夜を夢見る藍

 1

(Pt連載「天を読む藍」既読推奨)

「今日もアカギさん、来ないねえ」

 子守歌のようにやわく紡がれたその音。この数週間、飽きることなく繰り返されたその言葉。冷たい床に膝を抱えて座り込むのは、まだローティーンの域にも達していなさそうな、十歳程の幼い子供である。その子供の指、短く切られたまるい爪にそっと触れるものがあった。
 薄く白い絹のような手で、飽きることなく繰り返し撫でている。星色のやわらかなヒダが少女の膝を包むように巻き付いている。ラグビーボールほどしかない小さな体躯でありながら、その仕草の全てが切実であり懸命である。労わっているようにも、守っているようにも、祈っているようにも見える。この少女の願いを「ほんとうに聞き届けよう」としているようにさえ見える。腹に飼われた、決して開くことのない三つ目の瞳と、大きな星の頭にたなびく三枚の短冊を今日も持て余している。鮮やかな浅葱色の短冊には何の願いも刻まれていない。願いが口にされないのだから、書き込むことなどできやしない。そう……こんなにも寂しそうで悲しそうな少女が目の前にいるというのに、このポケモンは己が役目……「願いを叶える」という大仕事を貰えずにいるのだ。

 少女の方へと真っ直ぐに向けられたそのポケモンの瞳は、瞬きを忘れる程のひたむきな切実さで、黒い色をずんと深めていた。頼むから願ってくれと、貴女が望みさえすれば叶えてあげられるのだからと、泣き出しそうに揺れる瞳でそう訴えているかのようであった。星に短冊に天使にと、めでたく有難く幸福なものばかり連想させる姿をしたポケモン。願われる側、希われる側であるはずのポケモン。にもかかわらず、彼の方が強く、強く、切実に願っていた。己が義務を健気にも果たさんと必死であるように思われた。

「……」

 ポケモンは、愛と信頼を寄せるトレーナーのためならば命さえ賭せる。そしてこのポケモンは、命などという大仰なものなど賭けずとも、この少女の、少々無茶な願いくらいいくらでも叶えてやれるような、その小さな体に似合わぬ強大な力を持つ存在である。大袈裟な表現などではなく、きっとこのポケモンは「何だって」できるのだ。自らの愛したトレーナーのためなら、そう、何だって。

「ふふ、ありがとうジラーチ。私は大丈夫だよ」

 けれども子供という生き物は……この少女はその傾向が特に強いようだが……果てしなく残酷で、かつ強情であるが故に、ポケモンが己に寄せる、奇跡にも似たその健気さを「ありがとう」などという、表向きひどく優しい言葉で弾き返してしまうのだった。つまはじきにされた小さなポケモンの大きな健気さは今日もこうして行き場を失くす。困り果てた様子の彼、ジラーチに、少女の隣、足を投げ出すようにして座り込んでいたサターンは、静かに視線を送りつつ、丁寧な沈黙を守ることでしか同情してやることができない。

 実のところ、サターンはこのポケモンが苦手だった。ギンガ団の幹部であった頃、この少女と戦う機会が何度かあったのだが、サターンはこの少女の、ジラーチ以外の手持ちを一切探れぬまま、ただこの小さな一匹にコテンパンにやられてしまったのだ。コロボーシと同程度にか弱い容姿をしておきながら、並以上の素早さで先制を取り、多種多様な高威力の技を容赦なく飛ばしてくる様は、天使のような見目でありながらいっそ悪魔じみていた。草むらから飛び出してきたビッパがいきなり「れいとうビーム」を飛ばして来るようなもの、とでも言えば分かりやすいかもしれない。
 その常識外れの強さ、たった一匹に手持ちを壊滅させられた屈辱、アカギ様のもとへこの悪魔を向かわせてしまったことへの後悔、その全てを彼は今でも鮮明に覚えている。そう、ポケモンにそれだけの力を出させたこの少女が、戦いの際、何かを期待するような粘つく視線をずっとこちらへ向けていたことも含めて、全て、全て覚えている。なかったことになどできやしない。

「サターンさん、今日もこのビルは寂しいままだね。悲しいね」
「お前は、そうなんだろうな」
「あなたは違うの?」

 そう、そもそもこの幼く残酷な少女は祈る先を、願う相手を間違えている。すぐ傍に「どうか願ってくれ」としているジラーチがいるにもかかわらず、彼女はいつだって「我々」を見るのだ。じっとりと粘ついた藍色の目は、何かを願うように、期待するように、サターンへ、マーズやジュピターへ、そしてアカギ様へと向けられていた。まるで「あなたたちにしか叶えられないことがある」と訴えているかのようであった。その不気味な視線が、サターンはずっと恐ろしかった。ジラーチの悪魔めいた強さよりも、本当は彼女の目の方がずっと、苦手だった。
 彼女のその目は、ギンガ団が解散してからも逸らされることがない。サターンは今日も今日とてその視線から逃れることができていない。

「アカギ様が戻らないこの状況を指して『悲しい』と言っているのなら、愚問だな。今更、悲しいなどと思いやしないさ」
「そうなの?」
「仮に悲しかったとして、お前のように悲しみ尽くせる時期はもうとっくに過ぎた。カレンダーをよく見ろ、あれから何週間経ったと思っている?」

