小話たち4

【喉へ伸びる袖、歌を読みゆく指】

 帰り道、唐突な激しいスコールが私達を集中の森で足止めした。木の下へと駆け込み、雨を吸った道着の裾を絞っていると、斜め右上から大きな溜め息が降る。「うんざりしている」という心地を実に丁寧に奏でた重苦しい溜め息に思わず視線がそちらへ向く。端正なその顔が不快を知らしめるように強く歪んでいたので、その眉のひそめ方を真似る遊びを楽しんでみる。驚きに見開かれた目がまたすっと細まる。彼の心地が悪天候への「不快感」から、幼稚な遊びに興じる私への「呆れ」にすり替わっていくのが嬉しくて、止められない。遠くで空が轟く。白い雷が曇天を切り裂く。音の煩さに顔をしかめた彼を楽しませるには力不足だろうが、騒々しい悪天候への不機嫌を紛らわせるための、時間稼ぎ、暇潰し、それくらいにはなりそうだと判断する。いつもの愉快な道化師がご機嫌斜めであるならば、今だけは私が、君の気分を掬い上げるジョーカーになろう。そうした決意のもとに口を開く。

「ねえ、歌の練習をしてもいい?」
「あなたが? 今、此処で?」
「下手だという自覚のある人間は、こういう煩い場所でしか思い切り歌えないからね。君の暇潰しになればいいけれど」

 彼の表情がまた変わる。私への「呆れ」が「驚き」にすり替わる様を眺めつつ、小さく咳払いをしてから、自らの首を右手で軽く掴んだ。丁度、手の平を喉に押し当てるような形だ。自らの発する音がこの煩さ故に届きにくい分、喉の震えとして指先から拾い上げることで音の揺らぎと声量を確認していく。白波が激しく音を立てる波打ち際で歌うときも、このようにしていた。誰かの前でするのは勿論、初めてだ。

「……【私のグリーンスリーブス、貴方以外には在り得ない】」

 古い民謡、緑の袖を纏った女性、彼女は娼婦か妖精か、今は亡き恋人であったのか。解釈が確定していないものを唱えるのは楽しい。謎を歌うのは心地が良い。彼がどんな表情をしているのか、確認することさえ忘れて声を出し続けた。音のほとんどは雨音が、雷が、奪い取ってくれた。喉に押さえた手の平だけが私の声の全てを知っていた。

「……【貴方が望む全てを差し上げます。貴方の愛へ捧げます】」

 するといきなり声が絶えた。伸びてきた彼の腕が、喉に置いていた私の手を引き剥がしたのだ。さて困った、これでは声が分からない。当惑する私の前で、彼は己が左手の白い手袋を外す。察しの付いた私はにわかに赤面する。果たして彼は予想通り、袖を伸ばして私の首に触れてくる。ねえ、少し冷たい手の君。そこまでして聞いてもらえる程の上手な歌ではないんだよ。私はただ、この滑稽な練習風景を楽しんでもらえるだけで、君に笑ってもらえるだけで、よかったのに。

「ほら、もっと歌ってくださいな」

 けれども私の声の全てを知ろうとするこの手に、全て差し出す覚悟ならとうに出来ている。頷いて息を吸う。雷が鳴る。

「……【私の心は変わることなく、『君』の虜にございます】」


盲目その1【目蓋の裏の特別・昼】

 ひどい砂嵐だった。でも逃げる訳にはいかなかった。伸ばしていた髪をバッサリと切っていった因縁の相手、エアームドからの撤退は敗北を意味する。そんな屈辱は是非とも避けたい。故に必ず勝つ必要があった。熱い砂埃が目を穿とうとも、痛みに目を開けていられなくなったとしても、この銀翼にだけは白旗を上げたくなかったのだ。

「その強情が高じてこのザマですか。あなたって妙なところで本当におバカですよね」
「そうだね、否定はしない。でもおかげでエアームドには勝利して、和解もできたし、仲間にさえ入ってもらえた。ちょっと目が腫れるくらい、どうってことないよ」
「目を開けていられなくなるレベルの腫れで何が『ちょっと』ですか、まったく」

