5 - Jupiter (2) -
「あの子を差し向けなければいけない」
研究室から出てきたサターンにそう告げれば、彼は訝しそうに眉をひそめたが、直ぐにその言葉の意味するところに気付いたのだろう、呆れたように笑い、溜め息を吐いた。
彼はあたしよりもずっと聡明で冷静で、それでいて勇敢な人だ。ジュピターはこの同僚のことをそういった風に認識していた。
故に自らが知ってしまったこの情報を開示することができる相手がいるとして、それはマーズではなくこの人なのだろうと、解っていた。
マーズはやや幼すぎた。寧ろ彼女に対してはジュピターの方が助言を「行う側」であり、また「導く側」でもあった。
だからこそ、ジュピター自身の意見が固まっていないうちから、彼女に全てを開示し意見を求めるのはどうしても躊躇われたのだ。
プルートも頭の切れる男ではあったのだろうけれど、彼の中にギンガ団への愛着やアカギへの尊敬の念がないことなど、一目瞭然であった。
アカギ自身に直接確認を仰ぐことなど、もっての外だった。故にこの男しかいなかったのだろう。
そしてこの男はジュピターの目利きに応えるが如く、彼女のそんな言葉に驚きも当惑も示さず、ただ淡々と溜め息を吐き、呆れたように笑ったのだ。
彼はジュピターのように少女から強引に全てを聞き出さずとも、きっと独りで「真実」に辿り着いていたのだろうと、その表情から容易に察することができてしまった。
「どうした、お前はアカギ様の考えを全面的に支持しているものだと思っていたが」
「……あたしはそこまで信心深くないわ。寧ろ、いつも疑っていた。でもあの子が真実を拾って来なければ、きっとこんな風に動き出すことはなかったのでしょうね」
ジュピターは他の団員のような「アカギ様」に対する信心深さも、マーズのような何もかもを楽天的に考えることのできる愚直な思考も、
プルートのように自分だけが美味しい思いをすればいいとする利己的な欲望も、サターンのように一人で真実に辿り着けるだけの聡明さも、持ち合わせていなかった。
何もかもが自分には少しずつ欠けているように思われた。誰もが何かに突出し得る才を持つこの組織の中で、自分というのは悉く中途半端な存在なのではと恐れていた。
けれど彼女が立たざるを得なかった、どこまでも中立のフラットな立場は、誰にも肩入れすることのない自由な思考を可能にした。
あたしはアカギ様に何もかもを捧げられる程に信心深くはない。何が起きても平気だと笑って受け入れられる程に楽天的でもない。
自分だけが助かればいいと利己的に動くだけの度胸もない。一人で真実に辿り着き、最善を導き出せる程に聡明でもない。
けれど、だからこそできることがあるのだと信じていた。自分は何も持たない、つまらない人間の中に埋もれてしまうような存在ではないのだと思いたかった。
『何かあればいつでも言いたまえ。できる限り力になろう。』
アカギは自分たちのことを信用などしていなかった。使えない連中だと吐き捨てていた。
けれどそうしたつまらない連中の中で、ジュピターを「マシ」な人間として幹部へと引き抜いたのだ。
自分にはそうした才が少なからずある筈だと、自惚れることくらい許されるのではないかと思ってしまった。
そうとでも考えなければおそらく、彼女の心は絶望に押し潰されてしまっていただろう。
「あたしはつまらない人間よ。ギンガ団はそうした、使えない連中の集まりだったの。
あたし達は見限られるわ。利用するだけして捨てられる。あたし達じゃそれを止められない。あたし達の言葉なんてアカギ様には届かない」
「……あの子供になら阻止が叶うと?つまりお前はヒカリを利用して、この組織を崩しに掛かろうというのだな?」
「何とでも言いなさい。あたしはアカギ様には従えない。あたしはギンガ団幹部として、あの人が裏切ろうとしている全てのものを守らなきゃいけない」
それに、と続けた言葉に、サターンは訝しそうに首を捻り「どうした」と続きを促した。
『アカギさん、悲しそうだった。拒まれた皆の方がずっと悲しい筈なのに、拒んだ側のアカギさんも、もっと、ずっと悲しそうだったんだよ。』
少女の縋るようなあの言葉をジュピターは思い出していた。
「あたしにはアカギ様がどんな方法を取るのか見当もつかないけれど、でもそうやってあの人が望んだ世界を作り上げたとして、きっとアカギ様は報われないわ」
「……あの子供が、そう言ったのか」
ああ、やはりこの男には全てお見通しだったらしい。「敵わないわね」と笑いながら肯定の意を示せば、彼は納得したように小さく頷いた。
『皆のことを悪く言っていたの。役に立たない、使えない連中だって。私は誰にも心を許さない、誰にも心を開かないって。』
あの少女とて、ただジュピターを絶望せしめるためだけに、アカギのあの言葉を伝えた訳では決してなかったのだろう。
「貴方たちに心を開けない程にアカギさんは苦しんでいる。悲しんでいる。だからどうか助けてほしい」
そうした懇願があの言葉には含まれていたのだ。あの時よりも幾分か冷静になった今なら、そのように理解することができた。
「あたしはアカギ様には従えない。でもあの人のことは慕っている。尊敬している。あたしは自分や自分の部下のことも大事だけれど、同じようにあの人のことだって大切よ。