 多少の虚勢が混じっていることなど承知の上で、敢えて冷たく言い放つ。視線から逃れることのできないサターンの、せめてもの反撃であった。お前と一緒にしてくれるなという彼なりの抗議、しかし少女は全く意に介さない。それどころか、眠そうに細めた目を三日月形にきゅっと丸めつつ、頬をほころばせてひどく嬉しそうにこんなことまでのたまうのだから、ほらもう本当に、埒が明かない。

「サターンさん、強がりが上手だね」
「……」
「私、知っているんだよ。サターンさんが本当は悲しいと思っていることも、マーズさんやジュピターさんが寂しがっていることも、アカギさんがこのまま終わらないことも」

 それはそうだろう。彼女にとっては「そう」でなければいけないのだ。少女はサターンの「悲しい」に同意を寄せるため、「寂しいね」と困り顔で笑い合うために、毎日のようにこのギンガトバリビルを訪れているのだから。本当にサターンが今回のギンガ団解散において何の感情も持っていないのであれば、彼女が此処に来る意義が崩れてしまう。そんなことは許されない。彼女の認識において絶対に許されない。

 そしてまた、サターンにとっても「悲しくない」は在り得ないことだった。何も思っていないはずがない。何も感じていないはずがない。本当に「悲しくない」のなら、彼はきっと誰よりも早くこのギンガトバリビルから立ち去り、このような歪な組織のことなどすぐにでも忘れてしまえただろう。そうできていないのだから、つまりは……そういうことなのだ。

「いつか、またみんなに会えるといいね。そんな日、きっともうすぐやって来るよね」

 そんな、正気を疑いたくなるような夢物語を、膝を抱えた少女はうっとりとした目で語る。そんな日がもう何日、何週間と続いている。自らアカギ様を見つけ出すこともできず、ジラーチの力を借りて強引に彼を連れて来ることもしたくないらしいこの少女は、それ故に今日もこの場所を訪れて、こうしてサターンに狂ったお伽話を聞かせ続けるしかないのだ。

 マーズもジュピターも姿を眩ませ行方の知れない今、唯一、ギンガ団の名残を宿したこの男、サターンの元でなければ、そうした僅かばかりの充足さえ得られない。すなわち彼女は「寂しい」「悲しい」と感じる仲間を手放すまいと躍起になっているのだ。仲間を得て、共に停滞できることを喜んで、ただ同じ場所で待つばかり。挙句の果てには「いつか王子様がやってくる」に似た、優しく残酷な夢物語を大仰に掲げ、お伽話の続きはまた明日とでも言わんばかりに、眠そうに楽しそうに笑ってのけてしまう。
 要するにサターンは、彼女が本当に来訪を望んでいる男、アカギ様の「代わり」であるのだろう。体のいい代替品、とも言っていい。無様な停滞における都合の良い道連れ、とさえ捉えられるかもしれない。子供というのは……この少女はその傾向が特に強いようだが……このように悪意など持っておらずとも、その純朴さが故に、大人をもぞっとさせるような残酷さを無遠慮かつ無自覚に発揮してくるものなのだ。

「みんなで集まることができたら、今度こそ、沢山おはなししないとね。喧嘩もして、時間をかけて分かり合って、家族みたいに楽しく過ごせるようにするの」
「……」
「そんな世界を私は知ってる。きっといつかそうなること、私はちゃんと分かってる」

 その残酷なままごとに付き合い、彼女の語る「いつか王子様が」に同意を続ける義理など、サターンにはない。戦う意思を持たないこの子供の首根っこを捕まえて、ビルの外にひょいと放り投げることなど簡単にできる。にもかかわらずサターンは、明日こそ明日こそとその日を先送りにし続けている。体のいい代替品であり惨めな停滞の道連れにされているという自覚がありながら、それでも今日も今日とてそんな少女の残酷さを許し、彼女の不気味な夢物語に甘んじ続けている。

「それはまた、めでたい話だな」
「そうでしょう? だから私、待っているんだよ」

 お前やわたしがいくら此処で待ったところで、アカギ様はお戻りになどならないさ。
 そうした惨い言葉さえ、サターンは飲み込み続けている。少女のため、などという優しさを語るつもりはない。これはサターン自身のための秘匿であり沈黙であり、同意だ。サターンもまた、失いたくないだけなのだ。これからどうするべきか分からず、無様に停滞を続けるしかない状況で、ずっと独りであるよりかはまだマシだと感じただけなのだ。こんな不気味な目をした狂った少女が相手であったとしても、体よく利用されているだけであり道連れとして引き込まれるばかりであったとしても、それでも、いてくれた方が「悲しくない」というだけなのだ。

「ここよりずっと素敵なところ、みんなが悲しくならないところへ、一緒に行ける日を待っているの」

 そんな未来が本当に訪れたならどんなにかよかったろう。
 そんなめでたい未来を信じられる程度に狂ってしまえればどんなにか楽になれたろう。
 などと一瞬でも思ってしまった自分の心を、あの方のように頑なに否定して、殺してしまいたくはなかったという、ただそれだけのことなのだ。

2022.1.24

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