 激闘の末に盲目となり果て、インテレオンに抱えられて何とか道場まで帰還した私に、ミツバさんは苦笑しつつ目の消毒をしてくれた。一日安静にしていれば治るだろうとの見立てに安堵したのも束の間、その安静を強要される形で今度は兄弟子に抱えられてしまった。目を開けられない状況で特訓やバトルなどできるはずがない。無理のしようがない。故にこれは不要な拘束である。にもかかわらず彼は私を膝に置いて離さない。こんなことをされたのは初めてで、少し、緊張する。どんな顔で私の背中に手を回しているのか、見てみたいと思う。でも私が「見えない」からこそ、こんなことをしてくれているのだと察しが付くから、私はまだしばらく、目蓋を固めることを選ぶほかにない。

「確か君の手は冷たかったよね。目の下に添えてもらえると気持ちが良さそうだな」

 呆れを示す溜め息の直後、手袋を外す音が私の、盲目に乗じた甘えを優しく許した。


盲目その2【目蓋の裏の特別・夜】

「もう日付が変わっていますよ。眠らないのですか?」
「一度は横になったんだよ。でもウールーを五百ほど数えても、寝付けなくて」

 砂嵐の中、宿敵と夢中で戦ったせいで熱い砂埃の猛攻を受け、使い物にならなくなった目を労わる形で丸一日の安静を指示されている。にもかかわらず眠れないという些末な不安は、食堂の方角から飛んできた彼の声に掻き消されたので、もう気にならない。

「セイボリーはいつもの夜更かしかな。今日は何の本を用意しているの?」
「本の用意なぞありませんよ。あなたがそんな状態なのに、読む気分になれるとでも?」

 目を腫らしただけで大袈裟だ、と思う。今の私はそんなに見苦しい様相だろうか、と思う。彼の夜更かしを邪魔してしまって申し訳ない、とも思う。そして質の悪いことに、見えないというだけの私へ此処まで心を砕いてくれることが、嬉しい、とさえ思う。

「ハァ、いいですよ。眠くなるまで付き合いましょう。今日だけの特別なやり方で」

 昼間、膝に抱えられただけでも十分に特別だったのに、今度は何をするつもりだろう。などと考えていた私の鼓膜と心臓が、彼の「歌声」を捉えて、大きく震えた。歌ってみせてとこれまで何度頼んでも頑なに拒んでいたというのに、よりにもよって今、願いを叶えてくれるなんて、とても狡い。有名な讃美歌を丁寧に奏でる彼の横顔を見られない。この「特別」は私が目を開けた瞬間に終わるのだと、分かっているから、開けられない。

「……【今まで見えなかったもの全て、神に救い上げられた今ならば、見える】」

 そんなことを綺麗な声で歌うので、まだ盲目の私には彼が本当の神に「見える」。


盲目その3【そろえる虚栄(紅茶色より)】

「ユウリ? ユウリですよね。その靴音、あなたのものだ! 違うとは言わせません!」

 道場の扉を閉め、少し歩いたところで、いつも以上の大声と共に椅子が倒れる音が聞こえてきた。何事かと歩幅を大きくして食堂へと向かえば、シルクハットを外した兄弟子の、痛々しいなどという形容ではとても足りないような有様が私の網膜を鋭く刺した。両目を塞ぐ包帯。右目の端辺りに滲む赤。左足を引きずるようにして歩いてくる。ぶつかった椅子は乾いた音で倒れる。にもかかわらず彼の口元は完璧な笑みを湛えている。私を探すようにひらひらと手を振りながら、ほら、目の前でやはり陽気に笑うのだ。

「ご覧なさい、凡人よろしく油断したせいでこのザマです!」
「……今日は何処に行ったの。何処のエリアのポケモンが、君をこんな風にしたの」
「いいえ、完全にワタクシの自業自得、足元不注意によるものです。捻挫も直に治りますし、見るべきものも見えない目ならほんの数日塞いでしまっても支障ありません! ふふ、どうぞ笑っていただいて構わないんですよユウリ、この兄弟子の慢心を」

 愕然とした。混乱した。今の彼を構成する全てが私を当惑させた。彼の怪我も、彼の笑顔も、彼の自虐も、全てが痛くて堪らなかった。苦しんでいるのは彼の方であるはずなのに、その彼が笑ってくれているというのに、私が、泣き出してしまいそうだった。
 そんな醜態、許されるはずがないと分かっている。だから私は大きく息を吸い込み、私を探して宙を彷徨わせる彼の手、奇跡的に無傷のその手を、笑顔で強く、強く掴む。

