天を読む藍

4 - Jupiter(1) -

彼女は子供が苦手だった。というより、自分よりも弱いもの、幼いものと関わることを悉く避けていたのだ。
触れれば折れてしまいそうに細い花の茎、凍える朝の水溜まりに張られた薄い氷、睨みつければ直ぐに泣き出してしまうような幼子、そんな何もかもを厭う女性だった。
その弱さと脆さに絆されてしまうような気がしたからだ。自分までそうなってしまうのではと恐れていたからだ。

彼女は強く在らなければいけなかった。それがギンガ団幹部としてのジュピターの使命であった。
彼女一人の手に抱えられるものはあまりにも少なく、それ故に彼女はそうした、「思わず手を伸べたくなるようなか弱いもの」を視界に入れることを拒んだ。
中途半端な強さを持つ者に対しては容赦なく力を振るった。あたしに構わないでと棘を纏い、最低限のものだけを傍に据えた。

「ジュピターは偉いわね。いろんなことを考えて生きているのね」

彼女の同僚であるマーズは、そうした彼女の「最低限」に属する、彼女より弱いものであり、かつ彼女がそれなりに大切にしている存在だったのだろう。
マーズは彼女より少しばかり年下だった。しかも気丈で強気だった。それ故に自らの視野の狭さに気付くことをしなかった。気付かなくても、これまでやって来られていたのだ。
しかし彼女よりも少しばかり年上で、彼女よりも幾分か冷静で臆病なジュピターは、彼女の見えないところを見てしまう。
ギンガ団の「アカギ様」に対する盲信を、少しばかり訝しんでしまう。

「わたしはそれを憎む。不完全であることを全力で憎む。世界は完全であるべきだ。世界は変わらなければならない」

彼の演説を聞きながら、ジュピターはぼんやりと考えていた。考えれば考える程に、不安が足元からずるずると纏わりつき、彼女の呼吸を重くさせた。
このままでいいのだろうか?彼は肝心なことを、あたし達に何一つ知らせていないのではないか?あたし達は、何も知らないままに彼へ付き従っていていいのだろうか?

「そうとも、諸君!わたしが夢に描いてきた世界が、現実のものとなる!」

しかしそうした懸念を、幹部である彼女が声に出すことなど許されなかった。
彼女の不安はそのまま、彼女の部下である団員達に影響を及ぼし、ギンガ団全体の士気を下げることに繋がると心得ていたからだ。
何の確信もない曖昧な「懸念」で、組織の歯車を狂わせることなど、したくなかった。アカギを、ギンガ団を、慕う彼女の心に嘘はなかったからだ。

けれど演説を終えたアカギは、そうした浮かない顔をしている彼女を看過することができなかったらしい。
「ジュピター」と名前を呼ばれ、慌てたように上擦った声で返事をする彼女に、彼は苦笑しながら「驚かせたか、すまない」と謝罪を付け足した。

「何か気掛かりなことでもあるのか?」

「いいえ、何も」

「そうか、何かあればいつでも言いたまえ。できる限り力になろう」

そうしてまた一つ、彼女の心に罪の影が落ちる。
彼は素晴らしい人だ。ジュピターもまたそう信じていた。これからも信じていたかった。
彼の誠実な面を見る度に「彼を疑う私はやはり間違っているのではないか」と、その疑念はアカギではなく彼女自身を深々と突き刺した。
けれど彼を他の団員のように盲信するには、やはり真実が足りなさすぎるように思えたのだ。彼は、肝心なところを話していないのではないかと、疑わずにはいられなかった。

「新しい宇宙を造ることに成功したとして、あたし達がそこに在ることを貴方は許すのですか?」
ただそれだけが知りたかった。けれどどうしても尋ねることができなかった。
彼はおそらく、そのつもりであってもそのつもりが微塵もなかったとしても「勿論だとも、君達の、我々のための宇宙だ」と告げて柔和に笑うだろう。
そうすればジュピターは、いよいよ彼を疑うための要素を失くしてしまう。
そんなにも優しい笑顔で優しい誠意を見せてくれる彼を、いつまでも疑い続ける自分こそが間違っているのだと、いよいよ確信せざるを得なくなってしまう。
だからそうした疑念を抱いたとして、ジュピターには確認する術がなかったのだ。何もかもが解らないままだった。そうして、彼女は疲れていった。

だからこそ「彼女」は、ギンガ団に姿を現したのだろう。
ジュピターが口にすることのできなかった全てを音にするために、その無垢な響きで彼等の心を揺らすために、彼女は此処に訪れたのだろう。

彼女は猛毒だった。

「アカギさんはいつも悲しそうだね。ジュピターさんは、そう思わない?」

そんな彼女の言葉を、ジュピターは「年上には敬語を遣いなさい」という一言で一掃した。
けれどそうした、彼女が決して口にすることの許されなかったあまりにも真っ直ぐな疑念は、再び宙へと浮き上がって彼女の背中にべっとりと貼り付き、いつまでも残り続けた。
「ごめんなさい」と困ったように笑いながら、彼女は申し訳なさそうにその藍色の目を細めた。

