Please show wound, beloved.

※青の共有番外「Please show love, God.」とタイトルを意図的に似せていますが、両者の間に関連はありません。
(サイコロ終了から数年後)

夜のプラズマフリゲート。静寂の下りたこの一室。窓を開ければ飛び込んでくるのは波の音ばかりで、それはアクロマをいっとう安心させていた。
けれどもその心地良い静けさをガラスの割れる音が勢いよく掻き消していく。
何事かと慌てて立ち上がり、隣接された簡易キッチンへと向かえば、
ささやかな灯りの下でくずおれるように座り込み、散らばった破片を集めようと床に指を這わせている少女の姿があった。

シアさん、素手でそんなものに触っては」

「えっ」

プツン、と皮膚が裂けるその劇的な音が聞こえた訳ではなかったが、その瞬間、人差し指から勢いよく流れ出した血の幕開けは、
呆気ない程に脆い人の肌と、残忍なまでに鋭利なガラスの破片とがどこまでも相容れないことを示しているように見えて、彼は思わず息を飲んだのだった。
そうこうしている間にも、彼女のぱっくりと裂けた指先からは血が零れ続けている。ぽたぽたと落ちていくそれは、無骨なフローリングと透明なガラスを生々しい赤で染色していく。
アクロマは駆け寄り、膝を折る。フレーバーティーの茶葉が示す甘い苺の匂いに交じって、僅かに、ほんの僅かに鉄めいた臭いが鼻先に触れる。

床に散らばっている鋭利なそれは、彼女が先日購入したガラス製の耐熱ティーポットだった。
お湯を注いだ後に、茶葉がポットの中で回る様子を見ているのが楽しいのだと彼女は嬉しそうに話していた。
3分の蒸らし時間の間に、彼女はティーポットと水時計を交互に見遣る。ガラスの中をぽろぽろと落ちていく海と、お湯の中でそわそわと泳ぐ苺を、慈しむように見比べている。
少女はその二つを眺めるのが好きだった。アクロマはそうした二つを眺めている少女を黙って見守るのが、好きだった。
その道具のひとつを欠いてしまったことを知り、ささやかな寂しさがアクロマの胸を満たす。
けれどもその寂しさは、彼女の指が血染めになっているという事実への危機感がすぐさま押し流していってしまう。

「あっ、痛い」

思い出したように笑いながら小さく呟いた彼女は、左の手を受け皿にするように人差し指の下へと持っていく。
しっかりと締めることを怠った蛇口から水が少しずつ落ちていくように、その小さな指の先から赤が降る。
アクロマが声を出して咎めなければ、彼女はいつまでもそうしているのではないかとさえ思われてしまう。

「そうしていても血は止まりませんよ。指の根本を圧迫しないと」

「分かっていますよ」

彼の正論を遮るように、笑顔のままで彼女はそう告げる。
何かあったのだろうなということはすぐに察することができた。普段の彼女なら、このような、無益で無駄な行為に没頭する自身のことをアクロマの前で晒そうとはしないからだ。

「これ、静脈血なんですよね。外から見ている私はこんなにも赤くて鮮やかで綺麗だと感じているのに、その実、これは私の中に流れる血の褪せた姿に過ぎないんですよね。
私の中には、私にさえ知覚できない動脈血が流れていて、もっと赤くて鮮やかで綺麗なその色は、私が生きるためにずっと奥深くへ隠されたままなんですよね」

貴方に教わったことですよ、と彼女は笑う。そうでしたねと彼は相槌を打つ。ただそれだけのことが嬉しいらしく彼女は笑う。ぽたり、と血が落ちる。
このまま放っておいても血が止まらないことなど彼女も彼も分かっている。分かっていながら彼女は止血のための圧迫を行わず、彼も手を出そうとはせずにそれを見守っている。

「紅茶を、淹れてくれようとしたのですか」

「そのつもりだったんですけど……ごめんなさい、茶葉を無駄にしてしまって」

「気にしなくていいんですよ。茶葉もティーポットもまた買うことができます。今は替えの効かないものを、大事にさせてください」

「えっ、私、今でも貴方にとって替えの効かない存在ですか? あはは、嬉しい!」

当然のことだ、と思う。それしきのこと、いつもの貴方であれば迷うことなく確信できるはずなのに、とも思う。
けれども、アクロマにとっての彼女の「かけがえのなさ」を、今更すぎるその事実を改めて言葉に出すことで彼女がいっとう安心できるのならば、彼は繰り返すことを躊躇わない。
弾けたように笑い出す彼女の指先からは血が落ち続けている。
赤い雨を受け止め続けた左の手の平は、彼女の笑顔と笑い声をより猟奇的で鮮烈なものとしてアクロマの記憶に留めていく。
こうして今日も、アクロマはどうしようもない程に少女のことを好きにさせられていく。青い海にも、赤い血にも、彼はこうしていよいよ絆されていく。

王道のハッピーエンドを造り上げ、以降も正道ばかり歩いてきたとばかり思わせる彼女の歩みは、こうして時折ぐらりと逸れる。
強いようでいて妙なところで打たれ弱くもある彼女は、そうしてなりふり構わず揺らぎ尽くすことで再び歩みを進めるための力としているようなところがある。
誰も見ていないところで、彼女は唐突に利己的に、非合理的に、粗悪的に振る舞い、そうした自分に酔うように笑い出すのだ。
それは、必要とあらば己の命さえ躊躇いなく差し出す程の、破滅的な献身を振りかざして多くを変えてきた彼女の、表では決して見せることのできなくなった、悲しい幼さであった。