「セイボリー、怪我をしているところとても不謹慎なことを言うけれど、いいかな?」


盲目その4【そろえる虚栄(水色より)】

 砂嵐で視界の悪いチャレンジロードの階段を、勢いよく踏み外したのが致命的。目元を含めたあちこちを強く打ち、自力で立つことも叶わなかった。そんな彼が今、妹弟子に苦痛と恥を悟られないよう、笑顔で虚栄を張れているのは、通りかかった門下生たちとミセスおかみによる適切な処置があったからに他ならない。そんな彼等も今は無言を貫いている。妹弟子の次の言動を、固唾を飲んで見守っているのだ。長く彼等と過ごし、その温かな愛情に触れてきたセイボリーにはそれが分かる。見えずとも分かってしまう。

「私、とても嬉しいんだ。靴の立てる音で私だと分かってくれた人は君が初めてだよ」
「……っ、も、勿論です。見えずとも、あなたが此処にいることがワタクシには分かる」
「うん、とても嬉しい。ごめんね、さっきから顔がとても……だらしないんだ、嬉しくて。不謹慎だけれど、今だけは君の目が見えなくてよかったって思うよ。私がこんな顔をする人間だと知ったら……きっと、君に、軽蔑されてしまう」

 声も手も、震えている。努めて明るい声を作ってくれている。靴音さえ聞き分けられる彼女のことは、誰よりも何よりも分かる。手を掴んでいない方の腕が彼の背中にそっと回る。嗚咽を強引に噛み殺すような息の揺れ方である。手の甲に、温いものが落ちる。

「痛かったよね。怖かったよね。こんなことしかしてあげられなくて、ごめんなさい」

 彼は無理をして笑っていた。彼女は無理をして喜んでいた。双方の粗削りで懸命な虚栄は傷を塞ぎ合うように寄り添っていた。誰もそんな痛々しい二人を咎めなかった。

「いえ。……いいえ、充分です。これ以上、何を望むべくもありません」


凶行その1【おさない審判】

 手持ちのポケモンを一匹残してリーグスタッフに全て取り上げられた上での、二週間の公式試合出場停止。ポケモンをこよなく愛するチャンピオンに下されたその処罰は瞬く間にガラル全土に知れ渡った。けれども当の本人は、そのような騒ぎなど全く意に介していない様子で、島を出た時と変わらぬ笑顔のまま戻って来た。「お腹が空いたなあ」と、インテレオンの入ったボールを撫でながら歌うようにそう紡ぐばかりであったのだ。

「スタッフの皆さんは私のポケモンを蔑ろにしたりしないよ。ちゃんと大事に世話してくださる。私からも二週間お願いしますと丁寧に頼み込んであるからね、心配は無用だ」

 ポットパイの表面をスプーンでつつきながら告げる彼女、その目は意図的に伏せられている。眼前の相手が向ける糾弾の視線を、その完璧な笑顔であしらい続けるつもりなのだ。けれどもセイボリーとて、一切の追及をしないままに終わってやるつもりなど更々ない。世間様を相手に品行方正を貫いてきた彼女が今日起こした、相手に血を流させる程の暴力行為。その真相を暴くことを、彼はどうしても諦めることができそうにない。

「どうしたの? 私が外でお行儀よくできなかったことがそんなに気に入らない?」
「違います。あなたが暴力を振るうなど初めてのことだ。何か、耐え難いことが起こったのでしょう? その傷が、相手に怪我をさせたくらいで癒えているとは考えにくい」
「何が言いたいのか分かりかねるね、セイボリー」
「だから! 苦しさを誤魔化すための下手な笑顔はもうやめろと言っているんですよ!」

 パイ生地のひび割れる鈍い音は、彼女の息を飲む音を掻き消すには少し足りなかった。 


凶行その2【おさない地獄】

 合理に基づく従順な生き方を続けてきた私が、その合理を踏み外してでも求めたい何かにこの島で出会えたことは、人生において一番の僥倖であったに違いない。彼のつくる「水色」への想い、あれは信仰か、一目惚れか。そんな具合に彼のテレキネシスが持つ神秘性へと寄せていた感情が、そのまま彼自身の人間性や生き方や信念への想いに染み移るまで、そう時間は掛からなかった。人をこのような形で想うのは初めてだった。この想いはとても尊く清く素敵なもので在り続けてくれると、信じていたかった。

「信仰を侮辱されたことに対する報復は、どれ程の重罰になるのかな。教えてほしい」
「……信仰? 侮辱? 報復? ユウリ、あなた一体何を」
「君の悪口を言った相手を殴った私は、地獄へ落ちるべきなのかと聞いているんだよ!」