だからアカギ様をお止めしたい。アカギ様に、悲しいままで終わってほしくなんかない」
それを邪魔するのなら、たとえこれまで一緒に働いてきたあんたにだって容赦はしない。
そうした強い意思を込めて、ジュピターはサターンの目をしかと見据えた。長い沈黙が部屋を埋め続けていた。細く長く吐き出す息の音すら聞こえてきそうだった。
彼はおそらくその、平静を保った表情の奥、凄まじいスピードで思考を巡らせていたのだろう。やがて小さく溜め息を吐き、困ったように笑いながら口を開いた。
「……いいだろう。どの道、この組織の未来など知れている。それならばできることは全てやっておきたい」
その言葉に、ジュピターがどれ程安堵したかは想像に難くないだろう。
この人に相談してよかった。そう、心から思ったのだ。失うものなど何もなかった。
「では、これから我々は裏切り者という訳だ」と、少しばかり楽しそうな声音で宣言した彼は、すっとこちらに手を伸べてくる。
僅かな逡巡の後に握り返せば、恐ろしい程の力で握り締められた。ああ、彼も必死なのだと、強く握り返して、泣きそうになった。
「ありがとう。……こんなこと言いたくないけれど、あたし一人じゃ何もできなかった」
「馬鹿を言え、それは私だって同じだ。お前がこうして口火を切らなければ、私は最後までただ見ているだけだったのだから」
皮肉なことに、固く結ばれたその手の温度によって、初めて彼女は「ギンガ団の一員」であるのだと痛感するに至ったのだ。
絶望的な状況にあったからこそ、そこで見つけた一筋の光は、猛毒ともとれる目を穿つような眩さで、二人の踏み出した足の先を照らしていたのだ。
彼女に賭けてみることにした。
*
ジュピターとサターンは、自らの信頼する部下たちに今回のことを知らせた。
アカギを盲信する風潮はギンガ団全体に及んでいたが、注意深く観察すれば、この組織自体に不安や懸念を抱いている者を探し出すのはそう困難なことではなかった。
いよいよ計画が実行に移され、湖でポケモンを捕まえ、彼等から「赤い鎖」と呼ばれるものを取り出す段階になると、
そのポケモンへの仕打ちの惨さを目の当たりにした者からも「アカギ様についていく自信がなくなった」と、恐怖と不安を露わにする者が次々と現れた。
二人はそうした者たちに真摯に、誠実に、一人一人と向き合って言葉を重ねた。
「アカギ様は我々をただ利用しようとしているだけなのかもしれない。我々は便利な駒でしかなかったのかもしれない」
「もし彼の言うような新しい宇宙が造られたとして、ではこの世界はどうなるのか?我々は無事でいられるのか?」
「しかし我々ではあのお方を止められない。何よりこの組織に置いてもらった恩を、謀反という形で返す訳にはいかない」
「では、誰ならアカギ様を止められるのか?誰ならあのお方の、この組織の歪みを取り払えるのか?」
そうして、誰もが苦悩と葛藤の果てに、一人の少女の名前を弾き出すに至った頃、彼等の長はついに動き出した。
*
やはりあの少女の言葉は正しかった。
これはアカギの独り善がりな悲しい暴挙に過ぎなかったのだと、目の前に現れた不思議な空間を茫然と見ながら、ジュピターは改めてその虚しさを噛み締めていた。
伝説のポケモンを呼び出して新しい世界を造ったとして、誰もかもの心を消したとして、その先には一体、何があるというのだろう。
何も生まれない。誰も救われない。こんな破滅的な終わり方が、許されていい筈がない。
「ジュピター」と震える声で名前が呼ばれた。隣でマーズが縋るように彼女を見上げていたのだ。その手を強く握り締めて、大丈夫、大丈夫だからと繰り返した。
「あたし達ができることは、全てやったわ。後はあの子に任せましょう」
今すべきは、これから消え行くかもしれない世界に絶望することではなく、あの子の小さな歩幅が彼の心の奥深くにまで歩みを進められるようにと祈ることだ。
そう心得ていたから、ジュピターは不安や恐怖の類を一切、口に出さなかった。
本当は心臓の底で渦を巻く何もかもが弾け飛んでしまいそうな程に、平静など保てる筈がなかったのだけれど、それでも気丈な笑顔を保っていた。
大丈夫だと、マーズにも自分にも言い聞かせるように繰り返した。
永遠とも取れる時間がその場を支配していた。
暫くして、闇を切り取ったようにぽっかりと空いた穴は、まるでそんなものなど初めから存在していなかったかのように、跡形もなく消えてしまった。
この時間と空間を完全に我が物とするかのような、圧倒的な威圧感を放つ二匹のポケモンも、いつの間にかいなくなっていた。小さな三匹のポケモンも、見つからなかった。
何が起こったのか、二人には知る由もなかった。
けれど確かに解ることが一つだけあった。ジュピターもマーズも生きていたのだ。
空は変わらず、冷たい風をこの山の頂に運んでいて、降り出した雪に二人は身震いすることができた。
自らの心も、体も、世界も変わらず此処に在るのだと、理解してようやくジュピターはぼろぼろと涙を零した。互いに互いの涙を拭いながら笑った。何も考えられなかった。
何もかもが守られたのだと、噛み締めるように嗚咽を噛み殺そうとした。けれど一抹の不安が、山を下りる二人の足取りを重くさせていた。
彼と少女が、見つからなかった。
2016.3.19
(静かに凪ぐ緑)