その歪みを嘆かわしいことだ、とは全く思わない。
彼がそうした彼女の歪みを見つけることができたのはつい最近のことであり、それまでの数年間、彼女は実に上手にその歪みを隠してきたのだ。
彼の知らない彼女がいた。そのことに遣る瀬無さと悔しさを覚えていた彼にとっては、そうした歪みを「己が見ている」こと自体、実に喜ばしいことであった。
見ていれば、認識していれば、助けに入ることができるのだから。たとえ彼女が助けを求めていなかったとしても、その行いの中に共に在ることができるのだから。

『貴方は間違っていません。仮に間違っていたとしても、わたしが支えます』
彼女の間違いを認識しなければ、こうして支えることさえも叶わないのだから。

「そろそろ、止血しましょうか」

「そうですね、名残惜しいけれど」

まだ歪みを残す発言を楽しんでいるらしい彼女の人差し指を包む。
薄明りの中でも、アクロマの白い手袋に血がさっと滲んだのが分かったのだろう。少女は先程までの朗らかさを一転させ、青ざめた、慌てた表情でその手を振り払おうとした。
以前のアクロマなら振り払われるままだっただろうけれど、今は違う。彼女が我に返ってその手から逃れようと必死になることなど予測できている。
その予測を踏まえて、彼女が逃れられないようにもう片方の手で事前に背中を抱くことくらい、今の彼ならば、その歪みに寄り添うことを誓った彼ならば造作もないのだ。

「やめて、やめてくださいアクロマさん。汚れますから」

「鮮やかで綺麗なものに染まることを「汚れる」とは言わないんですよ、シアさん」

手袋など洗えばいい。落ちなければ新しいものに買い替えればいい。
苺の茶葉も、ティーポットも、手袋も、全て、全て、替えの効くものだ。今、大事にすべきものではないことは明らかであった。
彼はものを蔑ろかつ乱暴に扱うような男ではなかったが、今この時ばかりはそうした替えの効くものを蔑ろにする必要があった。
蔑ろにしている様を、この少女に示す必要があったのだ。

だってこうでもしなければ、彼の想いは伝わらない。
そして、これ程までに愚行を重ねてもなお、アクロマがどうしようもない程に彼女を好きなことなど、彼女には伝わらない。伝えられない。
そして、それでいい。

「よく、頑張りましたね」

「!」

「この血が止まったら、今日のことを聞かせてくれますか。苦痛を誰かと共有するだけでも、随分と安心できるし、楽になれてしまうものですよ」

貴方が教えてくれたことです、と彼は笑う。そうでしたね、と告げる少女は笑えない。
言葉の末尾を震えさせた彼女の肩をあやすように叩く。苺の香りがふわりと漂ってくる。
声を上げて泣きじゃくるまでには至らなかったものの、素直に頭をこちらへと倒し、堪えていたものを吐き出すように、ぽつりぽつりと嗚咽をこちらの胸へと落とし始める。

息苦しさを覚える程に強く抱くのは、愛しさ極まって、などという理由ではない。泣くときに追随して起こりやすい過呼吸を抑えるためだ。
弱さ、というこの歪みをアクロマに開示しなかったこの数年間、彼女は何度この過呼吸を一人で乗り越えたのだろうと考えると、致命的な悔しさと遣る瀬無さに眩暈さえしてくる。
だからこそ、今できることは全てやってしまいたかった。
自らが彼女の傍に在る理由のひとつに「彼女が正しく呼吸をするため」というものが加えられるならば、それはいよいよ光栄で、喜ばしいことに違いなかったのだ。

これからアクロマは、彼女の指の止血を完璧に終える必要がある。
彼女の血と、床に零れた紅茶。これらに塗れた手袋と白衣を着替えて、それから新しく苺の紅茶を入れ直すのだ。
自室のソファにぐずる彼女を座らせて、少しずつ口を割ってくれる彼女に相槌を打ちながら、少しずつ紅茶に口を付ける。
長い夜、長い懺悔、経過する時間の中で苺の紅茶はすっかり冷え切ってしまうだろう。分かっていた。それでよかった。

明日になれば、彼女はいつものように元気な姿を見せる。
朗らかな笑顔と正常な呼吸をその身に宿した彼女は、強欲で傲慢なその思想を振りかざし、明日も多くの人に手を伸べようと走り回る。
そんな彼女を、間違っているとはアクロマは思わない。けれども間違っていたとしても、構わない。
それならそれで、今日のような夜がまたほんの少しばかり増えるだけの話だ。ほら、何の問題もないではないか。

「大丈夫ですよ、シアさん。貴方は間違っていません。仮に間違っていたとしても、わたしが支えます」

そうして今日もこの言葉が、彼の最愛を示すための言葉が、苺の香りのする夜に溶けていく。

2019.12.27
(最愛の人、貴方の傷をどうかわたしに)
夢に向かって懸命に走る私の大切な後輩へ

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