「今夜はカレーだよ」と予告してくれた日の夕方のことは……実はよく覚えていない。上手く言えないけれど何らかの「気配」がしたのだ。とんでもないことが起こる気配。セイボリーや道場の家族は勿論のこと、インテレオンさえ巻き込んではいけないと思わせる、そんなおぞましい事件の気配が。
 嫌な予感が私を一層寒くさせた。ヨロイ島では在り得ない激しさの悪寒にとても戸惑った。私は手持ちのボールを全て鞄に仕舞い、スマホロトムさえ持つことを忘れて道場を飛び出して、黄色い花の咲く清涼湿原を抜けて、森へと向かって、そして。

『だっておかしいんだ。私はついさっきまでガラルのヨロイ島というところにいたはずなのに、気が付いたら此処にいて、貴方に写真を撮られているんだもの』

 腕が動かなくなったのは私のせいだった。でもこの、世界さえ飛び越えた形の逃避行にはほぼ間違いなく、あの神様や、あの神様の加護を受けた雪原の力が関わっている。
 この逃避行、夢のような夢物語が、トオルさんや博士の言う、あの優しい神様の「愛に依るもの」だとは考えたくない。でももし、もし本当にそうだったとしたら、私が「戻る」ことはより一層難しくなってしまう。
 きっと私の腕は、あの神様の愛を認めた上で、ガラルという土地での苦しみさえひっくるめて愛だとしてやるだけの覚悟を持ち直さなければ、動かない。そしてその覚悟を「まだ持たなくていい」と思わせてくれるものが多すぎるこの夢物語においては、目を覚ますための難易度は上がるばかりだ。

 置き捨ててきた全てを苦しみごと取り返すために必要なものとは、何だろう?

2021.10.27

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