彼女は子供が苦手だ。特にこの女の子のような、無垢でか弱くて、少し触れれば折れてしまいそうな程に華奢な存在が苦手だ。
トバリシティにあるギンガ団のアジトにこの少女が足を運ぶ度に、彼女の心は重く、憂うつになった。
けれどそうした彼女の心に反して、彼女はアカギやマーズを慕うのと同じように、ジュピターさん、ジュピターさんと、か細い声音で彼女の名を呼ぶ。
何かしら、と努めて冷静に振り返れば、ただそれだけのことを喜ぶようにふわりと、陽に溶けそうな笑顔を浮かべてみせる。
苦手だった。彼女に自分の悪いところを何もかも見透かされているようで、この子は自分には見えない何もかもを見ているようで、不気味で恐ろしく、それ故に苦手だったのだ。

「ジュピターさんはアカギさんのことが好き、ですか?」

「……ええ、慕っているわ。彼は立派な人だもの」

何故そんなことを聞くのだろうと、少しばかり怪訝そうな顔をしながらも答えれば、
しかし少女は考え込むような素振りをした後で、「そうだよね」と、何かを悲しむように目を伏せて答えたのだ。
ジュピターは思わず、その少女の肩を掴んでいた。「何を知っているの」と大声で口にしていた。
不思議そうに首を捻る彼女に、ジュピターは続けてまくし立てた。

「貴方は何を知っているの?答えなさい」

この少女には、あたし達が見ることの叶わないものが見えている。あたし達が聞くことの叶わないものが聞こえている。ジュピターはそうした確信の下に少女を問い詰めた。
ギンガ団という確固たる組織に吹き荒れたこの小さな、それでいてどこまでも大きな嵐は、その爆風や轟音と共に全てを巻き上げていったのだろう。
その「全て」の中には、おそらくジュピターがずっと知りたかった、それでいてずっと知ることの叶わなかったものが、必ず入っている。

少女は驚いたように目を見開いていた。しかしそれだけだった。大人に物凄い剣幕で詰め寄られているというのに、彼女の藍色には一切の恐怖の色が見えなかったのだ。
やがて彼女はその目を細め、ニット帽の端を両手で握りながらそっと俯いた。

「アカギさん、心が嫌いなんだって」

「……」

「皆のことを悪く言っていたの。役に立たない、使えない連中だって。私は誰にも心を許さない、誰にも心を開かないって」

ぱち、ぱちとぎこちなく瞬きをした。化粧が崩れるのも構わずに目を乱暴に擦った。
けれどどうやっても目の前の少女は消えてくれない。その残酷な事実をなかったことになどできやしない。「もう一度言ってみなさい」と催促することなどもっての外だった。

これだ、彼はこれを隠していたのだと、気付いた瞬間、ジュピターは自分の机に置かれていた何もかもを両手で薙ぎ落としていた。
飲みかけの缶コーヒーが床に茶色い染みを作った。その上にバサバサと白い書類が降り積もった。使い慣れたボールペンのキャップが、遠くへカラカラと転がっていった。
そうした何もかもが奏でる絶望の響きを、ジュピターはその場に膝を折り、ただ聴いていた。
少女は驚愕に息を飲んだけれど、直ぐに慌てて彼女へと駆け寄り、縋るように彼女の肩を強く掴んだ。

「大丈夫?どうしたの、ジュピターさん……」

「嘘吐き!」

ジュピターは彼女の手を掴み、自らの腕に引き込んだ。壊してしまうのではないかと思うくらいに強く、強く抱き締めて叫んだ。
彼女は子供であった。ジュピターの激情の裏に潜んだ悲しい真実の何もかもを理解しない、無知で無垢な少女だった。
しかし彼女にしか告げようのない激情であったから、ジュピターはその衝動のままに、吐き出したのだ。

『わたしはそれを憎む。不完全であることを全力で憎む。世界は完全であるべきだ。世界は変わらなければならない。』
『何かあればいつでも言いたまえ。できる限り力になろう。』

嘘吐き、嘘吐き!
あたし達のための世界を用意するつもりなんか、これっぽっちもなかった癖に。
最初から、あたしのこともマーズのことも、サターンのことも、プルートのことだって、誰一人信用していなかった癖に。
ああして毎日のように熱い演説を繰り広げながら、その言葉に容易く翻弄されるあたし達を、陰でずっと笑っていた癖に。
あたし達は最初から、利用できるだけ利用して、価値がなくなれば簡単に捨ててしまえるような、そんな、つまらない存在でしかなかった癖に。

「でも、でもねジュピターさん」

少女は縋るように彼女を追い詰める。

「アカギさん、悲しそうだった。拒まれた皆の方がずっと悲しい筈なのに、拒んだ側のアカギさんも、もっと、ずっと悲しそうだったんだよ」

2016.3.19

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