夜を夢見る藍

2

「怖かったわ。あたしのことをずっと前から知っていたみたいに話すんだもの」

 以前、幹部のマーズがそう零したことがある。谷間の発電所から大勢の部下と共に帰還した彼女の顔色は悪く、サターンも心配になる程であった。不測の事態か、と尋ねれば、忌々しそうにその拳をぎゅっと握り締めながら「正義のヒーローを気取った不気味な子供にやられた」と彼女は口にした。まだ、その子供の名前さえ知らぬ頃だった。

「あたしを見るなり開口一番、名前を言い当ててきたのよ。あたしがブニャットを連れていることも、この子の使える技やその威力も、お見通しみたいだった」
「偶然じゃないのか。名前だって、部下が迂闊に口にでもしたんだろう」

 でも、と口ごもるマーズの顔色は戻らぬままだった。髪が鮮やかな赤色であるせいで、余計に青ざめた表情の悲壮感が際立っていた。後日ジュピターも全く同じ顔色で、ほとんど同じ内容をサターンに聞かせてくることになるのだが、それは今回割愛しよう。
 とにかく、この二人の共通認識としてあったのは「あの子供は不気味だ」ということだった。正義のヒーローごっこを楽しむように我々ギンガ団に戦いを挑んでくる身でありながら、ひどく親しげに我々の名を呼んでくる、その立場と行動の乖離がとにかく不可解で、不気味であった、ということなのだろう。サターンは漠然とそのように考えていた。

 後日、彼はこの子供を、監視カメラの映像越しに初めて見ることになった。ハクタイシティのギンガ団アジトに仕掛けられたそれ、ジュピターとこの子供が戦っている様子を彼は何度か再生したが、成る程確かに不気味であったと言わざるを得なかった。
 スカタンクが切り札として出て来ることを読んでいたかのようなタイミングで、相性の悪いポケモンを交代させたこと。スカタンクの特性が「あくしゅう」ではなく「ゆうばく」であると確信した上で、爆破のダメージを食らわないよう、直接攻撃を避けて技を指示したこと。それらをただの「頭の切れる子供」のしたことだと、そう片付けてしまうことは最早サターンにはできそうになかった。
 未来視でもしているかのような戦い方。怖いほどに適切な指示を繰り返す少女の、こちらへと真っ直ぐに向けられるその粘ついた視線。それらを目の当たりにしたサターンは、改めてマーズおよびジュピターに同情した。そして、次に青ざめることになるのはおそらく自分だろうなと予想し、背中を嫌な汗が伝った。不可解だ。不気味だ。ひたすらに。

 この時、サターンが思ったのは「わたしはこの不気味な少女を前にしてどれだけ健闘できるだろうか」ということではなく「果たしてわたしはあの目を恐れずにいられるだろうか」ということであった。サターンはこの少女を映像越しに見つけたその瞬間から、この少女に敗れることよりも、この少女と対峙すること……すなわち彼女に「見つめられること」の方をずっと恐れていたのだった。

 慈しむように、喜ぶように、そして何かを期待するようにジュピターへと向けられている、あの藍色の粘ついた視線。おそらくマーズにも向けられていたのであろう、楽しそうな、けれども少しだけ眠そうな、暗い瞳。

『また会おうね、なんて言うの。バトルができて楽しかった、って言うの』
『……』
『まるで古い友達に再会できたことを喜ぶみたいに、あの子、あたしを見て、本当に嬉しそうに笑ったのよ』

 その幼い顔面に開いた二つの暗い穴を、正面から覗かなければいけなくなる日が必ず来る。その時、果たして自分は正気でいられるのだろうか。

*

「お前の顔を知ってるぞ! ハクタイのギンガ団アジトに乗り込んできた子供だな!」

 自らを奮い立たせるように発した大声は、リッシ湖の洞窟にぐわんと歪に反響した。十歳程の幼い子供を怯ませるには十分な声量であり気迫であるはずだった。けれどもその幼い子供、水溜まりに広がる小さな波紋の出処として静かに佇むその少女は、サターンのそうした虚勢にも動じることなく、その目をゆるく細めてこう言ったのだ。

「嬉しい! 私もあなたのことを知ってるよ、サターンさん!」

 本当に嬉しそうに笑った、というマーズの言葉が脳裏を過ぎった。ああこれのことだったのか、という気付きが冷たい汗へと液化してサターンの背を伝った。きっと全く同じ笑みがあの日、マーズやジュピターにも向けられていたのだろうと、そう確信するに十分な「喜び」がその子供の笑顔から溢れて、溢れて、膨らんで、弾け飛ばんばかりだった。
 成る程確かに気味が悪い。テレパシーか未来予知の類を使いこなすサイキッカーでもあるまいし、こんな芸当、普通の子供においそれとできていいはずがないのに。

「そうか……。お前は余程わたしのことが好きと見える」
「そうだよ。サターンさんのことも、マーズさんもジュピターさんも、アカギさんのことも大好き!」
「アカギ様ともこんな調子で話をしたのか?」
「こんな調子、って?」

 不思議そうに首を捻る不気味な少女は、自らがどれだけ異質なことをしているのか、どうやらまるで自覚していないらしい。あの方もさぞや困惑しただろうな、とサターンは苦笑したくなった。けれども「困惑する」という現象がそもそもあの方には似合わないな、とも思い、僅かに上がった口角をぴたりと止めて、すっと下げた。そうであったならどんなにか面白かったろう、などと若干の口惜しさを覚えながら。

