800歩先で逢いましょう(第一章)

2

「記憶喪失!?」
「いやいや、そんな大それたもんじゃないよ。ちょっと混乱してるだけだって、ねえユウリちん」

 いつもと変わらぬのほほんとした声でシショーがのたまう。名前を呼ばれた彼女は困ったように笑いながら首を傾げるだけだ。くたりと下がった眉とふわふわとした口元は熱に晒して表面が縮れた綿飴のよう。「そうなんでしょうか」なんて他人事のように返すその声はコロコロと可愛らしい小鈴のよう。食堂の椅子に腰掛けて辺りをきょろきょろと見回すその肩は緊張のためか細く小さく竦められている。これでは本当に、震え迷えるウールーのようではないか。
 愛らしい表情と声、いたいけな態度、そして丁寧な言葉遣い。どれも少女らしくはあるものの、まったくもって彼女らしくはない。心地よく響くコントラルトボイスでセイボリーの名前を呼び、敬語を排した力強い言葉遣いとともに楽しげに笑ってみせる、そんなユウリの面影が欠片もないのだ。

「頭を打ったような感じもなさそうだねえ。ユウリちゃん、痛いところはないかい?」
「大丈夫ですよ。丁寧に診てくださってありがとうございます、えっと……ミツバさん」

 にもかかわらず彼女は「ユウリ」である。ポケモンも持たずに手ぶらで道場を飛び出したからか、服の裾や帽子や靴が若干汚れており、長く伸びた茶色い髪もやや乱れているものの、その紅茶色の目も小さな顎も細い首もまるい爪も、セイボリーの知る彼女の姿に相違ない。何より彼女自身が、自分の名前を「ユウリ」だと認識しているのだ。

『気が付いたら森の中にいました。ポケモンの鳴き声があちこちから聞こえてきて怖かったので、何とかして此処を抜けようと思ったんです。しばらく歩いていたらこの人が現れて、私の名前を呼んで……』
『……』
『さっきは逃げ出そうとしてごめんなさい。貴方は、私を迎えに来てくれていたんですよね』

 同じなのは記憶以外の全て。すなわち、姿と声と名前だけ。だからこそセイボリーは戸惑っていた。同じところを多分に残しているからこそ苦しかった。言葉を選ばずに言うなら……こんな「ユウリ」とずっと一緒にいては気が狂ってしまいそうだとさえ感じていたのだ。

「ここはユウリちんの家だったんだよ」
「家ですか? この道場が?」
「そうそう、実家はハロンタウンにあるみたいだけどねえ。ガラルを旅して、しばらくこの道場で一緒に暮らして、また旅に出て、それでついこの間、久しぶりに戻って来てくれたばっかりだったってワケ」
「旅に? 私が? どうしてですか?」

 何の冗談だろう、とこの不穏な状況を無理矢理にでも明るくせんとする気概で、シショーの隣に立ったミセスおかみが豪快に笑ってみせた。きょとんと目を見開くユウリへと目線を合わせ、その事実を刷り込むように話し掛ける。

「どうしてって、そりゃあユウリちゃんがポケモントレーナーだからよ!」

 ポケモントレーナー。その単語を聞いた瞬間、それまで眉こそ下げていたものの愛想よくニコニコと微笑んでいた彼女の顔が凍り付いた。赤から青へ転ずるような色の変化を受けて、シショーとミセスおかみも面食らったように沈黙する。ユウリ、と恐る恐るセイボリーが彼女の名前を呼べば、絹擦れのような弱々しい音でこう返ってきた。

「そんなはずありません」
「ユウリ、その、あなたは本当に」
「そんなはず、ありません」

 二度目はやや力強く、僅かながら以前のユウリを思い出させる芯の通った音で紡がれた。怯えたような目が揺れながらも真っ直ぐにこちらを見ている。二度繰り返された否定の言葉と共に、その紅茶色の視線が「どうか私をポケモントレーナーとして見てくれるな」とひどくいたいけな調子で訴えてくる。

「……」

 セイボリーは本当に、今度こそ本当に、気が狂ってしまうのではないかと思った。
 だってあなたに、ワタクシを此処まで導いたあなたにその道のりを捨てられてしまっては、ワタクシはまた一人で歩かなければいけなくなってしまう。
 嫌だ、置いて行かないでほしい。いなくならないでほしい。ワタクシは一人では生きていかれない。あなたがいつか隣に立ってくれるはずだという、あの確信がなければ、戦えない。