 その想いが、人を傷付ける形で暴発し得るものであることなど、知りたくなかった。

「耐えられなかった。本当に悔しかったんだ。もう言わないでと頭を下げてもあの人は口を閉じなかった。だから殴って黙らせた。重罪だと知っていながら止められなかった」

 みっともなく滑り落ちた重たく暗い一粒が、ひび割れたパイ生地に細い穴を開けた。
 軽蔑するならいっそ裁いて、容赦なく地獄へ落としてほしい。そんな思いで縋るように彼を見上げれば、歪む視界の向こう側、泣き出しそうな顔をして、それでも努めて笑ってくれていた。そんなことで、とか、なんて大袈裟な、とか、地獄になぞ落ちるものですか、とか、そうした文句を下手な嘲笑の中に混ぜつつ、私を強く掻き抱いていった。

「ワタクシが全力で引き上げてみせますとも。だからあなたはもう、苦しまなくていい」


お酒その3【酩酊信奉】(セイボリーを成人設定として執筆)

 面白いものが見られるよ。おかみさんにそう言われるがままに、私はざわめきと笑い声の出処である夜の食堂へ、何の心構えもせずに向かった。実に軽率な行動であった。

「あっはは、そうですか皆さんにはお分かりになりませんか、それはたいへん都合がいい! 彼女がただの可愛らしいチャンピオンに見えているだけだというのなら、ええ、是非そのままでいてください。彼女が可愛がられる分には一向に構いませんが、彼女を恋い慕う人が現れてしまうと、ワタクシ穏やかではいられそうにありませんので!」

 濃すぎるお酒の気配に眉をひそめる。アルコールの強烈な芳香が不快であったから私の表情は歪んでいる。断じて、彼のとんでもない発言に当惑した訳ではなくてね?

「あなた方もご覧になったでしょう、今日のユウリもおそろしく強かった。彼女は凡人たるワタクシとのバトルにも一切の手加減をしないんですよ。完膚なきまでに叩きのめしてくださる。いつだって全力で向き合ってくださる。バトルだけじゃない、ワタクシの言葉や想いの全て、些末なものから真剣なものまで、彼女は全て拾ってくださる! おざなりになぞせず全て大事にしてくださる! 配慮も情けも排したあの真っ直ぐな視線に貫かれるとき、ワタクシがどれ程救われた心地になるのか、きっとあなた方には分からないのでしょう? ええ、是非分からないままでいてくださいね。ワタクシがどうしようもない程に彼女を好きなことを、皆さんはどうかそのまま、知らずにいて」

 質の悪すぎる酩酊を為した兄弟子は顔を上げ、彼以上に赤い顔をした私に笑いかける。

「ああ、おかえりなさい。今ね、あなたを信仰する幸せな男の話をしていたんですよ」


お酒その4【記憶と思慮の怪盗】

「君は、覚えのない罪を糾弾されることについて不服だと思うかもしれないけれど!」

 許容量を超えるアルコールを機嫌よく摂取し続けたことへの罰なら、二日酔いという形で今まさに受けているところだ。まさか余罪が新しく見つかったのだろうか、とセイボリーはやや不安な心地を覚える。昨夜の出来事を「たのしかった」という事実を除いて何も思い出せずにいるような有様では、素面の妹弟子による糾弾を「冤罪だ」と抗議することさえできやしない。故にそのまま、聞き入れるしかない。

「あそこまであけすけに自らの想いを晒していくのはどうかと思う。質が悪すぎるよ」
「あけすけに……フム、惚気でもやらかしたのですかね、昨夜の愚かなワタクシは」

 惚気、の単語を受けて妹弟子の顔が歪む。ひそめられた眉と、火照った頬。図星のようだ。そういえば、同じ表情を昨夜も見た気がする。痛む頭を押さえつつセイボリーは笑った。おそらくは昨夜と同じ、とろけるようなだらしのない笑い方に違いなかった。

「まあいいでしょう。ワタクシがあなたに年甲斐もなく執着していることなど、既に誰の目にも明らかでしょうし。皆さん、つまらない低俗な話にうんざりしていたのでは?」
「……違う、違うんだよセイボリー。もし君の話が本当につまらないものだったなら、私は、こんなにも恥ずかしくて悔しくて熱くて苦しい思いをせずに済んだはずなんだ」

 ああ、これは卑怯だ。彼女にそれだけのものを残しておきながら、その発端となった自らの言葉は何一つ、記憶に残っていないなんて。狡い。昨夜のワタクシは、実に狡い。

「ねえ教えてください。その狡い男はどんな言葉で、あなたをそんな風にしたんです?」

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