天を読む藍

6 - Saturn (1) -

この青年はもう随分と早い段階から、この組織の長であるアカギと、その彼が統べる団員との間に、あまりにも大きな心の隔絶があることを見抜いていた。
ギンガ団はそうした、どうしようもなく滑稽な組織であることを理解していた。

「サターンさん、マーズさんにクッキーを貰ったから、一緒に食べよう」

故に彼は、この組織のことを何も理解しない、理解しようのないこの幼すぎる少女を、早急に追い出さなければいけなかったのだ。
このような場所に入れ込むには、彼女はあまりにも眩しすぎるように思えてならなかった。
彼女の真っ直ぐな心を、我々が食い潰してしまうのではと少しばかり恐れていたのだ。
特に子供が苦手である、という訳ではなかったし、別段彼女を嫌っている訳でも決してなかったのだが、努めてサターンは彼女に厳しい態度で接した。

しかしそうした彼の態度にも少女は屈さなかった。彼の拒絶が目に余る程にはっきりとしたものになっても、少女は彼を慕うことを止めなかった。
私に構うなと、此処はお前のような子供が来る場所ではないと、幾ら言っても聞かなかった。
彼女はいつだって小さな足を懸命に動かして、彼の後ろを忙しなく追いかけていた。
待って、待ってと告げながら追い掛けるその健気な姿に、すれ違う下っ端が「サターンさん、ヒカリが呼んでいますよ」と苦笑しながら告げることも少なくなかった。

自らの強情な拒絶を幾ら繰り返したところで暖簾に腕押しにしかならないのだと悟った青年は、暫くして彼女を拒むことを止めた。
少女はとても嬉しそうに、それでいて何処か安心したように笑うようになった。

「サターンさん、お仕事忙しい?静かにしているから、だから、此処にいてもいいかなあ?」

「別に構わない。多少煩くしたところで私は気にしないから好きに遊ぶといい」

「ありがとう!」

トバリシティにあるギンガ団のアジトに、子供が喜ぶものなどある筈もなかった。
故にこの場所に飽きるのも時間の問題だろうと踏んでいたのだが、彼女はどうやらアジトの中で、自分を満足させる遊び道具を見つけたらしい。
幹部の執務室やアカギの自室などを行き来する彼女は、いつしかその両手に余る程に大きな、古びた分厚い図鑑を抱えて離さないようになった。
10歳の子供がその本の内容を理解できるとはとても思えなかったが、彼女が楽しんでいるのはどうやらその文章ではなく、図鑑に散りばめられた「挿絵」の方であるらしく、
幹部の執務室に置かれた、誰も使っていないオフィス用の椅子に座り、足をぶらぶらと揺らしながら夢中でページを捲る姿は、半ばこの部屋の名物と化していた。

一度だけ、その図鑑を見せてもらったことがある。
この星の外に広がる限りない宇宙のことが、太陽系の惑星を中心に、小さな文字でびっしりと書き連ねられていた。
ページの縁は、長らく外気や日光に曝されたためか、薄いセピア色を呈していた。

少女は特に聡明であるという風には見えなかったし、勤勉であるようにも思えなかった。
そんな彼女が手にしている図鑑が、「他者の所有物」であることを見抜くことはあまりにも容易であった。
一体誰に貰ったのかとサターンが尋ねようとしたが、その必要はなかった。何故ならその紺色の背表紙に「アカギ」という刺繍が、繊細な金の糸で施されていたからである。

思わず図鑑を取り落とせば、少女は驚きにびく、と肩を跳ねさせた。
どうしたの、と心配そうに駆け寄って来た少女の手をサターンは掴んだ。
心音がこの部屋に木霊しているのではないか。そう錯覚する程に彼の心臓は揺れ過ぎていた。

「アカギ様のことは、好きか」

震える声でそう尋ねれば、少女は屈託のない笑みで「大好き!」と、残酷な答えを告げてみせたのだ。

「今まで夜は暗くて怖かったけれど、でもアカギさんが宇宙のことを教えてくれたから、私、夜が怖くなくなったんだよ。
夜は私達が宇宙を見ることができる、とても素敵な時間なんだって。あの黒い空は、この図鑑に描き表せられないくらい、もっとずっと広いところへ続いているんだって」

行ってみたいなあ、と、その彼方へ焦がれるような表情で呟いた少女に、サターンは恐れを抱いた。
この少女はまだ10歳だ。暗闇を恐れる程に幼い、ただの子供だ。駆け出しの、少しポケモンバトルが強いだけのただのポケモントレーナーだ。
そんな少女の何をアカギが気に入ったのかは定かではない。彼の考えることなど、サターンに解る筈もない。
ただ確実なのは、彼は酷く少女に入れ込んでいるということだ。自らの図鑑を貸し与える程に。そうした「宇宙」のことを、自らの野望を、語って聞かせてしまう程に。

この子供は、アカギ様に連れて行かれてしまうのかもしれない。そして、二度と戻ってくることはないのかもしれない。

逃げるべきなのではないか、と思った。
幸いにもこの少女はサターンを慕っている。おそらく、少女がアカギの次に親しみを感じているのは自分なのであろう、という程度の自負がサターンには既にあった。
彼の口車に乗せられて彼を盲信した、自分のような思慮の足りない大人が彼に利用され裏切られることは、最早止めようがないし、防ぎようがない。
アカギの巧みな話術と暴力的もとれそうなカリスマ性に、抗うことができなかった。彼を疑うことを長らく忘れ過ぎていた。
そうした、大人である自分たちに責任があるのだと、自らの運命を受け入れるための覚悟ならとうに出来ている。