「ねえ……ユウリちゃんがこんな状態じゃあ、親御さんも心配だろうし、一度ハロンの家に帰して、ゆっくりしてきてもらった方がいいんじゃないのかい?」
「えっ、い、嫌。やめてください。私、家には行きません」

 茫然自失となりかけたセイボリーをよそに、彼女の強情な態度は更に続く。自らがポケモントレーナーであることへの否定のみに飽き足らず、今度は実家への帰宅まで渋り始めたのだ。
 なんたること、まるでかつてのワタクシのようではありませんか。

「だって、此処が私の家で、貴方がたが私の家族なんでしょう? 私は実家じゃなくてこっちへ帰って来たんだから、そういうことでいいんでしょう? だったら思い出せるまで此処にいさせてください」
「……でも」
「それとも、ポケモントレーナーじゃない私は此処にいてはいけない?」

 駄々の捏ね方がまるで子供のようだ。十四歳を「大人」とするには不相応だが、かつての大人びたユウリを知っているだけに、セイボリーを含めた道場の人間には、彼女が退行現象……幼児返りのようなものを起こしているようにさえ見えてしまう。記憶のはっきりしたあの子がこんな風に駄々を捏ねたのはいつが最後だったのだろう。尋ねてみたいと思った。そう考えれば少し、ほんの少しだけ、今の状況を楽しむ余裕が出来た。
 何にせよ、我が儘を言う彼女というのはとても新鮮である。聞き分けがよく、利己的な反抗をせず、最適解しか選ばないことに定評があり、門下生たちの仲裁に入ったことはあれど入られたことなど一度もなかった彼女が、遥か年上であるセイボリーよりもずっと大人びていたはずの品行方正な彼女が、今や最年少の道場門下生も顔負けな幼い態度で「嫌」と怯えたように首を振るばかりなのだ。
 そこにある程度のおかしさと面白さ、そしてほんの少しの喜ばしさを見出したのはセイボリーだけではなかったらしく、ミセスおかみは豪快に笑いながら、ユウリの子供返りを喜ぶように「そんなはずないじゃないか」と彼女の肩を抱き寄せてポンポンと叩いた。シショーも柔らかく微笑んで彼女の滞在を歓迎し、食堂の外で聞き耳を立てていた門下生たちに、おいでおいでと手招きした。

 わっとユウリの周りに駆け寄ってきた彼等にもみくちゃにされながら、彼女の表情は徐々に和らいでいった。この道場の「家族」の形がこの上なく温かく優しい形をしていることに、彼女が気付くまでそう時間は掛からないだろう。そう、セイボリーがこの道場の門を叩いたときも、シショーやミセスおかみや門下生たちは彼に優しさと温もりだけを与え続けていた。きっと多くを忘れてしまった今の彼女にだって、あの頃のセイボリーと同じ祝福が訪れるだけの話なのだ。
 やり直せるのではないか。柔らかく笑う彼女の横顔を見ながら、セイボリーはそうした微かな希望を抱く。此処で以前のように穏やかに暮らせば、いずれ全てを思い出して、そして。

「……」

 以前? 以前のように? 自らがポケモントレーナーであることさえ認めようとしない彼女に、取り戻せる「以前」など果たして存在するのだろうか。
 だって彼女がポケモントレーナーでないのなら、一体他の誰がそうであると言えるのだろう。彼女がポケモントレーナーでないのなら、一体彼女は何者であるというのだろう。

「さあ、夕食を温め直すからしばらく待っていておくれ。ユウリちゃんの席は前からそこだったんだよ。ほら、セイボリーちゃんの隣」

 柔らかくなった表情の彼女が真っ直ぐにセイボリーを見上げる。まるい紅茶色の瞳に映るセイボリーは、どうにも上手く笑えていない。

「お隣だったんですね。失礼します、セイボリーさん」

 睨み付けている訳ではない。言葉のトーンに棘がある訳でもない。表情や雰囲気はむしろかつてのユウリよりずっと愛らしく優しいものだ。にもかかわらずセイボリーは、彼女が自分に向けてくる全てが辛くて辛くて堪らない。

「ええ、ええドーゾ? 楽しみにしていてください、ミセスおかみのカレーは絶品ですから」

 ねえユウリ、あなたはそんな人ではなかった。そんな風にワタクシを見上げて来るような人では決してなかった。あなたはもっと、もっと。

2021.10.3

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