「こっちではみんなとあまりお話ができなくて寂しかったの。でもサターンさんはあっちと同じように、私とお喋りしてくれるんだね。ありがとう!」
「こっち?」

 未来予知ができている訳でもない、テレパシーが使えているということでもなさそうだ。格別頭が切れるようにも見えない。どちらかというと愚鈍な部類だろう。にもかかわらずサターンやマーズやジュピターは、この少女のことを恐れずにはいられなくなっている。ひょっとすると、あの方だって同じように。

「……」

 まるで意味が分からない。この子供が語る不可思議な理屈は、サターンには到底理解の及ばないものばかりだ。けれどもこの時彼女が「あっち」と「こっち」という場所を口にしたことで、サターンの中には一つの可能性が芽生えた。すなわち、彼女には……生得的なものか後天的なものか、天変地異かポケモンの仕業かは分からないが、とにかく何らかの理由により……複数の「場所」、いや、何らかの「次元」とでも呼ぶべきものの存在が見えていて、その「別次元を見る」ことで得た情報が、このただの子供をここまで勝たしめてきた、という可能性である。

「ヒカリ」
「えっ! す、すごい! 私の名前、もう知っているんだね」
「ああ、そうとも。お前がわたしを好きでいてくれているように、わたしもお前に興味があるからな」
「本当? 嬉しいなあ」

 別次元、などという、あるかどうか分からないものを、絵空事ではなく可能性として捉えてしまったのは、彼が「新たな宇宙を創造する」ことを目的とするギンガ団の幹部であったからに他ならない。理知的で現実主義な人間であるはずのサターンが、この少女の不気味な発言にすぐさま意味を見出せてしまったのはそうした背景が理由でもある。すなわち、ギンガ団にてそうした創造の理論に触れ過ぎていたために、またあの方に長く「騙されたフリをして」付き従いすぎたがために、彼は……この子供に見えているものの正体について、実にギンガ団員然とした仮説を立ててしまったのだった。

 あの方が追い求め、創造しようとしている「新たな宇宙」は既に存在している?
 その「新たな宇宙」には既に、わたしやマーズやジュピターやアカギ様がいる?
 お前はそれをずっと見てきた? 観測者として? それとも住人の一人として?
 その目に映しているのは本当に「こっち」の我々か? あるいは「あっち」の我々を重ねて、ただ懐かしんでいるに過ぎないのではないか?

「だが生憎わたしにはお前のような力がないんだ。お前が我々を知ってくれているように、わたしもお前のことをもっと知ってやれればいいんだが」

 ぱっと目を見開いた彼女はいよいよ嬉しそうに笑い、勿論いいよと、教えてあげると甲高い声で宣言してから、くるりと踵を返してサターンから距離を取った。
 スキップするような足取りである。夢の中を走っているようにも見える。視界にもやがかかっている訳でも強烈な眠気を覚えている訳でもないのに、その小さな背中とそこに揺れる藍色の長い髪に視線を向けながら、サターンはにわかに、不安になる。

 今彼女が見ているのは本当に「こっち」の世界か? 彼女は「あっち」を駆けていやしないか? 我々とお前は「あっち」の世界でどんな最後を迎えた? お前のその力によって、我々は一体、何処へ連れていかれようとしている?

「ほら、ボールを投げて! 私達、今から此処でポケモンバトルをするんだよ!」

 にっこりと笑ってバトルを促す少女、その幼い顔面には二つの暗い穴が開いている。粘ついた藍色の視線が、大きな期待と共にサターンを真っ直ぐに射る。ああ、マーズやジュピターはこんな心地だったのかといよいよ悟りつつ、彼はその暗い穴を正面から見据える。
 存外、心は穏やかだった。狂気めく必要など彼にはなかった。恐怖もあまり感じなかった。ただ……何故だろう、妙に「悲しい」と感じたのだった。突如、降って湧いて出たその似合わぬ感情こそ、あの時あの場においていっとう不気味なものに違いなかった。

*

 そんな彼女との再会は、ギンガトバリビルの一室でまたすぐに果たされることになるのだが、その表情がひどく曇っていたために、サターンは思わず「どうした」と背を曲げて尋ねてしまった。
 尋ねてから、サターンは己が行動をひどく恥じた。曲がりなりにも敵である相手に対してこの態度、どうかしている。この子供と対峙していると、自分の方がいよいよ不気味になってしまって、とてもいけない。

「アカギ様と戦ったのだろう。あの方が何を繰り出しどう指示するかを『見てきた』お前なら、勝利など造作もないことであったはずだ。違うか?」
「うん、勝ったよ。ちゃんと勝った。でも……」

 彼女はもう、あの粘ついた色の瞳をこちらに向けなかった。静かに伏せられた白い目蓋が、あの不気味な色を綺麗に隠していて、ああこうしているとお前も普通の子供だな、などと暢気にサターンはそんなことを感じていたのだった。

「お話、してくれなかったの。こっちのアカギさんはほとんど何も教えてくれなかった」
「……」
「やっぱり、あっちとこっちは違うんだね。いろんなこと、変わってほしくなかったことが、少しずつ違う……」

 目を伏せたまま、普通の子供は至極普通のことを口にする。サターンはそんな「普通」を耳にして……ああ、何故だろう、いよいよ普通ではいられなくなってしまう。

「あなたも本当は『違う』のかな、サターンさん」

2022.1.25

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