「私は嫌いだ」

「!」

「あのお方が、この組織が、どうしようもなく、嫌いだ……!」

しかしこの少女は?
人を疑うことを知らず、ギンガ団が「悪い」組織であることすら理解できない程に幼いこの少女が、何も知らぬままアカギの手に掛かるのはあまりにも惨いことなのではないか?
誰かが、彼女を彼の手から守らなければいけないのではないか?
そしてそれができるのは、アカギと団員との間に生じた確固たる隔絶に早いうちから気付いていた、自分以外にはあり得ないのではないか?
今すぐにでも、自分はギンガ団の何もかもを裏切り、この少女を連れて遠くへと逃げるべきなのではないか?
アカギの都合のいい駒で終わりたくないのなら、何より、この少女を守りたいのなら、そうすべきなのではないか?

そうした逡巡の間に、少女はサターンの服の裾を掴み、縋るように彼を見上げた。
「サターンさんも、悲しい顔をするね」という言葉はあまりにも雄弁に彼の心臓を穿ち、暴走しかけていた彼の思考を急激に冷やしていった。

「アカギさんもそうやってよく、悲しそうな顔をするよ。嫌いって言葉は相手も自分も悲しくさせるんだね。
私、皆が悲しくならないようにしたい。私にできること、あるかなあ?」

悲しい。
その単語はサターンの心臓の、音を立てて醜く崩れてしまったところを埋め合わせるかのようにぴたりと収まり、彼は先程の憤りと焦燥を忘れたかのように沈黙した。
細く長く息を吐き出し、縋るような目でこちらを見上げる少女に掛けるべき言葉を考えていた。

「……もしアカギ様がお前を利用しようとしていたら、お前を都合のいい道具としか見ていないのだとしたら、どうする?」

そうして口にしてしまったその言葉に、少女は泣きそうに顔を歪めるものだから、彼は慌てて「仮定の話だ」と付け足した。
尋ねてはいけないことを尋ねてしまったのだと、しかしそう悔いたとしても紡がれた言葉をなかったことになどできないから、半ば自暴自棄になって更に続けた。

「もしそうだとしたら、お前はアカギ様に利用されることを拒み、遠くへ逃げるか?お前を道具としか見ていなかったあの方のことを、憎いと思うか?」

その言葉を受けて、藍色の目がパチパチと大きく瞬きをした。あの方はこの夜色をした目に宇宙の煌めきを見たのではと推測してしまい、そんな自分に悉く呆れた。
この少女は聡明でも慧眼でもなかった。人の言葉の裏を読まないし、顔色から何かを窺うといった術も身に付けていない。
あまりにも幸福で、恵まれた育ち方をしていたのだろう。そんな彼女に不幸せな仮定を問うたところで、きっとサターンの望むような有益な答えなど返って来ない。
解っていた。そんなこと、彼はよく理解していた。解った上で問うたのだ。一人でその荷物を、この組織の歪みを抱え続けることに、彼はいよいよ疲れていた。

「……そうだとしたら、とても悲しいけれど、」

しかし戸惑いがちに紡がれたその言葉の続きがどうしようもない程に残酷で、それでいて真理の真ん中を射抜く鋭いものだったので、彼は自分の耳を、塞ぎたくなってしまった。

「それでもアカギさんのことは、好きだなあ」

彼の決して届かないところに立つ少女が、彼の忘れてしまったことを当然のように差し出す少女が、あまりにも眩しかった。
彼はようやく少女の手を離し、「そうか」と微笑んだ。何もかもを諦める準備が整い始めていた。

実のところ、サターンとて、この組織の実情を知るに至った段階で、一人でこの組織を抜け出すことなど簡単にできたのだ。
彼は幹部という重役に就いてこそいたが、アカギは来る者拒まず去る者追わずの姿勢を貫いていたため、おそらく脱退の意思を示したとして、彼はサターンを止めなかっただろう。
そうして彼の支配から逃れ、彼の造り上げた新しい世界が、サターンの住むこの世界を脅かさないことを、ひっそりと祈りながら穏やかに暮らすことだってできたのだろう。

しかしサターンはそうしなかった。自らだけの保身を貫くことがどうしてもできなかったのだ。理由は簡単なことで、彼はこの組織に長く居過ぎていたのだ。
故に組織に対する愛着はおそらく並みの団員以上のものであったのだろう。そう易々と切って捨ててしまえるような位置に「ギンガ団」はなかったのだろう。
そして唯一、この組織から逃げ出す理由となる筈であったこの少女が、「それでもアカギさんが好きだ」と、彼を見限らない旨の意思をはっきりと告げたのだ。
どうしてその意思を無視して、彼女をこの場から逃がすことができただろう?

「私もこの組織が好きだ。嫌いだが、同時に好きでもある。憐れだろう?」

「……どうして?嫌いでも好きでも一緒にいられるなんて、素敵なことだと思う」

いよいよ彼は声を上げて笑い出し、少女を強く抱き締めその陽気な音の中に自らの嗚咽を隠した。

2016.3.19

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